其の弐 絡みつく
「あれ?」
朝。使い終わったマグカップを洗おうとシンクに立った
インスタントコーヒーの苦味が底に残るマグカップを手にしたままの彼は、シンクの中央にある排水口を凝視している。
適度に自炊しているため、多少水垢の付いたごく普通のシンクだ。ステンレスの鈍い光沢が自然光を受けて反射している。鏡のように相手を写し込むようなまでの綺麗さはなかった。直接排水口にゴミ受けが付いているためわざわざ三角コーナーは置かなかったが、掃除がしやすいよう水切りネットは装着していた。料理や食器洗い時に出る野菜くずなど、生ゴミをキャッチする網だ。
その排水口から、こぽりと水が溢れていた。表面張力でぎりぎり持ちこたえているような状況だった。
「もう詰まったのか?最近そんなに料理してないんだけどな」
マグカップをシンクに置いた彼は排水口に手をつける。手の重みで溢れる水に若干の嫌気を滲ませながら受け皿を持ち上げた。水切りネットの中を覗けばいつか料理した際に洗い流した米粒や野菜のカット屑などが貯まっていたが、それはネットのごく僅か底の方に貯まっているだけで
その状況にゴミ受けを眼前に持ち上げた東は一人首を傾げた。ネットの隙間からぼたぼたと水が零れ落ちる。と、ごぽ…という口に含んだ空気が弾け出すような音が鳴ったかと思うと、シンクの表面まで溢れていた水がごぼごぼと徐々に水位を下げていく。それはやがて完全に干上がり、後はただ真っ暗な口を開けているだけになった。
「なんだ、引っ掛かってただけか」
きっと以前ネットを交換した際、受け皿かどこかを引っ掛けていたのだろう。それで流れが悪くなり、徐々に水が詰まっていったのだ。そう納得した東はゴミ受けを元に戻し、マグカップを洗うため勢いよく水を出す。蛇口から流れ出た水は詰まりもせず、軽快に排水口に吸い込まれていった。
その夜。仕事から帰宅した東は玄関の施錠を確認した後、くたびれた鞄をソファに放り投げた。たいして何も入れていない筈なのに、どすっと重そうに転がった鞄が心中を表しているようだった。月曜から金曜まで働き詰めの疲れからか、自然と溜息が出る。
そのまま自身もソファに倒れ込みたい衝動をなんとか留め、風呂場に向かう。ここのマンションは流行りのバス・トイレが一緒になっているタイプではなく、個々が別れているタイプだ。トイレ中はスマホを見ながらだらだら座っていたいし、お風呂では湯船にゆっくり浸かりたい東にとって外せない条件だった。
風呂場の壁に設置された操作盤のスイッチを押す。ピッという軽い音とともに湯が張られ始めた。後は自動的に風呂が沸く仕組みだ。流れ出る湯に浴槽の栓がきっちりされていることを確認して冷蔵庫に向かう。
「晩飯は…もう、これでいいか」
一人用の小さな冷蔵庫の前にしゃがみ込み力なく呟く。右手に取ったのはお中元などでよく見られるボンレスハムだ。ブロックの塊のまま未開封のそれは以前実家の親が送ってきたもので、いつか食べようと思っていたものだ。まだ賞味期限は切れていない。もう片手には缶ビールが握られている。銀色のボディにスタイリッシュなロゴが踊る、スーパーでドライなやつだ。
冷蔵庫の中には他に目ぼしい食材はなかった。今から近所のスーパーに行くには辿り着く頃には閉店時間になってしまうだろうし、コンビニも近くにあるが調達に向かうより今はもうアルコールを流し込みたかった。明日はもう休みだし構わないだろう。疲れた頭でそこまで考え、腰を上げる。その時、ふとシンクに目がいった。
「あれ?」
キッチンと呼べるほどのスペースもない小さなキッチンの頭上に備えられた寒色照明が、ステンレスの鈍色に反射する液体をてらてらと映している。今朝詰まりを確認した排水口から水が溢れていた。
朝と全く同じ言葉を呟いた東は、片手にビール、片手にハムの塊を持ったまま動きを止めた。缶の表面に付着した水滴が掌を伝い、フローリングにぽたりと弾ける。
詰まりは解消した筈だ。一日に二度も、詰まることがあるだろうか。同じ場所が。
「壊れてるのか?面倒くさいな…」
溜息が出る。会社で面倒な仕事を押し付けられた時と同じ気分だった。
これをどうするか。東は逡巡し、そのまま無言でソファの前まで移動すると腰を下ろした。ビールのプルタブを片手で開け、プシュッという軽快な音を奏でたそれを流し込む。冷えた液体が弾ける炭酸とともに喉を刺激した。それから手つかずだったボンレスハムを雑に開封し、そのまま無遠慮にかぶりつく。咀嚼するごとに程よい塩気と熟成された肉の旨味が口から鼻に抜け、間髪入れずにビールを流し込んだ。一瞬にして訪れた至福だった。
そこまでを一息でやってのけ、漸くキッチンに目をやった。ソファに座った状態ではシンクの横面がちょうど目線と同じになる。そのまま数秒シンクと睨み合い、もう一度ハムにかぶりついてから重い腰を上げた。テーブルに置いたハムが重量を感じさせる音を出して待てを食らう。
覗き込んだ排水口は、やはり水が溢れていた。シンクの表面まで水位が上昇しており、時折こぽりと空気を吐くような音が小さく聞こえる。…もしかして、水道管の不具合なのではないだろうか。マンション自体の水道周りが壊れているとか。それならば風呂場の給水も壊れるのではないかと思うだろうが、先程沸かし始めた風呂は問題なくジャバジャバと湯を溜め続けている。けれど、他に詰まる原因が思いつかなかった。
「明日、管理人に電話してみるか」
もう夜も遅い。朝にでもマンションの管理人に電話すればいいだろう。
暫く様子を見ていたが、幸い水はそれ以上溢れるようなことはないみたいだ。状況を見てもらうためにも詰まりはそのままにしておいた方がいい。そう考え、くるりと踵を返しソファに腰を下ろす。くっと呷ったビールが苦味を伴って胃袋に染み込んだ。
◇
次の日。朝一番で管理人に電話をしたところ、すぐに見てもらえるということだった。昼までには来てもらえるらしい。冷蔵庫の中身を思い出して何か買いに行きたかったが、その予定では業者が帰ってからでもいいだろう。起き抜けの身なりを整え、昨夜食べかけのボンレスハムに齧りつく。適当に流し見た動画の自動再生が三回目を迎えたところで、来客を知らせる音が部屋に響き渡る。
「いやあ、すみませんね東さん。こっち、配管工事の人」
「どうも、
顔を覗かせた管理人のじいさんは、元々のタレ目を一層下げてヘコリと頭を下げた。定年退職後、週に数日管理に来ている人当たりの良い御老体だ。その隣に立っていた作業着に身を包んだ水上という中年男性も帽子を取って挨拶をする。水色の作業着が水道管を扱う業者にぴったりな気がした。
「ありがとうございます。こっちです」
そのまま狭い廊下を進んでシンクへと案内する。管理人のじいさんも付いてきたので、元々狭いワンルームが一層狭く感じた。男三人でシンクを覗き込む。
排水口は昨晩見た状態のまま変わっていなかった。シンクの表面まで上がった水、時折こぽりと空気を吐くような音。それを確認した水上が徐ろにシンクの下に位置する引き戸を開ける。調理道具などを収める空間だが、あまり頻繁に料理をする方ではないこの部屋にはフライパンと片手サイズの小鍋しかない。しゃがみ込んだ水上は、その奥にある排水管に手を伸ばした。
中年特有の肉付いた背中の向こうでペンライトであろう光が揺れるのが見えるが、その後ろに立っている東からは何をやっているかは分からなかった。なにせ引き戸は狭く、人一人入るのも窮屈な空間だ。大の大人が視界を防いでいては何も見えない。仕方なく一歩下がった位置で見守ることにする。
数分後。シンクの下でごそごそとしていた水上が狭そうに身を縮めて這い出てきた。ずれた帽子を直す。
「排水管の方は問題なさそうですね」
水上はそう言って立ち上がった後、水の溢れる排水口に躊躇なく手を突っ込んだ。こぽり、という音を吐いた排水口からゴミ受けを引っ張り上げる。ぼたぼたと水滴を落とすネットの中は、昨日見た時と同じく底に少量のゴミが貯まっている程度だ。
ゴミの詰まりも…そう独り言のように呟いた水上の言葉に被るように、排水口からごぽりと空気が吐き出される。すると、またするすると水位が下がり真っ暗な穴が広がった。昨日と同じ現象のようだった。
「…もしかしたら、ネットの網目の関係で、上手く水が流れないのかもしれません」
水上が言うが、そんなことがあるのだろうか。東は僅かに首を傾げた。
このマンションに越して二年が経つ。その間、あまり料理はしないとはいえネットは二年間同じメーカーのものを使用していた。今になって合わないということがあるだろうか。ましてや、小さい網目とはいえ穴から水が流れないなんてことが。
それを敢えて口に出さなかったのは、目の前にいる水上も、どことなく納得のいかない顔をしていたからかもしれない。
曖昧に、そうですかと応えた東に、水上はもし宜しければと自社で開発しているという排水口ネットのサンプルを差し出した。普段使用しているものより網目は粗いが、米粒が抜けることはない程度だと思ったので有り難くいただく。
「では、また同じようなことがありましたら、こちらまでご連絡ください」
「ああ、はい。ありがとうございました」
多少遅すぎる名刺を差し出した水上は、もう帰り支度をしている。管理人のじいさんは既に玄関の外に出て水上を待っていた。青の差し色がされている名刺をろくに見ずテーブルに滑らせ、玄関まで水上を見送る。じいさんと業者は一言二言何かを話し、そうして解散した。
改めてシンクを確認する。水は溢れていない。先程水上から貰ったネットに付け替え、それまで使っていたものはゴミ箱に捨てたので、これでもう詰まりを心配することはないだろう。漸く落ち着いて息を吐き、食材を買いに行くことを思い出して財布とスマホをポケットに突っ込んでから外に出た。
玉子、ソーセージ、ネギ…その他、日持ちする缶詰などを近所のスーパーで買ってきた東は、レジ袋をがさがさと揺らしながらマンションの階段を上る。六階建てのマンションはエレベーターが付いているが、彼の部屋は二階だ。余程疲れているか、大荷物を抱えている場合でもない限り階段で上り下りしている。
今日の晩飯は簡単に炒飯にしよう。そう思いながら自宅の玄関まで来て鍵を開ける。
東家では昔から炒飯には細かく切ったソーセージを入れていた。米は即席のパックを買ってきた。レンジでチンするやつだ。
開けた玄関から身を滑り込ませ、後ろ手に掛けた施錠の音がガチャリと響く。小さな冷蔵庫に合わせてしゃがみ込み、食材達を冷蔵庫に詰めた。空白だらけだった庫内に彩りが戻る。
レジ袋の中身を全て運び入れ、腰を上げた導線上にあるステンレスに目がいき、彼は思わず静止した。口からは上擦った声が飛び出た。
「……はあ?」
排水口に、水が溢れていた。たぷりと自然光を受けて反射している。
「なんなんだよ!」
苛立ちを含む言葉は尤もだった。水上という配管工事の業者が去って、東がスーパーで食材を買って帰るまで一時間も経っていない。それなのに、排水口は昨夜と全く同じ状態に戻っていた。表面張力でぎりぎり溢れるのを耐えるかのように水がふるりと揺れる。時折聞こえる、こぽりという空気を吐く音に言い知れない苛立ちが募る。
確かに水は引いていた。ネットも新品に変えたためゴミの詰まりが原因だとはもう言えない。やはり、排水管に問題があるのではないか。不具合があるのを業者が見逃したのではないか。
そう思った東は、苛立ちをそのままに排水口へと手を突っ込んだ。ぬるりとした感触に不快感よりも苛立ちが勝る。ゴミ受けの取っ手を掴み、勢いよく引き抜き眼前へと持ち上げた。ごぼり、という一際大きい音とともに曝け出されたそれに、彼は一瞬にして思考を止められた。
眼の前にあるのは排水口のゴミ受けだ。先程水上から貰ったサンプルのネットが丁寧に付けられている。もちろん新品なのだからゴミは貯まっていない、筈だ。
筈だと言ったのは、ネットがあまり視認出来なかったからだ。
掴んでいるゴミ受けの周囲を取り囲むように、薄ピンク色をした何かが巻き付いていた。
厚みは人の掌より少し厚めだろうか。横幅は人の腕よりも少し細い。一見するとつるりとしているようで、ともすればブヨブヨしたゴムの塊のようにも思えた。東の持つ取っ手に近い上部の方に少し丸みを帯びた先端があり、一周するように全体を覆っている。それはまるで蛇が大木に巻き付く様に似ていた。
「…は?…なん、え…?」
言葉が上手く出てこない。状況を理解しようにも思考はぎこちなく、喉は声を忘れたようだった。思考が停止したまま、視線は徐々に下がっていく。巻き付いている薄ピンクが、太さを伴って下に伸びている。
それはゴミ受けを離さないとでも言うように、排水口の中から伸びてがっちりと繋がっていた。
それが僅かに、ぐにょ…と動いたように見えて――
「うわっ!」
ガシャン!
反射的に東は手を振り払い、大きく後退る。一瞬宙に浮いたゴミ受けが重力とともにシンクに落ちた音が響いた。
なんなんだ、さっきのは。ぶよぶよした薄ピンクで、巻き付いていて、排水口から伸びている…。理解が追いつかず、自然と呼吸が荒くなって酸欠になりそうだった。
どのくらいそうしていたのか。もしくは一分も経っていなかったのか。ゴミ受けがシンクに転がった音を最後に、しんと静まり返った室内に東は一度ごくりと喉を鳴らす。口内の水分が飛び、カラカラに乾いて張り付いた。
大きく後退ったせいでシンクの中が見えない。ゴミ受けもどうなっているか分からなかった。戸惑うように視線を彷徨わせ、それから意を決したように深く深呼吸する。極力音を出さないように、静かにすり足でシンクに近づいた。フローリングが滑る。
恐る恐る覗き込んだシンクの中は、――何もいなかった。
先程投げ捨てたゴミ受けが横向きに転がっている。周囲には…何も巻き付いていない。幻覚だったのか?いや、あれだけはっきりと、質感すらも脳裏に刻み込まれるようなものが?フラッシュバックのように瞼の裏に張り付くその形状に、どこか既視感を覚えたが頭を振って追い出そうとした。
「仕事の疲れで、とうとう頭がイッたか…?」
笑ってみたつもりだが、実際には笑えていなかった。口の端が僅かにヒクリと持ち上げられただけだ。頬を汗が伝う。
だが、幻覚なら幻覚の方が良いのかもしれない。仕事の疲れが溜まっていて、何かを見間違えただけかもしれない。排水口の詰まりだって業者のチェックが甘かっただけで、もしかして結局は本当に水道管の不具合か何かかもしれない。
そこまで思考を巡らせ、もう一度空気を深く吸い込んだ。肺いっぱいに詰め込まれた酸素がポンプの容量で吐き出される。伝った汗を一拭いし、彼はもう一歩踏み込んで排水口を覗き込んだ。先程、――幻覚でなければ薄ピンクのぶよぶよしたものが伸びていた場所だ。
覗き込んだ排水口の中は真っ暗だった。通常、中で排水管が折れ曲がっているので、たとえ上から光を当てたとしても底まで見えない構造になっている。
「何もない、よな。……ん?」
覗き込んだそれに、どこか違和感があり眉を寄せる。なんだ?何かおかしいと思うのに、それの正体が分からない。
底の見えない真っ暗な穴。周囲の内壁も僅かに凹凸のあるどろりとした薄ピンク色の肉の壁のような―――え?肉の壁?
大きく見開いた東の目が排水口の内壁を凝視したまま固まる。吹き出た汗が伝ってぽとりとステンレスを奏でた。
排水口の中身に、ぽっかりと開いた口がいた。
内壁の肉が酸素を取り込むようにぐにょりと蠢く。
先程ゴミ受けに絡みついていたものが、闇の底から這い上がるように再度伸び上がり、覗き込む東の頬をずるりと撫でつける。舌だった。
「うわあああ!?」
本能的に危機を感じ取った東が倒れ込むように後退る。ガタンッ!と派手な音を立てて背中からローテーブルにぶつかったが、痛みを感じている暇はなかった。後ろ手について必死に足を動かして距離を取ろうとするが、ずりずりとフローリングを撫でつけるだけで意味のないものに終わる。
と、テーブルが衝撃で揺れたせいか、東の指先に何かが触れる。それさえも息が止まりビクリと身体を震わせて身を引いたが、視界の端にちらついたのは青色だった。この部屋にラグやカーペットの類はない。恐怖で歪みながらも、よく見ればそれは先程水上が置いていった名刺だった。手のひらサイズの厚紙に青の差し色が踊る。
それを認めた瞬間、東は反射的に手を伸ばし、もう片方の手でスマホの画面を操作していた。力加減を制御できず、掴み取った名刺がぐしゃりと歪む。
僅か一コールの後、プッという場違いな軽い音で繋がった回線に、彼は相手の返事も待たずに捲し立てた。
「おい、どうなってるんだ!なんなんだよ、中に!なんでっ、開いて…!」
並べ立てた言葉は意味の通らないものだった。汗か涙か唾か分からないものが顎下を伝う。
同時に、粘液の絡みつくような音がしてシンクの淵を薄ピンクの舌が掴む。奈落から這い上がる手のようだった。東の口から喉を切り裂いたような悲鳴が漏れる。
「口が――」
「わかりました」
酷く平坦で、落葉のような場にそぐわない声だ。回線を通しての音声なのに、やけにクリアにも聞こえた。東の口から暴れ出しそうな音が強制的に奪い取られる錯覚を起こして途切れる。そのせいか、鼓膜に入り込む声が先程の業者の声とは違っていたのを彼は判断できずにいた。
たった一言。それだけを残して、会話が遮断される。状況も分からずに無音へ放り出され呆然とする東の耳に、間髪入れずに来客を知らせる機械音が部屋全体を包む。びくりと身体が跳ねた。それに対応するより早く、しかし玄関の扉がガチャリと開かれる。
「いや~、どうも。お邪魔しますよ」
針先のような張り詰めた空気をひっくり返すような明るい声色。よく通るバリトンだ。するりと扉の先から入ってきたのは業者の水上ではなく、黒のスーツに身を包んだ見たこともない男だった。開けた先の太陽光に黒縁メガネが反射する。
玄関の鍵は――施錠していなかったか。
「は…?いや、え……?」
「電話、いただけたでしょう?今日は暇だったので特別に超特急で来ましたよ。あ、これですか」
どこか楽しそうな声に、でんわ、と東は脳内だけで単語を繰り返す。未だ腰が抜けたままの彼の前までズカズカ来たかと思うと、黒い男はシンクに向き合い納得したような声を出した。ちなみに土足である。磨かれた革靴がフローリングで擦れ、キュッと鳴き声を上げた。
シンクの淵を掴んでいた薄ピンクの舌が、水分が擦れるズチュという音とともにゆっくりと鎌首をもたげる。
それが動きを再開したせいで、一瞬忘れかけていた恐怖が東の思考を再び染める。奴はまだいるのだ。それは今、正体不明の男に狙いを定めているように見えて東は思わず叫ぶ。
「おい!誰だか知らないけど危な――」
ドッ…という音に続く言葉を奪われる。今まさに黒スーツの男に襲いかかろうとしていた舌を、男が片手で勢いよく鷲掴んだ。細い腕のような舌が男の指の隙間に食い込むように歪む。東にはそれが首を絞められているように見えた。彼の位置からは男の斜め後ろ姿しか見えないが、その表情は嘲笑っているようにも見えて知らず全身に寒気が走る。
男はそれを掴んだまま、おもむろにその手を舌ごと排水口に突っ込んだ。腕まくりもせずである。東の口から様々な意味を含んだ情けない悲鳴が漏れる。
「ああ、良くないですねぇ。こんなに詰まらせて」
男の口角が上がる。上からぐぐっと体重をかけるように押し込むと、穴の奥底からグチュという粘液を含んだ物質が押しつぶされるような音が耳を刺激した。東は思わず顔を顰める。
男は更に腕を闇へとねじ込んだ。すると闇の底から喉を押しつぶされたような、くぐもった声が響く。首を絞められ、抵抗し、酸素を奪われ、力なく絶命する様だった。東も無意識に呼吸を止めていた。それほど鮮明に殺害現場を見ているようだった。
やがて一切の音が捕食された後、黒スーツの男は漸く排水口から腕を引き抜き、未だへたり込む東へと向き合う。スーツは――どこにも汚れはなく、新品同様に整っていた。片手で眼鏡を正す。
「いやぁ、酷い詰まりでしたね。でも、もう大丈夫ですよ」
「つま…いや、え…?」
「ああ。お代はいただいていませんので、お気になさらず。まぁ、詰まりは今後も気をつけた方が良いですけどねぇ」
そう言って男は東の返事も待たずに、では、と丁寧に腰を折り玄関へと歩き出す。革靴がカツンと鳴いたのにハッとした時には、もう既に男は扉を開けて外に出るところだった。
「ちょっと待て!お前なんなんだよ!さっきのだって―――」
「おや、おかしなことを聞きますね。貴方から電話したでしょう?」
――私はただの、業者ですよ。
黒縁眼鏡の奥に闇の息遣いを湛えた眼が光り、扉が閉じられる。
後に残されたのは、麗らかな昼下がりのふわりとした陽射し。
それと、彼の手に握られた、青色の小さな紙だった。
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