其の伍 いる


「気がつくと、視界の端に女がいるんだ」


 そう話した高田は、三年前に会った頃とあまり変わっていないように見えた。




 高田から連絡が来たのは日曜日のまだ朝の早い時間だった。朝食を終えてインスタントコーヒーにお湯を注いでいるとき、あまり鳴らない俺のスマホが着信を告げた。ディスプレイを見ると、大学卒業してから自然と疎遠になった高田からだった。

 正直連絡先を交換していたことも忘れているくらいの、知り合いと友人の間に属するような奴だった。


 それを取るか取らないか迷っている間もずっと鳴り続けているため、俺は出来上がったコーヒーを一口含んでから漸く着信に出た。


「もしもし」


『……もしもし、相瀬か?』


 耳に滑り込んできたその声が、随分と暗いような気がした。それでも、高田の声はこんな感じだったかと上手く思い出せないような期間俺たちは連絡も取り合っておらず、これが高田の標準な声色だったかもしれない。

 久しい知り合いとの電話に、俺は無意識に部屋のカーテンを開け、外を見た。マンション五階から見える景色はずらりと建ち並ぶ住宅街と青空を切り取っている。


『久しぶり、高田だけど……同じ大学だった、高田 弘康ひろやす


「ああ、覚えてるよ。どうした、連絡してくるなんて」


 思い出したのは着信が来て名前が表示されてからだ。けれど向こうもわざわざフルネームを名乗るくらい、俺たちは久しぶりだった。卒業してから初めてかもしれない。

 俺はコーヒーをもう一口含み、相手が話すのを待つ。高田は電話の向こうで何度か躊躇うような息遣いをし、そして小さく息を吸った。


『あのさ……ちょっと聞いてもらいたい話があるんだ』


 その言葉を聞いた瞬間、俺は何故か言いようのない不安が足元に転がった気がした。



 ◇



 高田と待ち合わせたのは駅前にある喫茶店だった。まだ朝も早いためか、空席が目立つ。俺は窓側の席に座り、ドリップコーヒーを注文した。さっき家でコーヒーを飲んだが、インスタントと店のコーヒーは格段に味が違うので良しとする。

 窓から通りを見れば往来を歩く人がちらほらいる。店は駅前にあるが、まだそこまで密度は濃くない気がした。


 その中で、ふらりと歩く男が目に入った。高田だった。


 奴はそのままふらふらと店の入口に歩いてきて、随分ゆっくりとした動作で扉を開けた。それから店内を一周するように見渡し、俺と目が合ったと思うと早足で席まで近づいてきた。


「相瀬、久しぶり」


「おう……」


 その声は電話口で聞くよりも、随分としっかりと耳に入ってきた。それでも彼が少し皺になったパーカーとデニムを着ていることに、俺はまた何か喉に突っ掛かるような感じがしてコーヒーを流し込む。高田はその間に注文を取りに来た店員にカフェラテを頼んでいた。


 高田は三年前とあまり変わっていないように見えた。ちょっと角ばった顔つきに無精髭。下から見上げるような目線。男のわりに身長がないこいつの見方だ。

 こいつを最後に見たのは大学卒業後のおつかれ会と言う名の飲み会の席だったが、痩せたとか太ったとかの印象は持たなかったので体型は三年前と変わらないのだろう。

 ただ話すのも三年越しだし、こいつが今何をして暮らしているのかは全く分からなかった。


「で、聞いてほしいことって?」


 話を促すと、高田は言葉に詰まるように少し俯く。

 その様子に勝手に長くなる話かと結論づけた俺に、予想外の言葉が奴の口から漏れる。


「――気がつくと、視界の端に女がいるんだ」


 突飛な言葉だった。あまりにも脈絡のない言葉のせいで、俺はコーヒーを掴み損ねた。高田を見ると、下唇を噛むような仕草でギュッと口を閉じていた。それが何かを我慢しているときの奴の癖だったことを、俺はその時思い出した。


 聞き返そうとした瞬間、視界の端から手が伸びてきて反射的に身体を仰け反った。

 高田の注文したカフェラテを持った店員の腕だったことに知らず息を吐く。

 場を仕切り直すような空気が流れ、俺はコーヒーを手に取った。


「……なんだって?」


「気がつくと視界の端に女がいるんだ」


「……ストーカーに遭ってんのか?」


「違う、そうじゃなくて――」


 高田はゆるゆると頭を振り、目の前に置かれたカフェラテで暖を取るようにそれを手で包み込んだ。季節は秋だが、寒いということはない。

 奴はゆっくりと、それから時折周囲を確認するように視線を彷徨わせながら話し出した。


 三ヶ月ほど前から急に女を見るようになった。そいつはいつも視界のぎりぎりにいて、はっとして振り向くといなくなっている。けれどそれが紫のワンピースを着て、髪の長い女だということは視界の端で見えるらしい。

 どういうタイミングで現れているのかは分からない。街中。電車の中。気づいたときには紫が揺れている。最近ついに職場にまで現れたとき、こいつは人間じゃないのかもしれないと思ったそうだ。


「なぁ、俺どうしたらいい?」


「どうしたらって……。そう言われても、俺は寺の息子でもないし、霊感なんてものもないぞ」


 そう言うと高田は押し黙ってしまった。

 実際、それが本当に幽霊というものだとして、俺に何ができるんだ。そもそも、俺に何ができると思って高田は俺に電話してきたんだ。三年も連絡を取ってない知り合いの俺に。

 場違いな舞台に上げられたような不安と、高田が言った女の姿を想像して足元から何かが這い上がるような気持ちの悪さを覚える。


 高田は何度か口を開いたり閉じたりして、それから蚊の鳴くような声でごめんと呟いた。かと思うと、突然バッと横を振り向いた。向けられた視線は窓の外だ。先程より人が増えている。


「おい、どうし――」


「いただろ……」


「え?」


「いただろ、女が、横に、今」


 不自然に途切れた単語を並べるように話す高田は窓の外を見ながら目を見開き、何かを探すように眼球をぎょろぎょろと動かしている。まさかと思って俺も同じように見渡した。

 雑貨屋、洋服店、電柱、自販機、花壇、人。俺の目が映し出す先に女性はいたが、それは紫のワンピースなんか着ていない。こっちを見ているどころか、普通に歩いて駅に吸い込まれていった。高田が言うような女は見当たらなかった。


「いや、いないって。見間違えじゃないのか?」


「いたんだ、あいつが、いる――」


 窓に張り付く勢いで外を見ていた高田が、今度は首を高速で捻ったように俺の方を見た。奴の口から「ぐひっ」というよく分からない息が潰れたような音が漏れた。

 高田は眼球が溢れるほど大きく目を見開き、俺を――いや、俺の後ろを凝視している。


 その時、俺は自分が浅い息をしているのに気がついた。

 俺の後ろは空白の二人掛けの席と、その先は店の壁だ。なのに、そこから何か得体のしれないものがゆっくり、こちらに気づかれないように足音を消して近づいてきている。


 ゆっくり ひたひた

 白い 女の足が


 ガタンッ! 店内に響き渡る音に心臓を握られたように息が止まる。

 高田が勢いよく立ち上がったせいだ。店員が一瞬迷惑そうな顔をしたけれど、俺はその音に何故か救われるような気持ちだった。気づけば背後から来ていた何かはもう感じられなかった。もしかすると気のせいだったかもしれないが。

 立ち上がった高田は俯くように頭を下げていて、その表情は読み取れない。


「……おれ、行くわ」


 ぎりぎり耳に届いた声だった。両腕をだらりと下げた奴は温くなってしまったカフェラテと俺を置いて店を出て行き、すぐに人混みに消えて見えなくなってしまった。

 振り返り様、高田の口元に笑みが浮かんでいるように見えた。




 それから、高田とは連絡を取り合っていない。

 奴から電話が掛かってくることもなければ、俺から接触することもなかった。

 何より奴と関わることで、あの息が止まるような言い知れない恐怖をもう一度味わうことに躊躇した。できればもう電話してこないでくれとも思っていた。


 けれどその数日後、街で偶然高田を見た。距離があったため、奴は気づいていないみたいだった。相変わらず皺になったパーカーとデニムを着て、俺の知らない誰かと話していた。

 真っ黒なスーツを着た若い青年のようだ。ずれた黒縁眼鏡を直す手がやけに白いようにも見えた。


 高田を見たのは、それが最後になった。

 あとは分からない。


 徐々に世界を蝕んでいくような、遅い秋の初めだった。

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