<第九話> それぞれの学び。それはまるで別世界
青空を鳩が飛んで行く。
そして、名も知らぬ獣と鳥のさえずりが。
そう、ここは森の中の城塞なのだ。
で、時に。
アリアは膨大な木製の食器を前に、頭を抱えていた。
洗うには水がいる。
でも水は井戸から汲まないといけない。
「はあ」
力仕事である。
水汲みは大変なのだ……そうだ。
アリアは思う。
わからないから誰かに代わってもらいたい、と。
そう。
適当な水の汲み方もわからないのだ!
ローラには急かされている。
だかしかし、当の本人であるアリアはいつまでたってもその場を動かない。
大量の食器を前にただ、呆然とアリアは佇んでいた。
ただ、どうしよう? いや、どうするとよいの? と。
「あなた、これも……炊事も駄目なのね」
ローラのぼやき声が聞こえる。
いつにもまして、低い声。
ああ、ローラは今まさに、めまいだろうか、右手を拾い額に当てていた。
しかし、ローラのこの反応。
アリアは思う。
自分の行いの何が間違っているのだろう、と。
アリアは考える。
だが、全くその答えは出なかった。
わからないなら質問を投げかけると良いだけなのに。
だけど、アリアにはわからない。
わからないことがわからない。
だから、アリアはそんなローラの声を無視し続ける。
そう、今まで。
アリアら兄妹は、個人で食器など持ってはいなかった。
否、盗んできた食べ物の入っていた食器など、いつまでも保管できる訳も場所もなかったのだ。
食器とは、すぐさま食べるべき食べ物が入った器。
だから、食べ物を食べたらなるだけ遠くに捨てねばならない。
川に投げるか、森の茂みに捨てるか。
さもなくば、盗人として力の限りぶたれるか、広場に繋がれさらし者にされていただろう。
実際、アリアをかばってロランは何度も、そんな経験を踏んでいる。
汚れたものは捨てるか、だれもが忘れるまで隠し続けるもの。
──これが、アリアら兄妹の認識に他ならない。
そう。
アリアら兄妹は、食器らしい食器を見るのも使うもの洗うのも、どれも初めての経験だったのだ。
●〇●
ここは城の一室。
かび臭い本がずらりと並んだ書庫の隅。
直射日光から本を護るため、外壁と本棚の間に設けられたスペースにして、今はロランの勉強の場。
木製の机と椅子が用意されている。
そんな場所だ。
そこにはロランをはじめ、二人の人間、ヒュムがいる。
茶色い髪を頭の上でアップにまとめた丸メガネの女性。
やや長身の鼻は高く、目は切れ長で美しい。
体は黒のメイド服に覆われてた。
右手の乗馬鞭がその怜悧な美貌の剣呑さを一層あらわにしている。
で。今。
その人の甲高い声が聞こえる。
ローラの同僚、すなわちこちらも高位貴族の娘、メイドの一人であるサマンサである。
「で、この辺境伯の領地ですが、もともとは王国建国までさかのぼります。王国建国の際に大功を建てられたのがこの領地の初代辺境伯、つまりハルフレッド伯爵公子閣下のご先祖様です。そのご先祖様は建国の英雄王から辺境の要として伯爵に封じられました。この辺境伯領はそれはそれは広い領地でして、ヒュムと妖や妖魔の類の勢力圏と建国以来、小競り合いを繰り返しています。そう。今現在も私たちは妖魔ら混沌の勢力と向かいあっているのです」
「……ああ、ああ」
ロランはそのサマンサの長口上についていけない。
もう少しお手柔らかに、わかりやすくひとつづつ教えてほしいというのが彼の本音だ。
でも、ロランは歯を食いしばり、迫りくる眠気と許容量を軽くオーバーする知識の海についてゆく。
対してサマンサは手にした乗馬鞭で、ぴしりと己の手をたたくのである。
そのたびにロランの意識は現実に引き戻された。
そうとも。
サマンサはロランの魂に鞭を打っているのだ。
それが功を奏したか、ロランはまるで自分自身が打たれたように、ピンと背を伸ばす。
が、それも長くは続かない。
ロランに座学の経験……いや、椅子に座ってゆっくりと身を構えて置くような経験はないのだ。
そもそも、まともな家に住んでいなかったのだ。
家具……まして椅子やテーブルなど、縁がなかったのである。
だから、彼の記憶容量は常にレッドゾーンである。
「それで、現在の辺境伯領ですが、街道を挟んでその両側を大きな森に囲まれてまして……聞いておいでですか、ロランさん」
厳しい音と、半眼の睨み目。
その空気を切り裂く音にロランの背筋が今度こそ伸びる。
感じる寒気、反応する体、縮みあがる手足。
ロランは思う。
マズイ、マズイ、マズイ!
と。
サマンサからはロランに眠気を飛ばし、身を凍らせる。
気迫が伝わる。気合が違う。
ロランの背に一滴の汗が流れる、冷たい汗が。
ロランはややもすると舟を漕ぎそうになる頭を上げ、今何度かになる背筋を伸ばした。
「どこまでお聴きで?」
美人の冷たい顔は辛く恐ろしい。
ロランはつばを飲み込んだ。
「え、ええと。ここが辺境伯のお城で……」
「そうですね、伯爵一家の居城であるとともに、先ほども申しましたが、人もどきや化け物に対する軍事の最前線近くの砦でもあります」
「最前線……」
と再びロランはつばを飲み込む。
「安心なさってください。本当の最前線はもっと森の奥、常に剣劇の音が止まぬ地にあります。私どもはこの辺境伯の城に街道を通じて集まってくる兵士や糧食をたまに運ぶだけ。彼らに補給物資を送る際も、護衛にはこの城の兵だけではなく、冒険者を雇うのが常です」
サマンサは目を細めて笑う。
実に人懐っこい、ある種の可愛さすら見せる表情。
ロランは一目でその笑顔に引き込まれた。
「安心されましたか。ロランさん?」
「あ、ああ」
ロランの心、すでにここに無しか。
「そうです、お分かりになったようですね。この城塞は本当の最前線ではなく、補給基地の一つです」
「ああ」
だが、サマンサの顔はすぐに真面目さを取り戻す。
ロランもまた、サマンサの声を聞き逃すまいと、真剣に耳を傾ける。
「ただ、菱食の類は私ども城の人間が担当せねばなりますので、私が教える知識以外に、元近衛騎士ライル様の剣をしっかりと教わってください」
ロランは首をこくりとまげて頷いた。
「ハルフレッド伯爵公子閣下はあなた、ロランさんの成長に期待をかけてらっしゃってます。あなたが相当のへまをなさらない限り、妹君のアリアさんとまとめてこの城から放り出されることはないでしょう」
「そ、そうなのか!?」
ロランは椅子を蹴飛ばして立ち上がる。
なにせ、明るい展望を持つニュースなのだ!
体をもじもじさせ始めた、落ち着きを失ったロランにサマンサは優しく告げる。
今度の彼女の眼は、気のせいか笑っていた。
「まあ、落ち着きなさいロランさん。まずは公子様の不興を買わぬよう、そして公子様の役に立つために、もっと体と知性と精神を磨いてくださいね?」
と、サマンサはまたも笑顔。
あ、眼鏡の下からウインク。
そう、ロランは兄妹で泥水をすすり盗みを繰り返す生き方に戻りたくはないのだ。
だからロランは誓う。
ハルフレッド伯爵公子に嫌われたら終わりだと。
──ただ。
気のせいか、ロランにはそんなサマンサの目尻に星を見た気がしたのだった。
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