<第八話> 辺境伯の城
兄妹が貴族ハルフレッドに導かれ、彼の城塞で暮らし始めて三日がたつ。
ロランの妹、アリアは作業衣……すなわちお下がりの黒のメイド服に白いエプロンドレスといった姿に着替えさせられ、掃除を習っていた。
「ふへー」
箒を手に、アリアは間抜けな声を出す。
家の掃除などしたこともなかった。
いや、そもそも掃除する家らしき家もなかったのだ。
いや、自分の体を清潔にすることから、アリアと恐らく同年代のメイド、金髪のローラらの手で体験したのだが。
それはともかくアリアは、一通り仕事を仕込まれつつある。
掃き、拭き、はたき掃除。
掃除のイロハをアリアはローラらに指導を受けていたのだ。
しかしそのローラからは。
「アリアさん、ちっとも上達しませんね」
と、部屋の隅に残ったままの綿埃をはっきりと指摘され。
その場ですぐに謝るのかと思えば。
「はい、わたしには向いてないのかもしれません」
などとけろっと答える。
その表情に申し訳なさなど欠片もない。
これはローラも面食らい。
「素ですか? アリアさん」
「え? お酢」
ローラはアリアのそんな返答に形の良い目を見開いて。
(……天然だわ)
と天を仰いだ。
が、ローラはすぐに自分の使命を思い出す。
ハルフレッドから頂いた命令である。
「アリアさん? 今後のあなたの処遇ですが、ハルフレッド様に相談してみます。ただ私の指導が悪いのか、それとも本当にアリアさんは掃除もできない可愛そうな子なのか、ハルフレッド様に判断を仰ごうと思うのです」
「え? わたしですか?」
ローラはまたも目を剥く。
(こ、ここまでとは……)
想い、そして。ローラはがっくりとうなだれた。
「これは強敵です……ハルフレッド様、無力なローラをお叱りください」
「え? ローラさんって、何もできないのですか?」
アリアが澄まして返すと。
「違います!!」
とローラはその見栄えのいい眉根を寄せて、当然のように答えたのである。
●〇●
ロランは初めて持つ剣の重さに震えた。
「お。重いぜ、これ」
剣。それは殺しにしか使われない道具。
鋼の剣である。しかし今は修練ということもあり、刃が潰され、木製の覆いを付けた代物だが。
ロランの前には老騎士だ。
その名はライル。先日、栗毛の馬に乗っていた男性である。
皺やほりの深さは相応の年齢を感じさせる。
ハルフレッド公子の話では、この老齢の騎士は元中央、すなわち王都で王に仕えていた近衛騎士だということだ。
王都の近衛騎士。
その実力がどれほどのことか。
村人であったロランでも旅の詩人の唄を聞いたことがある。
地下深くの大迷宮に籠った邪悪な魔法使いを殺しに、彼の手下である並み居る妖怪悪魔悪鬼魍魎を退けて、なおも地下の最奥に潜んだその魔法使いを倒し、王にその実力を認められ、平民から王の側近、近衛騎士に取り立てられた者もいるとか。
詩人の唄の冒険の数々は脚色だろう。
しかし、今相対している老騎士は、どこにもスキがない……そう、ロランはかの冒険者の男から、『逃げられぬ時は弱い敵を倒せ』と教えられていた。
弱い敵。
詳しくは、『弱くなった敵』である。
目潰し、金的、煙玉、硬く鋭い棘の実。
そういったもので、自分より強い敵がうまく立ち回れないように──普段の強さが発揮できないように──して、相手を倒すのだ。
卑怯と思われただろうか?
いやいや、実戦では負けたら死ぬのだ。
それほどの準備をしても、負けるときは負ける。
そしてその敗北の後に待つのは、多くは『死』のみが待ち受ける。
「うおお!!」
そういった小道具がないロランは、せめて気合で負けぬよう、雄たけびを上げて大上段に剣を振りかぶるや老騎士に突進する。
叫びと共に芝生から砂が跳ぶ。
「ふ」
老騎士が、わざとであろう、呼吸を音にした。
そしてその瞬間、ロランの剣が激しく打ち上げられ、ロランは上へ吹き飛び、背中から地面に叩き付けられていた。
ライル老は頭を左右に振って。
「ならん、ならんぞ小僧……そんなことではとてもハルフレッド様の影は務まらん」
「俺はこんな重い剣は……いや、人殺しの道具なんて持ったことなかったんだ!」
ロランは精一杯に叫ぶ。
「そうか、鍛えようはある、と言うことだな?」
「そうさ!」
ロランは勢いで答えた。
この城を追い出されるわけにはいかないのである。
ロランとアリア、この二人の兄妹がやっと掴んだ安心の光が見える場所。
泥水をすすり、腐った木の実や野菜を食べなくても済む場所。
そして何より、盗品で腹を賄う必要がなく、お天道様に正面から顔を向けられる暮らし。
そうとも。
ロランは負けるわけには、引くわけにはいかない。
騎士ライルはそのロランの目の光を見、言葉を吐く。
「小僧、剣はもちろんのこと、わしはお前に貴族と隠密の作法と技を徹底的に叩き込む。いいな?」
「え……?」
ロランは面食らった。
てっきり「こんな役立たずは出て行け!」とでも言われると思っていたからだ。
「そして、魔法の素質も機会があれば見る。それぞれ、それがし以外にお前に教師がつくだろう。とりあえず剣の師はそれがし、つまりわしが務める」
「え? ……あ……」
「どうした?」
とライル老はそんなロランに眉根を寄せて怪訝な声。
「追い出されなくて済むのか? 俺は? 失敗したんだぞ? 剣圧で一撃で吹き飛ばされて」
とロラン。
瞬間、皺くちゃのライル老の顔に花が咲く。
「なんだよ」
と、何がおかしいのだろうかと、ロランは不満の声を上げた。
「初手のお前がわしに勝てるわけがなかろう? 馬鹿なことを言うな。さあ、ついて来い。そろそろ昼だ。ローラがわしらやお前たち兄妹の食事を作り終わるころだ」
と、未だ震えるロランの体に注意を払うこともなく。
「飯だ」
と、ロランに再度手招きしてライル老は笑顔を向けたのである。
うん、気のせいか。
そういえば煮込んだ野菜の甘い香りがしてきた。
うん、飯だ。
まぎれもない、飯の香り。
自分たちには縁のなかった、腐る前の、誰かが食べる前の食事。
ロランは頭を何度も左右に振っては、自分の境遇に感謝する。
「貧民の俺たち兄妹に、一体何が?」
呟く。
そそて、知らずのうちに流れる涙。
ロランは思う。
ああ、俺たちは、俺たちの運命は変わったのか……!
もう、大木のウロで、その場限りに近いススキやワラを編んで入り口の扉の代わりにする必要もない。
そして、毎日の食事の事も。
ロランはなおも涙を流し続ける。
ロランの疑問、どうしてこんな厚遇をされるのか。
しかし、それに答えるものはすでにここにはいない。
ロランの視線が探した対象は、すでにいち早く歩き出していたのである。
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