其の壱 追われる


「はぁ…はぁっ…!」


 黄昏時。

 一層闇が濃くなる時間に、乱れた呼吸が住宅街に響く。


 賢明に動かしている脚が縺れ、それほど高くないパンプスがガコッと嫌な悲鳴を上げた。同時に振り返れば、汗を吸った髪の毛がうねって顔に張り付いた。

 その隙間から見えた背後に、また喉がひりつく。


「なんで…!なんで追いかけてくるのよ…!」


 視線の先には、血のように真っ赤に染まる世界にポツリと佇む、真っ黒な何かがいた。



 ◇



琴実ことみ~、こっち!」


 トレーに、うどんとおにぎり一個を乗せた琴実は、右から掛けられた声に彷徨わせていた視線を向けた。日当たりの良い窓側に陣取っていた結華ゆいかが自慢のポニーテールを揺らしながら手を振っているのを見て、整列されたテーブル席を縫うように足を動かした。


「ごめん、遅くなった」


「いいよ~。なんかあった?」


「森崎のおじいちゃんに資料運び頼まれてた」


 あぁ、と納得したように小さく頷いた結華の前に、うどんの汁が溢れないように慎重にトレーを置いた琴実が席に着いた。

 ”森崎のおじいちゃん”とは、琴実と結華が受け持つ講義の担当講師である。今年で古希を迎え、生徒たちから大好物のチーズケーキを贈られて嬉しそうにしていたのは、つい最近のことだ。


 琴実は自身の髪を耳に掛け、うどんを啜る。毛先を緩く巻いた茶髪がくるんと跳ねた。正面に座る結華の前には二段に分かれたお弁当箱が並べられている。ブロッコリーや肉団子が敷き詰められているそれは、既に半分が底が見えている状態だ。琴美が来るまでに胃袋に収めてしまった結華が卵焼きをつつく。


「ていうか、またうどん?昨日も食べてなかった?」


「今月金欠なんだって。学食で一番安いのがこれなの」


「私みたいに、お弁当作ってくるって選択はないんだ」


「朝早く起きて毎日献立考えるコストをお金で買ってるの」


「金欠なんだよね?」


 琴美はうどんをずずっと啜ることで聞こえていないふりをした。

 金欠なのは変わらないが、自分が作るとほぼ冷凍食品が詰め込まれた茶色一色の弁当箱になると理解しているからだ。結華のように野菜も肉もバランスよく入った女子力溢れる昼食を持参できるとははなから思ってはいない。

 バイト代が振り込まれる月末まで、琴美は学食で一番安いうどんで乗り切ると決めていた。


 塩の効いたおにぎりを頬張りながら、琴美はなんとなしに窓の外に視線をやる。一面窓ガラスに覆われた向こうは中庭になっており、整えられた芝生と丁寧に世話をされている植物で鮮やかな緑が広がっている。ベンチで昼食を摂る者、芝生で昼寝をする者、走り込みをする者と様々だ。

 名前も知らない生徒達を横目におにぎりを咀嚼していた琴実が、それをうどんの汁で飲み込んだ時だった。


 ―――ガチャン!

 ―――ご、ごめんなさい!


 突然の騒音に体をびくりと弾ませた琴実は何事かと反射的に背後を振り向いた。

 見れば、配膳カウンターの前に一人の女性が身を守るように手を胸の前で止め固まっていた。表情も固く、引き攣っているように見える。

 一瞬の間の後、周囲の人達が集まってきて彼女の足元へ屈み込む。こちらからではテーブルが視界を遮って細部まで確認することは出来なかったが、周囲の反応を見ればどうやらトレーを引っくり返したらしい。先程の音は食器の割れる音のようだった。


「…びっくりした~。大丈夫かな?」


「食器割れる音したよね。怪我なければいいけど――」


 結華が首を伸ばして覗き込むが、既に人集りも出来ていて見ることは叶わないらしい。琴実も体を捻って、続ける言葉を途中で切った。

 視界の端、食堂の入口辺りのものに視線を縫い付けられていた。


 ”もの”と表現するのは間違いかもしれない。”者”だろうか。

 直立するように立つそれは、遠目からでも嫌な存在感を放っていた。素直な感想で以てすれば、それは”人”だろう。けれど、そうは呼べないとも言える。


 なにしろ、それは全身、墨を被ったような黒に染まっていたからだ。


 琴実の視線はそれに固定されていた。

 あれは、なんなんだろう?


 琴実達の座るテーブルから食堂の入口までは距離があるといっても、人物が目視出来ないレベルの距離ではない。現に周囲に行き交う人物は顔まではっきりと確認出来る。なのに、それだけが認識できない。

 かろうじて手足があり頭のような部分は確認出来るが、なにせ墨のような真っ黒では人なのかも分からなかった。…人、なのか?理解が出来ない琴実は、体を捻ったまま固まっていた。


「琴実?どうした?」


「―――ぇ?…あ、いや…」


 結華に話しかけられて、漸く呼吸を思い出したようにピクリと体が動いた。

 けれど、視線は”それ”から離れなかった。


「ねぇ、結華…。あれ、なんだと思う…?」


「あれ?なに?」


「あそこの…入口のとこ…」


 琴美は、よく分からないものに指を指した。結華に確かめてもらいたかったからだ。

 けれど彼女は入口と友人に何回か視線を往復させた後、首を捻った。


「他の生徒?さっきの騒ぎで野次馬かな?」


「いや、えっと――」


 そうじゃなくて、という言葉を琴美は無意識に飲み込んだ。

 もしかして、結華には見えていないのか。あの、直立したまま動かない黒いものが。

 言い知れない不安が琴美の中で膨らんでくる。それを言葉にするのは簡単だったが、そうすると得体の知れないナニカに蝕まれそうだった。


 漸くそれから視線を体ごと逸らした琴実は、結華の返事に曖昧に答えて半ば強制的に話を終わらせた。自身の中で見なかったことにしたのだ。


 振り返る瞬間、”それ”が僅かに揺らめいたように感じたのも含めて。



 その日の夕方、琴美は結華と分かれて一人帰路についていた。友人は大学から一駅離れた場所に住んでおり、琴美はそこから更に三駅離れた場所に住んでいる。自然と、帰りは一人きりだった。


 夕日に照らされた道をとぼとぼと歩く。今日はバイトも入っていないため、このまま家に帰ってのんびりするつもりだ。そういえば、今度結華と行くケーキ屋の場所をチェックしていなかった。新しく出来た店舗のため、ルートチェックが必要だ。

 帰宅後の予定を頭の中で組み立てていた琴実は、ふと誰かに見られているような感覚に歩調を緩めて周囲に意識を向けた。


 住宅街。立ち並ぶ家。ぽつぽつと明かりが灯りだしている。

 どこかで鳴く鳥の声。風に揺らされた街路樹のさざめき。

 何一つ変わらない、いつも通りの日常だが―――。


「――っ?」


 無意識に振り返った。

 そこには……今しがた自分が通ってきた道が伸びている。

 真っ直ぐに伸びた道路は遠くで大通りと繋がっており、交わった左右から車が通り過ぎていく。交通量はそれなりの場所だ。一本中に入ったこの道も、密集するように家が建っている。


「…気のせい、だよね」


 自身に言い聞かせるような言葉だったが、その表情は僅かに不安が滲み出している。再び歩き出した琴実は少し早歩きになっていた。きっと昼間、変なものを見たせいでなんでもないことにも過敏になっているのだ。今思えばあれも見間違いか何かだったのかも知れない。そう思おうとした。


 徐々に日が落ちていく。沈む直前の断末魔のような真っ赤な夕日を背に、琴美は黙々と歩を進める。もはや頭の中からケーキ屋のことは飛んでいた。

 早く帰らなきゃ。無意識に焦る気持ちに早足になる。視界の端で流れていく街灯が、ジジッと音を立てて灯った。


 その時。


「―――え?」


 先程とは違う、強烈な気配にぞわりと全身に鳥肌が立つ。自然と呼吸が浅くなっていることに気づかないまま、止まった足が地面に張り付いたように動かない。


 住宅街。立ち並ぶ家。

 どこかで鳴く鳥の声。風に揺らされた街路樹のさざめき。

 何一つ変わらない、けれど。


「―――!」


 琴美はバッと振り返った。

 そこには…いた。

 沈む夕日に照らされた真っ赤な空を背に、真っ黒な、”あれ”が。


 たまたま通りかかった通行人が、逆光で見えなくなっているわけではないことはすぐに分かった。逆光にしては黒すぎるのだ。まるで闇そのものが立っているような。そんな何かが近づくでも遠のくでもなく、いる。

 昼間に見た時とは近いのか、手足と頭部がはっきりとしており、より人の形に見えた。


「なんなのよ…!」


 半ば叫ぶようにそう言って、琴美は駆け出した。理解できないものを一日に二度も見てしまい、恐怖が込み上げる。

 走りにくいパンプスに縺れそうになりながら自宅を目指した。この通りを進んだ先にあるアパートの二階が琴美の部屋だ。部屋に入って鍵を閉めて…。酸素を求めるように開けた口に振り乱した髪が入ったのを乱暴に手で払い除け、走りながら背後を確認した。


 ――いる。


 走っている筈なのに、距離が広がった気がしない。むしろ、気のせいか近づいているような気もする。真っ黒な何かが直立したまま、背後から離れない。


「ひっ…!」


 喉から引き攣った声が漏れた。それ以上見たくなくて足に無理やり力を入れた琴実は、自宅までの道を必死に走った。

 すぐに見えてきたアパートの階段を音を気にする余裕もなく駆け上がる。上がって二つ目の扉。自宅の玄関まで来た琴実は急いで鍵を取り出した。焦る手が震えて上手く鍵穴に嵌らず、ガチャガチャと無駄な音を立てる。


 いつの間にか夕日はほぼ沈んでおり、暗くなりつつある手元が危うい。

 漸く鍵を差し込んだ琴実は、滑り込むように玄関へと身をねじ込んだ。


「はあ…はあ…!」


 急いで施錠し、そのまま体がずるずると扉に沿って崩れ落ちていく。ぺたりと着いたお尻が冷たい玄関のコンクリートで熱を奪われる。心臓が内側からガンガンと身を叩いて飛び出してきそうだった。

 ひりつく喉が痛かった。このまま蹲っていたかった。けれど、琴美は震える足を賢明に動かし鈍すぎる動作で起き上がる。


 もう、着いてきていないだろうか…。


 確かめたかった。極力音を立てず、呼吸も自然と浅くしてドアスコープに近づく。

 円形に切り取られた世界は湾曲している。琴美は恐る恐る覗き込んだ。頬に汗が一筋伝う。

 そこには。


 そこには、何もいなかった。


 見慣れた向かいの住居が沈んだ夕日に影を落としている。

 それを確認して、漸く琴美は全身から力が抜けた。萎んでいく風船のように心の底から息を吐いた彼女は、へなへなと蹲る。


 汗がぽたりと染みを作り、吸い込まれて消えた。



 ◇



 最初の遭遇から数日、無常にもあれから琴美は事あるごとに、それを見かけるようになった。


 ある時は校舎内で。

 ある時は街の交差点で。

 ある時はショッピングモールで。


 気づいた時には振り返った先にいた。時には背後ではなく、真横を並走していることもあった。通りの向こうだったため距離があったのが幸いだったが。

 何をするでもなく佇んでいるように見えるが、どれだけ移動しても一定の距離から離れない。

 そんな得体の知れないものに何日も付き纏われている。

 それは平穏な日々を送っていた女子大生には、恐怖でしかなかった。




「変なものが見える?」


 何度目かのそれと遭遇した後、琴美はついに相談することにした。自分一人の中に留めておくにはもう限界だった。

 休日にカフェへ足を運んでいた琴実は、フラペチーノに口を付ける結華に小さく頷いた。ここの新作ケーキを堪能しに来たはずだが、表情は暗く沈んでいる。眼の前に鎮座するスポンジケーキの弾力にすら押し返されたフォークを琴美は置いた。


「黒いやつが、追いかけてくるの…。いつの間にか後ろにいて――ううん、たまに横にいる時も…」


「…見間違い、とかじゃなくて?」


 友人の言葉に琴美は強く首を横に振った。巻いていない乱れた髪が揺れる。


 琴美の告白に、結華はどう返事していいか分からなかった。とりあえず、とフラペチーノを飲む手は止める。そんな相談をされたのは初めてだし、自身もそんな経験がなかった結華は眉を下げた。


「ストーカー、とか…そういうことじゃないんだよね?」


「ううん…。真っ黒なの…人っぽい形はしてるけど…」


 ”生き物じゃない気がする”

 その言葉を琴美は飲み込んだ。思ってはいたが、声に出すとより恐怖に侵食されそうだったから。けれど、ストーカーという言葉は得てして的を射ている気もした。実際、琴美は付き纏われている。


 友人の憔悴した姿に、結華はテーブルの上で手を組んだ。注文した新作のケーキはほとんど手つかずのままだ。沈黙に落ちた二人の間を、オープンテラスに差し込む昼下がりの暖かい日差しが場違いな優しさで撫でる。


「……ぁ、でも…」


「うん?」


「…夜は、見かけない気がする」


 琴美の言葉に、結華は首を傾げた。


 琴美はこれまで何度か黒いものに遭遇している。けれど、今思えばそれはいずれも日中だった。バイト帰りなど、夜出歩いた時に見かけたことはない。一瞬、黒すぎるから闇に紛れて視認出来ていないだけかとも思ったが、あれだけ気配のするのもがいれば見えていなくても気づく。


 夜にはいないかもしれない。その事実だけで、琴美は随分救われた気がした。少し、彼女の表情に明るさが戻る。


「でも、朝とか昼はいるんだよね?」

 身も蓋もなかった。また肩が落ちる。


「あー、でも、それ以上近くに来たり、何かされたことはないんだよね?」


「それは…そうだけど…」


 取り繕うように言われた言葉に頷く。実害はない。ただ、一定の距離を保って周囲にいる。理解し難いものが、という文字を後ろに付けなくてはならないが。


 再びフラペチーノに手を付けた結華を見て、琴美は漸く目の前に待機していた新作ケーキに手を伸ばす。弾力のあるスポンジがフォークに押しつぶされ、一口サイズに切れたそれを口に含んだ。甘酸っぱい味はするが、こんな気持でなければもっと美味しく感じただろう。溜息が鼻から抜ける。


 大通りに面している店は、通行人や店舗から流れる音楽でそれなりに賑わっている。生活音に溢れた雰囲気と今の自分の心境が、反発するスポンジとフォークのようだった。


「とりあえずさ、何もしてこないなら良かったじゃん。そのうちいなくなるよ、きっと」


「…だと良いんだけど」


 励ましたはいいものの、結華はもう”気のせいだよ”とは言えなかった。自分自身それを見たことはないが、今までそんな冗談を言うようなことはなかった友人が怯え、憔悴している姿を見て、本人の気のせいとは思えなかった。


 けれども、そうだとしても自分にはどうすることも出来ない。解決策のない返事は不安を煽るだけだ。”いなくなるよ”は、友人の心を軽くする半分、この件が何事もなく終わればいいという願望半分から出た言葉だった。


 二人でケーキを口に運ぶ。

 甘酸っぱいベリーの味が、口内にべたりと張り付いた。




「じゃあ琴実、何かあったら連絡して」


「うん、ありがとう」


 最寄り駅の改札口に吸い込まれる結華に、琴美は軽く手を上げた。電車で帰る彼女とは別方向だ。ホームに続く階段に消えたのを確認して、琴美は歩き出す。既に日は落ちてきているが、十五分も歩けば自宅に辿り着く。肩に掛けた鞄を背負い直し、住宅街へと足を向けた。


 歩きながら、琴美は少し反省していた。

 せっかくの休日に友人と食事に出掛けたのに、自分の問題で彼女を困らせたかもしれない。楽しい時間を潰してしまった。新作のケーキも堪能できなかった。今更ながら罪悪感が頭をもたげたが、けれど相談して少し気持ちが楽になったのも事実だ。

 今度また、彼女にお礼をしなければ――そう考えていた時だ。


 背中にぞわりと鳥肌が立った。

 勢いよく振り返った琴美の目に、怯えが滲む。


 黄昏時。一層闇が濃くなる時間。

 沈む夕日が地上を真っ赤な血で染め上げている向こうに、異物のような黒がぽつりと佇んでいる。目を凝らさなくても分かる。また来たんだ!


「なんなのよ…!」


 いつか言った言葉が再度口をついて出た。勢いのまま琴美は走り出した。


 もうすぐ夜になる。

 夜になればいなくなる。

 後ろにいるだけで何もしてこない。


 それでも、もう嫌だった。先程楽になった気持ちが落差の反動で泣きそうだった。

 家まで走れば。夜になれば。それだけを繰り返し考えて、もう一度振り返る。


「あれ…?」


 振り返った琴実は思わず足を止めた。何か分からないが違和感があった。

 後ろに黒いやつがいるのは変わらない。けれども、それが、なんだか先程よりも大きい気が―――


「っ!?」


 違和感の正体に気づいた琴実は全力で走り出した。


 大きくなってるんじゃない!

 


 縺れた足元でパンプスが金切り声を上げる。悲鳴が出そうな喉元は焼け付くような痛みに変わった。求める酸素が少ない。


 一体どういうことか。ただ立っているだけじゃなかったのか。何もしてこないんじゃなかったのか。疑問だけが思考を占める。

 まだ、空は紅い。


「なんで…!なんで追いかけてくるのよ…!」


 同時に振り返れば、汗を吸った髪の毛がうねって顔に張り付いた。

 その隙間から見えた背後に、また喉がひりつく。

 黒いやつは、先程より確実に近づいていた。随分と遠くに見えていたものが、今は細かい表情まで確認出来る距離にいる。――ただし、これはの人であればの場合であり、あいつはどれだけ近づいても黒いままだ。


 依然直立のまま歩いている素振りのない黒の輪郭が陽炎のようにゆらりと揺れたのを感じた琴実は、引き攣った表情をそのままに前を向いた。


 自宅は。日没はまだか。

 先程から何分走っているのか。駅から自宅まで、徒歩であってもそれほど遠くはない。走っていれば尚更だ。なのに何故、いつまでも自宅は見えてこない?


 そういえば、どうして誰ともすれ違わない?

 もともと閑静な住宅街とはいえ、一人も見かけないことなんてなかった。


 鳥の声も、街路樹のざわめきも、何も耳に入ってこない。

 全くの無音の中を走っているようで、琴美はぞっとした。


「たす、…たすけっ…!」


 喉から無理に絞り出した言葉は、音になっているかも分からなかった。耳の奥が痛い。心臓が破裂しそうだった。


 ――じゃあ琴実、何かあったら連絡して


「ゆ、いか…!」


 先程別れた友人の言葉が蘇る。転びそうになりながら、琴美は鞄の中に入ったスマホを探した。化粧ポーチ、ハンカチ、手帳、財布…走っているから鞄の中は今尚引っくり返っている。飛び跳ねる小物を手探っている間に、背後の気配が粘度を増したように濃くなる。


 焦る手が震えた。捕まったら、どうなるのか。最悪の考えだけが浮かんで目尻に涙が浮かぶ。怖い、嫌だ…!

 その時、漸く指先が硬いものに触れた。スマホだ。


 震える手で取り出し、ロックを解除する。通話機能から友人の名前を押す瞬間――手の汗で、スマホが滑り落ちた。硬いものがぶつかり合うガシャンという音が無音の世界に響く。


「あっ…!」


 後ろに流れ落ちてしまったそれを辿るように思わず振り向くと


「―――――」


 目と鼻の先、真後ろに、もういた。


 声にならない叫びは音もなしに消えた。腕を突き出せば触れてしまう距離に、琴美は振り返った姿勢のまま時が止まったように静止した。手も足も動かない。呼吸さえも、そのまま止まってしまいそうだった。


 初めて間近で見たそれは、この距離で見ても真っ黒だった。目も鼻も口も何もない、形だけは人のようだった。ただ、呼吸をしている感じはない。無機物の塊が直立している。


「ぁ…ぁぁ…」


 琴美は力なく崩れ落ちた。もう限界だった。どさりと肩から離れた鞄が中身を吐き出す。滑り落ちたスマホは黒いやつの背後に転がっていた。

 下がった視界の目の前で、真っ黒な二本の棒が立っている。足だ。足も人間みたいな形なんだな…琴美は痺れた思考で場違いなことを考えていた。


 その時、崩れ落ちた琴美の前で黒が膝を折ってしゃがみ込んだ。ちょうど体操座りからお尻を浮かしたような体勢だ。動いたところを見たのは初めてだった。いつも直立していたこいつが、目の前で座り込んでいる。不思議と、生身の人間が近くにいるような独特の気配は感じられなかった。


 漆黒が、そのまま顔を近づける。拳一つ分もない距離で顔を覗き込まれている。


「…たすけて…」


 掠れるような願いだった。

 漆黒の背後で、血を流したような空が煌々と輝いている。

 殺されるのか――琴美はぎゅっと目を閉じた。




 何秒そうしていたか。

 変化のない空気に琴美が疑問を抱き始めた時、『ばふん』と妙な風が吹いた。例えるなら、干した布団を叩いた時のような、或いは膨らませた風船を押しつぶして空気を出したような。とにかく、妙な風だった。


「大丈夫ですか?」


「ひっ…!?」


 突然の声に琴美は目を見開いて悲鳴を上げた。目を閉じる前に眼前にあった漆黒は見えず、代わりに少し離れたところに黒いものを見て、思わず後退る。足に力が入らないため、正確には身動ぎした程度だったが。


 目を開けた拍子に目尻から零れ落ちた涙が世界を滲ませる。ブレた視界に変わらずいる黒いものが「大丈夫ですか?」声を発する。…声?


「え……?」


「大丈夫ですか?怪我あります?」


 喋った。いや…。

 瞬きを繰り返し、漸く視界がクリアになる。

 そこには先程までの黒いものは消えていて、代わりに真っ黒なスーツに身を包んだ男性が立っていた。黒縁メガネの奥に光る眼は、心なしか優しく微笑んでいるように見えた。


 人だ。


「こんなところに座ってちゃ、汚れちゃいますよ。立てます?」


「ぇ、あ…ありがとう、ござ…え…?」


 混乱している琴美を置き去りに、スーツの男は躊躇いのない歩幅で近寄り、そのまま手を取って片手だけで琴美を引っ張り立たせる。無理に引っ張られるような感じはなく、一瞬だけ体が軽くなって持ち上げられたような感覚だった。


 それから男はいつの間にか琴美の鞄を拾い上げ、彼女の肩に掛けた。散らかった小物も、滑り落ちて距離があったスマホも入っていた。間近で見た男は、先程の黒いものとは似ても似つかないものだった。何より、生きている。

 レンズ越しの眼が緩く弧を描く。


「随分怖い思いをされたようですねぇ。まあ、もう気にする必要はないですよ。消えましたから」


「え?」


 琴美が言葉の意味を尋ねるより早く、男は彼女の横をするりとすり抜けた。虚を衝かれたような琴美は数度瞬きした後、はっとして男が去った方向へと振り向いた。


 けれど、そこにはもう誰の姿もなかった。



 呆然とする彼女の後ろを、沈む夕日が照らしている。

 静かに佇む街灯が、ジジッと妙な音を立てて息衝いた。



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