其の肆 のまれる
「幽霊っていると思う?」
そんな唐突な問いに、今まさにテリヤキバーガーにかぶりつこうとしていた俺は開けた口を一旦止め、それから遅れて無遠慮にパンズとパティに噛み付いた。口の端にソースが付いた気配がしたが、構わず咀嚼する。
ベンチに座る右隣から聞こえた衣擦れの音が、職場の同僚である
「なあ、
もう一度、窺うように繰り返された問い。圭一は時々よくわからないことを言い出す。彼独自の世界観は、三年の付き合いになってもそれ全てを理解することは難しい。
俺は飲み込んだ肉の塊を後追いするようにホットコーヒーを流し込んだ。
平日の昼下がりは随分と和やかだ。
反対側の入口が見えないほど広い敷地に整えられた天然芝が、革靴越しに柔らかさを伝える。昨夜降った雨のせいか、緑が太陽に反射して煌めいていた。遠くの方で親子連れが犬の散歩をしているのが見えた。
圭一は、同時期に新入社員として入社した唯一の同期だった。
◇
「本日より入社しました、春日部圭一です。よろしくお願い致します」
ハキハキ喋る奴だなというのが第一印象だった。
童顔寄りの幼顔で、背は俺より低めだったが活発な青年を思わせる容姿に、彼はすぐに職場に馴染んでみせた。――主に年上の女性からの人気が高かった。
「
俺への評価はその一言に収まった。
元々人と話すことに慣れていない。寡黙な人だね、と大学でも言われた言葉を黙って飲み込んだ。社会人になったからって何かが変わるわけでもない。そんなものだ。
同期で全く正反対の俺等は、良い意味でコンビ扱いされてきた。
そんな春日部が社内恋愛の末、結婚して子供を儲けた時は一時期ちょっとした騒ぎになったもんだ。
「新人のくせに、良い嫁さん捕まえやがって!」
「いやぁ、ははは」
部長がふざけて肘で突くのも幸せの一部だというように、でれりと笑った春日部の頬が緩む。
そういう部長は、春日部から彼の目元にそっくりな娘の写真を見せられて、まるで田舎の祖父のようにくしゃりと皺を寄せて溺愛していたけれども。
◇
「あ、犬散歩してる」
鼓膜に直接流れ込むような、随分と近いその言葉にはっとして意識を戻される。圭一は視線を真っ直ぐに公園の向こうに向けていた。先程散歩させていた親子連れだ。
「犬も飼いたかったんだけどなぁ。あー、あの犬種なんていうんだっけ」
見やれば、少し癖のある白と茶の毛並みが揺れている。
耳が垂れていて、ちょっと良いところの犬のような容姿。
「――キャバリア」
思わず口をついていた。
喉をくっと鳴らしたような笑いが隣から聞こえた。風が、ざぁっと吹き抜ける。
「ああ、そう。キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル。可愛いよなあ」
娘が好きなんだよ、犬。そう続けた口が視界の端で持ち上がった。
春日部と俺が互いを名前で呼び合うようになったのは、奇しくもお互いの趣味が同じだったからだ。
◇
「あれ、小暮?」
聞こえた声に、商品を取ろうとした手が止まる。そのまま横に目を向ければ、多少驚いたように目を見張る春日部の顔があった。その手には小さなブレーキパッドが握られている。
俺が今取ろうとしていたものだ。
「まさか、小暮もバイク乗ってただなんてなぁ」
「意外か?」
「全然!むしろ同期が同じ趣味持ってたことに、めちゃくちゃ感動してる!」
感動、と心中で呟く。そこまで嬉しさを持ってくれたことに、こちらが驚かされる。手放しで喜んでくれるその様にむず痒くなった。
愛嬌の良い笑顔が、なるほど年上の女性にウケ、あまつさえ家庭を持つに至ったのだろう。
「そうだ!今度の休み、ツーリング行かないか?」
サイドケースに荷物を入れていた春日部が、ぱっと顔を上げる。
奴の車体が太陽光に反射して、きらりと青く輝いた。
その煌めきが眩しくて、数回瞬きを繰り返す。
「…ああ。春日部が、良ければ」
「よっしゃ!じゃあ、どこ行くか決めようぜ」
流れるような動作で連絡先を交換した。
彼のアイコンは愛車をサイドから撮影したものだった。
「よろしくな、おぐ――雄祐!」
「…よろしく、圭一」
眩しいくらいの笑顔だった。
それから何度かツーリングに行くようになった。圭一の走りは快活で、それでいてとても丁寧で綺麗な走りだ。
流れるように左右に揺れる背を追いかける。
緑に覆われた道を抜け、潮風を髪に遊ばせる。
前方を走る彼は、きらきらと流れる光のようだった。
◇
「それでさ」
ギッとベンチが鳴く。夢から引き戻されたように新緑の香りがした。
身を乗り出し、とうとう目の前に顔を寄せた圭一が一度瞬き。
その口が、ニィッと裂けそうなほど吊り上がった。
犬連れの親子が間近を通る。母親と、まだ幼い娘が手を繋いで楽しそうに夕飯の話をしている。その視線はこちらを一切捉えようとしない。
犬だけが、しきりにこちらを窺うように何度も振り返りながら通り過ぎて行った。
彼の――、圭一の喉が潰れたような声が続く。
「俺は幽霊っていると思うんだよ。だってさ――」
ぐっと、拳一つ分もないほど距離を詰められ、楽しげに揺れる目が大きく見開く。次の瞬間にはその眼球がどろりと腐り落ち、本来それがある場所に闇のように真っ暗な空洞が出来上がった。
瞬きするたびに、彼の皮膚は削ぎ落ち、血が吹き出し、手足の関節はありえない方向に曲がり、真っ暗な目からはごぽりとどす黒い血の涙が流れ落ちる。
噎せ返るような腐敗臭と、水滴に濡れた緑の匂いが混ざる。
「――だってさ、雄祐」
”お前が俺を殺したんだから”
首が折れ、骨が剥き出しになった同僚は、くっと喉を鳴らして笑った。
圭一と何度目かのツーリングに出掛けたその日は、雲一つない快晴だった。
新緑の香りを駆け抜け、うねった山道に高揚する。山頂にひっそりと経営する蕎麦処で舌鼓を打つ。これも偶然なことに、お互いうどんより蕎麦派だった。
「予定より早いし、帰りはこっちの道から帰るか」
「結構な迂回だな」
圭一が自身のスマホに表示したマップを指でなぞる。行きに辿った道とは反対のルートに入って、山を大きく迂回して元の道に戻るルートだった。
予定より早いと言っても、既に日は半分ほど落ちてきていた。けれども、翌日も休日であり来た道をそのまま戻るのも面白みはないと、結局その日は圭一の提案した迂回ルートで帰ることになった。
彼のスマホのホーム画面で笑う、奥さんと幼い娘の顔をよく覚えている。
山道は思ったより舗装されていたが、その分道のうねりが大きかった。
何度もコースを曲がり、坂道や下り坂を繰り返す。その度にサイドミラーに映る圭一の愛車が僅かに残った日を照らして光る。帰りは俺が先導だった。
「圭一、この先ちょっと曲がりキツくなる」
『お、了解』
繋いだインカムから声が返る。ヘッドライトの先にサイドの山肌が浮かび上がり、急カーブが見えた。減速し、車体を倒す。
くっと左に曲がった道の反対側はガードレールはあるが、その先は崖になっていて上ってきた分の高さがある。崖から生えているのか、細い木がいくつも立っているのが通り過ぎ間に見えた。
カーブが終わる前に、後続の車体がミラーに映り込む。既に日が落ちたせいか、それは黒い塊のように見えた。その塊が身体を傾けている角度を、何故か途中で更にぐっと傾けた。何か見えない大きな手で、上から車体を押しつぶしたようにも見えた。
そこまで傾けなくとも十分だった。車体の横っ面が地面すれすれを掠める。
「おい!」
咄嗟に出た言葉と共にカーブを抜けた。耳に付けたインカムからノイズのような音が混じり、次いで息を飲むような音がした。
『――え?うわああ!!』
ガリガリガリガリ!ガンッ!!
インカムからの
ガードレールが途中からなくなっているのと、すぐ後ろの木が不自然に倒れているのを見てヘルメットを投げ捨てた。
「圭一!」
舗装と土の境に膝を着いて覗き込む。まだまだ山頂に程近い崖は鋭利な角度で口を開けていた。木々の間から見える底は随分と深い。そこに張り付くように木にしがみつく圭一の姿があった。一緒に投げ出されたであろう青い塊は見えなかった。
「圭一、大丈夫か!待ってろ、手を――」
ヘルメットが着いたままの顔は闇に紛れてよく見えない。頼りない細さの今にも折れそうな木に引っ掛かる指が僅かに下る。手を伸ばせばぎりぎり届きそうな距離だった。
俺は腹ばいになって、手を伸ばそうとして――一瞬動きが止まってしまった。
圭一の下半身にしがみつくように、真っ黒い女が纏わりついているのが見えた。
肌が黒いとかじゃない。顔も髪も手も、墨をぶち撒けたような境目のない黒の塊だった。夜の暗さよりも黒い影と言ったほうが正しいかもしれない。
どうしてそれが女だと分かったのかは、俺にも分からなかった。ただ、直感的にそれが女だと理解していた。
圭一はそれを振り払うような素振りはしなかった。見えていないのかもしれない。
その女は俺が見ていると分かったのか、顔を上げてニヤッと気持ちの悪い笑い方をした。もちろん口も目も見えていなかったが、そう笑ったと思った。
そうやって、ああ、さっきのカーブで圭一の車体を上から押し込んだのはこいつなんだと思った。
「ゆ、う…!」
くぐもった声にハッとした時には遅すぎたんだ。
止まってしまった手を伸ばしたと同時に、女は嗤って圭一の身体を引きずり落としていた。掠った指先が弾けるように空を切る。
光の加減で見えたヘルメットの中で、絶望に歪む目が見えた。
目の前でぐちゃぐちゃに潰れた圭一がニタニタ笑う。緑の香りが風に乗って駆けていく。先程の犬連れの親子は公園を出て行ったようだ。今は広い敷地に誰もいない。
圭一は、俺が助けられるのに助けなかったと思っているんだろう。彼には女が見えなかったはずだ。結果的に手を伸ばさなかった、俺の責任だ。
彼の潰れた喉から轢かれた蛙のような声が漏れる。
血に塗れた手が、俺の腕を掴んだ。骨ごとぎりぎりと締めつけられるようなそれは、きっとあの時掴み損ねた手なんだろう。それをぼんやりと見つめてから、目の前で腐臭を撒き散らす彼を見やる。
「圭一。俺も、幽霊はいると思うよ」
真っ黒な空洞の目が笑ったように歪んだ気がした。
するとどこから来たのか、俺たちの座るベンチの足元へボールが転がってきた。野球ボールだ。それは雨に濡れた芝生の水滴を巻き込みつつ、ころころと俺の足のすぐ傍を通ってベンチの真下で止まったようだった。
遠くの方で少年の声が響く。
「ごめーん!」
ボールを追いかけてきたのであろう少年が誰かに謝りながら駆け足で近づいてくる。
圭一は手を離さない。
少年は俺の目の前で息を切らし立ち止まって、しゃがみ込んで伸ばした手が、俺の足をスルリとすり抜けてボールを掴んだ。
「いくぞー、取れよー!」
勢いよく立ち上がった彼は、大声を上げて去って行った。投げたボールが弧を描いて空に舞う。
それを見届けてから、未だ腕を離そうとしない友人へと向き直る。
「だって、お前も俺も、もう死んでるんだから」
濡れた緑の香りと腐敗臭が交じる。
何の味もしなかったテリヤキバーガーの包装紙をくしゃりと丸めた。
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