32 頼み
春休みが終わる直前、アリスを通じて、浩太さんから連絡が来た。あたしと二人で話したいらしい。昼下がり、阪急三宮のドトールで、あたしたちは待ち合わせた。
「蘭ちゃん、何にする?」
「ホットのブレンドで」
「呼んだ手前、奢るわ」
「ありがとうございます」
あたしたちは二階の席に向かい合って座った。浩太さんは単刀直入に切り出した。
「蘭ちゃん。健介と、手ぇ切ってほしい」
「なんでか、教えてくれますか?」
浩太さんは真っ直ぐにあたしの顔を見て言った。
「健介とは、あれからちょいちょい連絡取るようになった。彼女ができたって話も聞いた。蘭ちゃん、もう引いたってくれ。蘭ちゃんがおると、あいつはダメになる」
「……そうですか」
それから、浩太さんは昔話をしてくれた。父親の居ない高校生同士、二人は慰め合っていたのだという。そのとき、健介は言っていたのだと。自分はしっかり子供を愛してやれる父親になりたいと。
「オレは、浩太に幸せになってほしい。人並みの幸せをな。蘭ちゃんは、健介と結婚する気、ないやろ?」
「はい、ないです」
「ほな、もう離れたってくれ」
あたしはコーヒーを一口含んでから言った。
「あたしも、健介に彼女ができたって聞いたんで、もうやめにしよか、って言いました。けど、まだ一緒におりたいって言われました」
「健介からは、離れられへんのやろ。蘭ちゃんから、突き放したってくれ。頼む」
浩太さんは頭を下げた。あたしは手を伸ばし、彼の肩を叩いた。
「顔、上げてください」
「うん」
まさか、こんな話になるとは思わなかった。浩太さんの申し出の通りにする義理はないけれど、ここまで頼み込んでくるのだ。あたしは折衷案を出した。
「あたしから連絡するのはやめます。でも、健介から来たら別です。健介の気持ち、よう確かめてみます。ほんまに子供が欲しいんか」
「せやな。オレかて二人の間に踏み込みすぎてる自覚はある。それで頼むわ」
あたしは立ち上がって言った。
「タバコ、吸ってきます」
「オレにも一本ちょうだい」
狭い喫煙室で、あたしは浩太さんにタバコを分け与えた。火もつけてあげた。
「久しぶりや。これ、きっついなぁ」
「あたしはもう慣れました」
浩太さんは、ゆっくりとタバコを味わった。席に戻ると、今度はアリスの話になった。
「あいつとは、ちゃんと結婚も考えとうよ。オレも子供欲しいからな。アリスが大学卒業したら、親御さんに挨拶行こうと思ってる」
「幸せにしたって下さい。アリスはあたしの大事な友達です」
「ありがとう。アリスな、蘭ちゃんの話もようするんや。蘭ちゃんも幸せになってほしいって言ってたわ」
あたしの幸せとは何だろう。結婚、出産。女としての幸せ。あたしも歳を取れば、変わってくるのだろうか。でも今は、そんなものあたしには似つかわしくないと思っていた。
浩太さんと別れ、あたしは一人でラーメンを食べに行った。健介と初めて一緒に行った店だ。彼との思い出が脳裏を駆け巡った。
タイミングがいいのか悪いのか、店を出ようとするときに健介から連絡がきた。
『今日、来れる?』
既読をつけてしまってから、あたしは迷った。でも、子供が欲しいかどうかの真意を確かめたいと思った。それで健介の家に行った。
「蘭。どないしたん? 何か顔、暗いで?」
「とりあえず飲もか。ビール出して」
ソファに座り、缶ビールを開けてから、あたしは健介に尋ねた。
「健介って、子供欲しい?」
「微妙なとこやな。欲しいって思ってた時期もあったけど、今はこんなおれが親になれるんかどうか自信ないわ。いきなりどうしたんや?」
あたしは黙って首を横に振った。健介が聞いてきた。
「……もしかして、おれとの子供欲しいんか?」
「ううん、そういうことやないよ。あたしは子供要らへんもん」
健介がテレビを指さして言った。
「子供いうたら、あの映画があるわ。後味悪いで。観るか?」
あたしは頷いた。観たのは、スペイン語の映画だった。サスペンスというかホラーというか、そういうシリアスな作品だった。主人公の息子が空想の友達と遊ぶようになった。そして、その息子が姿を消してしまう。あっと驚かせる凄惨なラストシーンだった。あたしと健介はタバコを吸った。
「最悪やったな、さっきの」
そうあたしが言うと、健介は薄く笑った。
「せやろ。おれ二回目やから結末わかってたけど、やっぱり悲しいなぁ」
主人公の息子に対する想いが切々と伝わってきて、重苦しかった。子を持つ母親の必死さは、あれほどまでに激しいものなのか。やはり、自分は親にはなれないな。そう思った。部屋に戻って、あたしは音楽をかけるよう健介に頼んだ。彼の好きなバンドの、静かなピアノ曲が流れてきた。
「これ、手に入れるん苦労してんで」
それを聴きながら、あたしたちはセックスをした。浩太さんには悪いけれど、やはりあたしは健介をまだ手放せない。ただ、回数は減らそうか。他の男を探そう。そう思いながら、抱かれていた。
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