31 雅

 健介の家に着くと、まずは缶ビールで乾杯した。彼は仕事の愚痴をこぼした。バイトの子とは結局付き合っているらしく、社内で内緒にするのに気を遣うとのことだった。キスをしようとする彼をあたしは止めた。そして、ゆっくりと自分で服を脱いだ。


「蘭……その身体……なんやそれ……」


 あたしはふんわりと微笑んで言った。


「どう? 感想、聞きたいなぁ」

「感想も何もあらへん! 誰にされたんや!」

「翔って子。なかなかやるやろ?」


 健介はあたしを強く抱き締めた。彼の身体は震えていた。


「あかん。こんなんあかんよ、蘭。おれ、許されへん」

「それが感想?」

「何でそんなに落ち着いとんや。蘭、おかしいで!?」


 しまいには、嗚咽を漏らし始めた。あたしはただ、突っ立っていた。ようやく平静を取り戻した健介は言った。


「おれも親父にどつかれとったときはアザだらけやった。だから、こんなん見たないねん」

「そう。悪いことしたなぁ」


 翔との約束はセックスをすることだ。あたしは健介にキスをした。抗えないよう、舌で追い詰めた。彼の服を脱がせ、素肌を触った。初めは抵抗されたが、段々大人しくなり、あたしを受け入れてくれた。

 あたしと健介は、長い間天井を見つめていた。タバコを吸う気も起こらなかった。あたしは彼が口を開くまで待つことにした。考えていたのは、ラインの文面だった。それがまとまる頃、彼が身を起こした。


「蘭。シャワー浴びよか」

「うん」


 健介は無言であたしの身体を洗った。時折、アザに触れて、下唇を噛んでいた。彼の過去をつついてしまったことに、さすがに罪悪感はあった。しかし、それを上回る高揚感があった。翔もきっと、満足してくれるだろう。

 ドライヤーで髪を乾かし、服を着て、ベランダに出た。健介が言った。


「翔って奴とは、これからも続けるんか」

「うん。そのつもりやで」

「おれじゃ、止められへんか。だって蘭、楽しんどうもんな」

「うん」


 もしかして、潮時なのかもしれないとあたしは思った。健介には彼女ができた。どんな女の子かは知らないが、少なくとも、他の男にアザをつけられる子ではないだろう。あたしは言った。


「もう、あたしとはやめにしたい?」


 それならそれでいいのだ。紫煙を吐き出し終わった後、健介は言った。


「いや。おれ、やっぱり蘭のこと大事やねん。一緒におりたい。まだポイせんとってほしい」

「そっか。ほな、まだおるわ」


 健介が眠ってしまってから、あたしは翔に長いラインを打った。健介の反応も、どう抱かれたかも、つぶさに説明した。

 それから、一人でビールを飲んだ。まだ眠れそうになかった。時刻は夜一時だった。まだ間に合う。あたしはそっと、健介の家を抜け出した。


「いらっしゃい。えらい遅い時間やな」


 神仙寺さんが、いつもの笑顔で出迎えてくれた。あたしはカンパリソーダを注文した。


「健介、先寝てもて、暇やったんで」

「そうかぁ。店も暇やったわ」


 お客さんはあたしだけだった。神仙寺さんとは、就活の話をした。


「文学部って、何か就職に役立つんか?」

「全然ですよ。レポート書くんで、タイピングははよなりましたけど。事務職でどっか就職できたらええなぁって思ってます。できれば神戸で」

「やっぱり神戸、離れたないんか?」

「はい」


 カンパリソーダをちびちびと飲みながら、あたしは神仙寺さんに聞いた。


「何で神仙寺さんはバーテンダーになったんですか?」

「まあ、流れやで。誰かに使われたくなかってん。自分の店持った方が、楽やと最初は思っとったんや。実際、全然楽ちゃうかったけどな」


 すると、扉が開いた。


「神仙寺さーん!」

「うわっ、みやびか」


 ミヤビと呼ばれた若い女性は、黒髪が腰まであった。デニムにパーカーというラフな格好だったが、化粧はとても派手だった。


「あれ? こんな時間に若い子おるやん。アタシ、雅。ここでバイトしとってん」


 雅さんはあたしの左隣に座り、電子タバコを吸い始めた。香水のいい匂いがした。


「で、雅。デュワーズでええか?」

「はい!」


 あたしは雅さんに名乗った。


「蘭っていいます。大学生です」

「蘭ちゃんね。よろしくぅー」


 雅さんは、二年前まで神仙寺さんの店にいて、今は他の店でホステスをしているとのことだった。神仙寺さんが言った。


「この子、健介のとこに泊まっとんねん」

「あー! 健介くん? 懐かしいわぁ!」


 それから雅さんは、バイトの思い出話を始めた。


「アタシ一人で回しとったこともあるんよ。神仙寺さんの売上抜いたろ思っててんけど、結局できひんかったなぁ」


 二時過ぎになるまで、雅さんと一緒に話した。彼女はゆくゆく、自分のスナックを持ちたいらしく、今の店で修行をしているとのことだった。健介の家に戻ると、彼は起きていた。


「蘭! 心配したんやで!」

「ごめんごめん。神仙寺さんとこ行っとった。雅さんに会ったで」

「げっ、雅か。面倒くさかったやろ?」

「ううん? ええ人やったで?」


 それから、健介にきつく抱き締められながらあたしは眠った。雅さんとは、また会いたいと思いながら。

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