其の参 眼を開ける

※男性から女性への暴力表現があります。





 麗らかな昼下がり。ゆったりとした店内のBGMは、これから訪れる初秋を思わせる。店主の拘りで今時珍しいレコードなのだという。今年二十一歳を迎える奈千なちには馴染みのないものだったが、その深みのある音は存外気に入っていた。


 出されたアッサムティーを一口含んだ奈千は、その膨らみのある甘さをゆっくり流し込み、俯いた。その顔は柔和な空気と違って随分と暗い。小さな唇から溜息が溢れた。


「それで、霧島きりしまさん。今日はどうしました?」


 名を呼ばれた奈千は僅かに身動ぎする。小さなスツールは彼女のお尻にピッタリ収まっていた。仕込みの作業中であろうマスターをカウンター越しに見やり、数回言葉を探す仕草をして、漸く小さく言葉を紡ぐ。


「…いえ、あの…大したことじゃないんです。ちょっと、彼氏が…」


 続く言葉を飲み込んで、奈千は自身の左腕を右手で撫でた。そこには痛々しい青痣がくっきり浮かび上がっていて、彼女の白い肌に毒を滲ませたように見える。俯いた拍子に少しぱさついた髪の毛が頬を掠めた。


 住宅街の奥まった路地の更に奥。人知れずひっそりと佇む喫茶店には奈千以外の客の姿はない。元々十席もないようなこじんまりとした店内だが、いつも明るくマスターと話す奈千が静かなため一段と静寂に包まれている。レコードが回転していなければ、さながらお通夜のようだ。


「彼氏さんですか。喧嘩でも?」


「喧嘩というか…。最近ちょっと――怖くて…」


 出しかけた単語を喉奥に引っ掛け、当たり障りのないような言葉に変えた。言おうとしたことが自分の中で酷く物騒に思い、以前から親しくしていると言えども他人の前で音にすることが躊躇われた。

 マスターは小さくなるほどと呟き、それ以上追求することはなかった。気遣われていると感じた奈千はそっと息を吐き、もう一度アッサムティーに口を付ける。誰かに聞いてほしいと思いながらも、深く踏み込んでこないことに安堵した。


「すみません。せっかく美味しい紅茶淹れてくれたのに…。今日はもう帰りますね」


 へらりと力なく笑って椅子を引く。ギ…という木の擦れる音が随分大きく響いた。

 冷めきってしまった紅茶の代金を添え、ドアベルのチリンという響きを潜る。外はまだ十分な陽射しを携えていて、奈千はそれに目を細めて歩き出した。



 パタンと閉められた店内は切り取られたように静かに――無音に包まれる。ゆったりとしたBGMも消えていた。


「またどうぞ」


 カウンター越しにマスターが口の端を僅かに持ち上げる。

 すっきりとした黒スーツの衣擦れの音が嫌に耳につく。黒縁眼鏡に反射する光は、暗い店内ではどこにもなかった。



 ◇



「…ただいま」


 アパートの鍵を開け、玄関の中央に乱雑に脱ぎ捨てられた大きめの靴を見て、奈千は無意識に声を落とす。玄関から真っ直ぐに伸びる動線の先に八畳の狭いワンルーム。そこに横たわるよう投げ出された脚を見とめ、自分の家にも関わらず隅の方に靴を脱いだ。


 短い廊下を抜け、部屋を覗く。

 テレビ、小型冷蔵庫、小さなローテーブル、シングルベッド。家具はそれだけしかない。その狭い部屋のど真ん中に脚を伸ばし、ベッドサイドにもたれ掛かりスマホを弄る人物に奈千は口を開いた。


晃希こうきくん、来てたんだ」


「なんだよ。彼氏が来ちゃいけねぇのかよ」


「そういうことじゃなくて…。連絡来てなかったから」


 今日はもう来ないのかと。そう続けた言葉は尻すぼみになって消える。我が物顔で部屋を占領している男を見つつ、壁際に腰を下ろした。


 晃希とは大学で知り合った。友達の先輩から紹介されたのだ。初めて会った時はまだ落ち着いた茶髪で、ちょっと悪そうな雰囲気が格好いいと思っていた。

 それが付き合い始めて三ヶ月。彼は襟足まである髪をライムイエローに染め、次第に当たりが強くなった。――端的に言えば、物理的に手を出されるようになった。

 奈千が先程喫茶店で溢した溜息はこの事が原因だ。最近では都合の良い時にこうして部屋に上がり込み、また数日連絡も取れずに行方をくらますということが続いている。


 初めて手を出されたのは付き合い始めて一ヶ月が過ぎた頃だろうか。別れを考えなかった訳では無い。別れたいとも告げた。けれど、それは三ヶ月経った今でも聞き入られていない。


「そうだ。おい、奈千。腹減ってんだよ。なんか作れよ」


「え、でも今三時だよ?夕ご飯にはまだ早い…」


「馬鹿野郎、昼飯に決まってんだろ。お前がふらふらどっか行ってるから俺が昼飯食えてねえんだろ」


 いつもふらふら出掛けて禄に連絡も取れないのは晃希の方だ。そう喉元まで出掛かった言葉は彼がテーブルをガンッと蹴ったことで飲み込んだ。

 男は奈千が帰宅してから一度も目を合わさず、スマホを弄り続けている。それを横目にゆるゆると立ち上がり、小さな冷蔵庫の前に屈み込んだ。無意識に手がいった頬の下、首辺りに小さなニキビを見つけて内心溜息が増える。


 玉子、牛乳、刻みネギ、漬物、パックご飯…。その中から玉子、ネギ、ご飯だけ取り出す。一人分の炒飯なら作れそうだ。元々来るとは思っていなかったので食材も買い込んでいなかった。


 狭いキッチンに立ち、小さなフライパンで玉子に火を通す。半熟になったところでご飯を投入し玉子と絡ませる。調味料を振りかけ、最後に刻みネギを散らせば炒飯の完成だ。

 客用の皿に盛り付け、未だスマホしか見ていない晃希の前に出す。


「はい、どうぞ」


 皿を置いた音か炒飯の匂いにか分からないが、漸く手元のスマホから視線を外した――それでも見たのは奈千ではなく炒飯だが――男がスプーンを手に取る。ぞんざいに口に運び、もう一口咀嚼してから投げるようにスプーンを置いた。カシャンッという陶器同士がぶつかり合う音に奈千の肩が揺れる。


「ほんっと、お前料理下手だよな。なんだよこれ」


「え、でも――」


「もういいわ。それより、ほら」


 立ち上がって奈千を見下ろす晃希が、彼女の前で大きな手を広げる。その目は優しさの一欠片もなく荒んでいる。

 その出された手の意味を十分理解していた奈千は、無意味だと分かりつつも自身を守るように胸の前に手をやって口を開く。


「ま、待ってよ。三日前にも渡したよね、一万円――」


 ヒュッという風を裂く音がして、言い終わる前に左頬に強烈な痛みが襲いかかり、衝撃で吹き飛ばされた細い身体が鈍い音を立てて壁に衝突した。ずるずると力なく倒れ、目先が明滅する。口の中が切れたようで鉄の味が広がった。

 横向きに映るフローリングに男の足先が僅かに見て取れた。


「あ?誰に口答えしてんだよ。あんなチンケな金で足りるわけねぇだろ」


 声は随分と冷静でいて冷ややかだ。


 奈千は声を出せずにいた。殴られた左頬が痛むのもそうだが、これ以上少しでも男の機嫌を損ねれば更にエスカレートする。それを理解していた。

 男はピクリとも反応のない女に飽きたのか舌打ちを響かせ、奈千の鞄から財布を取り出し、中の札束を全て抜き取って部屋を出ていった。


 シンと静まり返る部屋。カーテンの隙間から落ちていく太陽の残響が零れ、窓の向こうに見える街路樹が風に踊る。


 左頬も、切れた口内も、打ち付けた背中も、もっと大切な場所も、痛い。

 ぼんやりと見える室内が粘度を増したようにぐにゃりと歪む。奈千は自分が泣いているのだと知ったのは、頬を伝う液体の熱さに気づいたからだった。



 ◇



 大学のランチスペースは常に人がいて騒がしい。入り乱れる会話を雑音と捉え、奈千はサンドイッチを頬張る。コンビニに売ってあった照焼チキンとたまごのサンドだ。甘辛い照焼を十分に咀嚼し、飲み込んだところで対面に座る人物が口を開く。


「ねぇ、奈千。何回も言うけど、ほんと別れた方が良いよ。怖いって言うんなら警察に相談しよ?」


 友人である結華ゆいかが弁当箱を突きながら眉を顰める。それが友人として本気で心配してくれているのだと気づいたから、奈千はお茶に伸ばした手を止めた。


 結華とは大学に入ってからの付き合いだ。講義が同じなこともあり、すぐに打ち解けた友人の一人。彼氏が出来たことも一番に報告していたので、今の状況をよく知る人物でもある。ブロッコリーを頬張った結華に奈千は視線を落とした。


「警察なんかに言ったら余計酷くされるかもしれない…」


 奈千は第三者が介入することで晃希が逆上し報復されることを恐れている。たとえその場は収まったとしても、自身が被害を訴えられたことを黙って飲み込むような男ではない。それに、こういう事情を警察が対応してくれるかも分からなかった。


「だからって、このままだと奈千が――。それにほら、そこ、酷いことになってるよ」


 ――最悪殺されるかもしれない。その言葉を結華は喉の奥で留め、自分の頬を指先でトントンと突いた。奈千の左頬にはまだ少し腫れが残っているが、友人が指したのは逆の頬。右のそこには小豆程度のニキビが二つ並んでいる。ぷっくりと膨らむそれは少し赤みがかっていた。


 奈千はすぐストレスが肌に出るもんね、と切り替えるようにわざと明るく茶化した結華に、そっと指を頬に這わす。はち切れそうなそれに奈千は口をへの字にした。首辺りにあった小さなニキビもまだ治っていないのに、また増えたそれに嫌気がさす。


「顔中ニキビだらけになる前に、ちゃんと相談しよ?講義ない日について行くから」


「そんなことになったら、まず皮膚科に行くし」


「あ、お茶ないや。注いでくるね」


 変なところで会話を途切れさせるのは結華の悪い癖だ。ランチスペースに設置されている無料のお茶を飲み切っていることに気づき、コップを持って給湯スペースに向かう友人を目線だけで見送る。


 警察に相談…。本当に大丈夫だろうか。助けてくれるだろうか。結華も巻き込んでしまうんじゃないだろうか。嫌な考えだけが浮かぶが、現状を変えたい気持ちも本当だ。なるべく晃希を刺激せず、加えて関係を綺麗に解消する方法はないだろうか。奈千は普段あまり使わない頭を回転させてみたが、これといって浮かぶものはなかった。

 そうこうしていると結華が手にコップを持って戻ってきた。


「ごめんごめん、それで相談しに行く日だけど――あれ?奈千、そんなとこにもあったっけ」


 ニキビ、と結華が自分の首をトントン指す。ちょうど喉の辺りだ。

 え?と聞き返して奈千は自身の喉に手をやる。そこには今にもはち切れそうな球状の異物が主張していた。


 さっきまであっただろうか?頬の下辺りにあるニキビを確認する。こちらも変わらず膨れ上がっている。右頬にも二つ。いつの間にか顔周りで四つもニキビが出来上がってしまっていた。これは重症かもしれない、と奈千は大きく息を吐いたのだった。



 ◇



 講義を終え、バイトから帰宅した頃には夜の八時を迎えていた。今日は給料日でもあったため、帰り際に手渡しされたお給料袋のおかげで奈千の財布の中は暖まっている。晩ご飯を作るのも面倒で、思い切って美味しいと評判の惣菜屋でローストビーフ入り弁当を購入した。ちょっとした贅沢品だ。


 それをレンジで温めながら結華へと連絡を取る。結局あの後どうするのかを決められずに休み時間が終わってしまったので、着替えもそこそこにスマホを操作する。彼女は警察に相談に行くといって聞かないので、おそらく後はお互いの空いている日の確認になるだろう。電子レンジの唸る音が無音の部屋に響き、やがてピーと止まったのと同時に奈千は操作を終えてテーブルにスマホを置いた。


 ガチャリ


 鳴る筈のない金属の悲鳴が響き、奈千は声も出ず飛び上がった。ギッという床の軋みにみるみる間に顔色が悪くなっていく。玄関に背を向けて立っていた彼女には、振り返らずとも何が起こったのか知れていた。

 粘つくような空気が支配していく。喉の奥が一気に乾燥して飲み込んだ唾液が痛い。


「よぉ、奈千」

 晃希は下卑た嗤いを浮かべ、鼠のように小さくなる女を見た。


 男は立ち竦む奈千の横をすり抜け、我が物顔で冷蔵庫に入れていたペットボトルの封を開ける。その様を視界の端で認識した奈千は徐々に思考が止まっていくのを感じていた。それから電子レンジから漏れる匂いに気づいたのか、男ががちゃりと無遠慮に開けた。中から十分暖まった肉の匂いが室内に充満し、檻に放り込まれた餌のようだ。奈千が食べる筈だったローストビーフ入り弁当を引っ掴む。


「随分良いもんあるじゃねぇか。俺が来るって分かってて用意したのか?」


「ち、ちが…それ今から食べようと思ってたの、返し――」


 取り返そうと咄嗟に手を伸ばした。無意識だった。

 正面に立った男の脚が大きく振り上げられるのと、腹部と背中に衝撃が走ったのは同時だったかもしれない。


 奈千の小さな口からカハッという悲痛な声が漏れ、吹き飛ばされた背中がずるりと壁を滑る。蹴られた鳩尾が取り入れる酸素を拒絶し、一瞬呼吸が止まったことにパニックになった。ぱくぱくと干上がった魚のように求めれば、漸く遅れてやってきた空気に今度は溺れそうになる。じわりと目尻に水が溜まった。


「お前、いつからそんなに反抗するようになったんだよ。なあ、奈千。彼氏が腹空かせて帰ってきてるんだぞ」


 貴方なんか彼氏でもなんでもない。そう言い返したかったのに言葉が空気に溶ける。心の中がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられ、涙に歪んだ視界が眼前に迫った男の顔を魔物のようにぐにゃりと変形させた。白い牙が獲物を捕らえるように剥き出す。


 テーブルに置いたスマホがやけに遠い。癖でサイレント設定にしているため、先程送った連絡に結華が返事を返しているかも分からなかった。二人で警察に相談しに行く、という約束は叶えられないかもしれない。奈千はどこかぼんやりとそんなことを考えていた。


 男が奈千の胸ぐらを掴み、無理やり身体を起こす。だらりと力の抜けたそれを正面から認識した男は、まるで汚いものでも見るかのように顔を顰めた。

 彼女の顔には随分とニキビが増えていた。頬、首、おでこ、鼻、こめかみ。ぷつぷつと真っ赤に育った実のようなそれが嫌でも目に入る。ストレスが肌に出やすいと言っていた。それにしては、多すぎる気もした。


「汚えなぁ。そんな顔で――あ?」


 顰めた顔が一瞬困惑へ変わる。

 眼の前にある女の頬から、まるで幼虫が卵を蹴破ろうとするように、ぷっくりと。赤い実が今にもはち切れそうにパンパンに育っている。

 男は思わず首を傾げた。普段使わない頭が、ニキビってこうやって出来るのか、とIQのない答えを出す。


 奈千は身体を持ち上げられたまま、動けないでいた。正確には動かす気力もなくなっていた。絶望に近かった。


 昨日も来たのに。お金まで取っていったのに。なぜまた来たのか。これ以上何を奪っていく気なのか。奈千の中から力が抜けていく。真っ黒などろどろしたものが身体中を駆け巡り、深海に引きずり落とされるような感覚に陥る。


 彼女の中の一番柔らかいところで何かが、ずぐりと溶けて腐食した。



 プツリ


 何かが割れるような音が静かな室内に響く。それはとても小さな音だったにも関わらず、嫌に大きく聞こえた。それに気づいた男が一度窺うように室内を見渡し、何もないと思ったのかまた奈千の顔に視線を戻す。

 そして漸く変化を見つけた。


 奈千の頬にあったニキビが、横一線に刃物を入れたように切り開かれ、その中から真っ赤な実が覗いていた。

 まるで熟れた果実の皮が弾けたように、卵から幼虫が生まれたかのように。皮膚の下にあった真紅のような実がぷくりと顔を出している。

 真っ赤に充血した眼球のようなそれから一筋の涙のように血が垂れる。それからパックリと割れた皮膚がぐにゅりと一度、次に顕れた時には真紅の実の中央に闇のような黒い点があった。


 まさに眼だった。


「は?」


 一部始終を見ていた男は怪訝な表情を浮かべ、開いた口から間抜けな音が出た。一から十を見ていても、それがどういうことなのか理解できていない。ただ僅かに女を掴む手の力が弱まる。

 そうして理解できないうちに、また一つ実が割れた。鼻のところにあったやつだ。横一文字にプツリと開かれ、血の涙を流し、真紅と闇の眼が瞬きをする。奈千はまだ動かない。開眼した小さな実が男をぎょろりと捉えていた。


「うわっ!」


 漸くそこで男は異様なことが起こっていると理解したのか、聞いたこともないような声を出して掴んでいた手を大袈裟に振り払った。奈千は体操座りを崩したような中途半端な格好で座ったままだ。彼女の瞳は虚空を見ているようで視線が合わない。

 彼女の頬から流れた赤い雫が涙のように見えた。


 座ったままの奈千がふらりと揺れる。振り子のように一度大きく揺れて、彼女が出すには――人が出すには難しいと思われる異様な速さでいきなり男の腕を掴んだ。捕食する側が獲物を捕らえるのと似ている。

 捕らえられた男はぎょっとして思わず中腰だった体勢から立ち上がり後退る。奈千も引っ張られるように立ち上がった。ふらりとした足取りと焦点が合っていない瞳とは対象的に、掴む手は信じられないほど強い。男の太い腕に、細い指がギリリと喰い込む。


「んだよ、テメェ!いい加減にしろよ!」


 叫ぶ怒号が部屋中にびりびりと走る。けれども、その顔には若干の焦燥が生まれていた。知らず、額に汗が滲んだ。


 ぷつり

 その時、男は女の肌に生える実を見た。


 ぷつり、ぷつり、ぷつ、ぷつぷつぷつぷつぷつぷつ


 あっという間だった。奈千の顔に生えた実が顔中を侵食し、白い肌の面積を奪っていく。割れ物を包むための気泡緩衝材のようだと思った。

 頬も鼻も額も実に覆われ、それは獣の大群のように首へと下がっていき男を掴む腕まで侵食する。その一つ一つが横一文字に割れ、涙を流し、真紅と闇の眼が睨みつける。血の涙が白い肌を真っ赤に染め上げた。


 奈千は。彼女はその焦点の合っていない瞳を暗く闇に落とし、泣いていた。

 透明の雫ではなく、真っ赤な涙だった。


 その様を見て男の顔が歪み、渾身の力で腕を振り払う。あまりにも強い力で掴まれていたからか、引き剥がす瞬間爪が喰い込み太い肌をガリッと傷つけたが、そんなこと今はどうでも良かった。先程までの威圧的な態度は消え去り、男は生まれて初めて本能的に逃げなければと思っている。

 奈千の肌に生まれた実は、もう既に素足の先まで到達した。無数の眼が涙を流して見開いている。


 振り払われた奈千は数歩たたらを踏んで後ろによろめいた。男の力がいつもより弱かったかもしれない。けれども、その一瞬の隙に男は身を翻し、テーブルにぶつかり壁にぶつかり、靴も履かずに玄関を飛び出した。金属がぶつかり合うような音に混じって「化け物――!」という声が反響して消えた。

 掴まれていた自分の腕の上に、今にもはち切れそうな赤い実が生まれていることを、男はついぞ気づかなかった。


 しんと静まり返った部屋で、が一歩足を進めた。静かな一歩だったが、全身から垂れた血がずちゅりと床を滑る。よたよたと歩き、玄関まで到達しドアノブをひねる。指先に生まれていた実が弾けてボタボタと血が流れたが、そのまま外に出た。



 赤い涙に染め上げられたものが街を彷徨っている。

 どこを目指しているのかも分からない。思考もほとんど残ってはいなかった。耳も、半分塞がれているようなくぐもった音しか拾わない。

 それでも歩いた。夜の帳が降りた街中では、全身真っ赤に染まった身体が闇に生まれた炎のように見える。

 何かを追いかけていた気がする。そう思って角を曲がり「おや、霧島さんじゃないですか」声を掛けられた。


 意識外で足が止まる。焦点の合わない瞳が、闇に溶けそうな黒スーツをぼんやりと映した。黒縁眼鏡のフレームに月光が反射する。


「こんな夜中にどうしました?あ、前に言ってた彼氏さんと喧嘩ですか?」


 まるで世間話のような明るさだった。全身に生える眼がぎょろりと目の前の男を捉えていることも気にしていないかのように口角の上がった口元が歪む。


 ”マスターさん”


 唯一残った奈千という小さな思考が男を呼んだ。くぐもった耳では相手の声もよく聞こえない。見ている視界は霧がかっているように霞む。喉はもうとっくに声を捨てていて音が出ない。薄く開いた口内から赤い実が覗いている。


 ふらりとまた一歩踏み出そうとした身体を、スーツに包まれた手が止めた。男にしては白い指が、ぎょろりと剥き出す眼ごと肩を掴む。途端、『ギャッ』という喉が潰れたような声がした。


「ああ、動かないでくださいね」


 逃げられると困るので、と続けた男の顔が愉悦に歪む。

 生えた無数の眼がぶるぶると震え、瞬く。その間にも血涙が滴り落ち、もう一度瞬きをした次の瞬間、ふらりと揺れた身体が右に傾きそうになった。


 奈千だったものの右腕が、肩口からトリミングされたように消えていた。


 痛みは感じなかった。もしくは、既に痛覚も感じなくなっていたか。切り取られた腕の付け根には血が一滴も垂れていない。垂れているのはぶるぶると痙攣するように振動する無数の眼から流れる涙だ。

 その間にも、真紅に染まった身体が削られ無くなっていく。

 虫喰いのように空いた身体の向こうに闇に染まる街が見えた。光のない暗闇には誰もいない。

 虚空を見つめる瞳は、ぼんやりと眼鏡の奥に光る闇だけを見ていた。


 抵抗することもない身体が首から上だけになったところで一旦侵食が止まる。

 男の口が薄く持ち上がる。笑っている。一切の光も届かない闇が口を開けていた。

 もう肌色も見えない皮膚の上で、赤い眼が凝縮したように見えた。


「では、またどうぞ」


 パンと空気が弾けたような音がした。

 無人の路地で、男は口を閉じた。




 室内の暖色灯がチカチカと瞬く。

 主を失った部屋でサイレントにしていたスマホの画面が一瞬明るくなり、新着通知のポップアップが映し出された。


 :結華

 じゃあ、次の木曜日とかどう?私、講義が午…


 数秒もしないうちに、画面は真っ暗な闇に落ちた。

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