Ⅵ その日
「町を出る。彼女と」
彼はそう言いました。
あれから数日、何事もなかったように教会堂で礼拝し、周辺の史跡などを巡り。時折彼女の元を訪ね、話などしておりました。
それでも、彼はそう言ったのです。本来なら朝に出立しているはずだった日の、昼の
目を瞬かせている
「この町ではだめだ、彼女は知られ過ぎている……守り切れない。別の土地でどうにか、食いぶちを求めるしかない。彼女にはもう、
ぱくぱくと口を開け閉めした後、ようやく
「し……かし、どこへ、それに……あなたの、信仰の道は」
彼は目をつむり、ゆっくりと首を横に振ります。
「ここしばらく考えていたが……仮にも神を
息をついて続けます。
「だが、これで良かった。オレは神の
彼は突然、
「……欲しかったんだ、愛しかった、彼女が、全てどうでもよくなるほどに。それだけだ、
顔を上げ、微笑みます。
「お前は違う。清く、賢く、尊敬するオレの友」
苦く顔を歪め、彼はまたうつむきました。
「オレとは違う……お前こそ真の信仰者だと、常々思っている」
違う、と、
彼女の分の旅仕度のため、彼が
造花の袋を担いだ彼女の前に出るや、
「行ってはなりません!」
彼女はやがて、ぽつりと言いました。
「……彼から、聞いたの?」
「行ってはなりません!」
繰り返す
それでも
「行ってはなりません! 来るのです! ここに、程なく
伯父から聞いていたことでした――花を出す女の元に、未だ
そうして同じく聞いていた、
手をついたまま叫びました、地面の方に顔を向けて。
「そのときにいなければ! 逃亡したと見なされます、怖れて! 貴方と剃髪した男、捜すことは
顔を上げ、言いました。口は動かすたび、錆びたように重く感じられました。
「貴方の力。悪魔の力と見なされます……それ故に、逃亡したと。彼もまた、悪魔の一味と」
仕掛けを以て奇蹟を騙った、それならばまだ許されます。衆目の前で種を明かされ、罪を告白することで。教会によって定められた処罰を受けることで。
無論、生き恥をさらすこととはなりますが……生き恥です、死を
ですが、彼女の場合は。神のものとも悪魔のものともつかぬ、けれど不可思議な体質は。
おそらく、悪魔のものと見なされるでしょう。
息を呑む彼女へ、地べたを擦りながら近づき。再び頭を下げました。
「行かないで下さい! そうすれば無事です、貴方は……守ります!
泥にまみれた顔を上げ、声を張り上げました。
「申し開きしてみせる、
叫びました。全てを捨てて。
「
無論、聖職者には
親類と偽って情婦を手近に置き、自らとの間の子供も親類として厚遇する――その子供こそが、
父は信仰にもとる人物ではありました、
妻とすれば、彼女のことも庇護してもらえるのではないか。そのような計算が……甘えが、
額を土につけ、鼻をすする音が混じりつつも、どうにかそのことを説明し終えて。
顔を上げると、彼女はうつむいていました。傍らに造花の袋を下ろし、口を開けて。何度も目を瞬かせながら。
ただ、その髪に混じって、
風が、音も無くそれらを揺らしました。
「かわいそうに」
彼女はそうつぶやきました。表情のないまま続けました。
「かわいそうに、ね……あなた、本当に。ね、あたし、とっても馬鹿なんだけど……正直に言うよ。そう言ってくれたのが何日か前、彼がかばってくれたあのときの前なら……違ってた」
自らの鼻筋と口を、両手で覆って言いました。
「あたし、こんなだから……生まれてこの方、誰にも、優しくされたことなんてなくってね。母さんと、彼の他は」
手を離し、笑うように息をこぼします。
「だからね。もっと早く言われてたら。あなたが、大事だったかもね。でも」
首を横に振り、目をつむりました。まぶたの端から涙がこぼれ。髪から肌から、いっそう茎が伸び葉が茂り、花が咲きました。
両手の指を組み、深く、詫びるように目を背けるように、
「神様。……どうかこの方が、悲しみませんように。この優しい方に、幸福がございますように。あたしのような者など無価値だと、この方に釣り合う者ではないと、お気づきになりますように」
そうしてうつむいたまま、小さく首を横に振り。つぶやきました。
「かわいそうに。かわいそうにね」
――神よ。
そう言いたかったのに、口は別の言葉を叫んでいました。
「待て! 待ってくれ!」
――神よ、もしも貴方が存在するなら。
「死ぬぞ! 逃げれば死ぬ、貴方だけじゃない彼も! 捕らえられて!」
――もしも貴方が、我らの心を理解するなら。
「そうならない方法は一つしかない!
――持っていかないでくれ。尊敬する友と、愛する人とを、もろともに。
「父は
――神よ。存在するなら、貴方が。どうか。
荷物から取り出していたナイフを首筋に当て、血のにじむまで刃を押しつけ。叫んでいました。
「この場で死ぬ、貴方がそう望むなら!
地に伏せ、額を地面につけ。涙が流れ落ちるのを感じながら言いました。
「神だ、貴方の……貴方のための」
長くそのままでいました。
風が吹きました、墓地に生える木が揺れたのか、木漏れ日が地面の上に躍りました。
さやさやと音がしました。風の、草木を揺らす音。
それは墓地に生える木を揺らすにしては大きく、あまりに大きく。
「かわいそうにね」
そこには、花が。花をいっぱいに咲かせた、木がありました。人の背丈を越えたほどの。
埋もれていました、彼女はそこに。いえ、彼女からそれが生えていました、彼女自身をその根に幹に、
音もなくそれはさらに枝を伸ばし、葉を茂らせ花をつけ。その表面から別の草花さえ咲かせ。伸びて伸びてゆきました。
顔の半ばを幹に
「きっと、人生二回分の幸せね……二人もの人から、命がけで、愛されるなんて。でもね、だけどね」
音もなく足も体も埋もれ、白い手だけをわずかに残して彼女が言います。
「あの人だけはね……死なせたく、ないの」
「かわいそうに、ね」
その声を最後に。全ては、木の中に埋もれていた。
荷物を揃えて駆けてきた、彼もまた。
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