Ⅴ  神と聖女と


 次の日。


「ごめんね、待った?」

「構わんさ。オレの名において許そう」



 仕事の予定がないという彼女と、元より予定のない彼と。二人は町の片隅、昨日の場所で待ち合わせておりました。


 わたくしはと申せば、やはり予定のあるはずもなく。……恥ずかしながら、彼らの様子を見ておりました。離れた物陰から。

 神を名乗るなどという傲慢ごうまんな振舞い、畏れを知らぬ罪を犯した彼の様子を見なければ。そう、思っておりましたが。

 自分がそうしている理由がそれだけではないことは、頭のどこかで分かっていました。いえ、体の芯まで、よく分かっておりました。



 彼の言葉に苦笑して――あるいは照れたように笑って――、彼女は言いました。

「それで、今日のご予定は? 神様」


「全てはオレのご意思のままに、か。感心だが聖女よ、お前に何か望みがあるなら言うがいい。なければ、お前の案内で町を巡ってみたいものだ」


 彼女は歯を見せて笑いました。いたずらを仕掛けるように。

「でも、その前に神様? あなたが全知全能だってとこ、見せていただきたいの」


 彼は息をついて笑います。

「知らぬのか、オレを試してはならぬことを? 特に差し許す、言ってみろ」


 考えるようにあごに指を当てた後。彼女は遠くを指します。その先にあったのは、この町で一番高い、教会堂の尖塔。

「あなたが全能の神様なら。どう、あの塔を懐にしまって、また取り出してみて下さる?」


 彼は鼻で息をつき、声を上げて笑いました。

造作ぞうさもない。――なんじが望み、すでにしてかなったり」


「え?」


 目を瞬かせる彼女に、彼は言ってのけます。

「全知全能のオレなれば、お前がそう望むことは知っておった。ゆえ、誰も見ぬ夜更けにオレあれを懐に入れ。また、そっ、と出しておいた。なんじの願い叶ったのが、あれよ」


 彼女はまだ目を瞬かせていましたが。やがて、肩を揺すって笑いました。

「屁理屈のお上手な神様。……ね、じゃあ。あたしを、神の御国みくにに連れていって下さる?」


なんじが望み、すでにしてかなったり」

 間髪入れずそう言い、地を足で踏み締めます。音を立てて。

「ここが神の御国。ここが地獄。ここが煉獄ここが辺土、ここがこの世。全てがなんじ足下そっかに在り。歩みおろそかにすればたちまち地獄」

 そして、彼女に手を差し伸べます。

「とはいえ、よ。オレがいて聖女お前がいる、ここが天国に決まっておるさ。さ、共に参ろう、神の御国を」


 彼女はその手を取りました、微笑んで。

「ええ、神様」

 その胸元からは。鋭く細い緑の葉と真っ直ぐな茎が伸び、その先に薄桃色の花が咲いていました。彼女の頬と同じく色づいた、菖蒲あやめが。



 それから二人は町を巡ります。

 私はその後をついていきます、ほうけたように口を開けたまま、物陰から物陰へと。ただ二人を見つめたまま。


 昼食どき、二人分のパンをあがなう彼の横で彼女が言いました。

「神様でもお金は払うのね」


 彼は肩をすくめました。

「全知全能のかみ様も、お金様には手も足も出ぬ。何、おかしなことではない。『全能のかみは、自らが持ち上げられない重さの岩を創り出せるか?』というのは難しい問いだが。お金様なら造作ぞうさもないこと。何せ、金自体には持ち上げる力などないからな」


 そのときでした。どこからか飛んできた小石が、彼と彼女に打ち当たります。

 飛んできた方を見れば、そこには昨日の子供らがいました。


 にらむ子供らをにらみ返し、彼は足を踏み出します。

「罪無き者だけが石を投げよ、主はそう仰ったが。……オレは、そんなぬるいことは言わん」

 真顔のまま拳を握り、さらに足を踏み出したところで。


彼女が後ろから、彼のマントを引っ張ります。首を横に、何度も振りながら。


 彼はしばらくそのままでいましたが。

 やがて音を立て、マントを広げ。彼女を包み込みました。

オレの名において、この聖女むすめ罪無し。その体の如何いかんを問わず、その心清ければなり。……罪無き者へ投げる石など、この世のどこにあるというのか」


 そのとき。顔を隠すようにうつむく彼女の背から、生え出た木がマントを押し上げ。その襟元から枝葉を伸ばし。

 咲いていきました、淡い白の花弁を高く連ねた犬槐いぬえんじゅが。さらなる木には実りました、幾つもの丸い山桃やまももが。傍らには菖蒲あやめが茎を伸ばし、薄桃色の花弁を揺らします。


 それらはさらに伸びては茂り、今を盛りと花を咲かせ。

 真下へうつむく、彼女の耳は、首筋は頬は真っ赤に染まり。

 溢れ、こぼれ落ちるようでございました。彼女を覆い尽くすように咲いた花、実った果実は。





 日が落ちた頃。町の外れ、誰もいない――離れた岩場の陰に身を隠したわたくしの他――、木立の中で。

 二人は、唇を重ねていました。


 不意に彼が身を離し、自分の口に手をやります。

「これは――」


 口から出したそれを、小さな鐘のような花房はなぶさを見て彼女が言います。微笑んで。

伊吹麝香草いぶきじゃこうそう


 再び口を合わせた後、また離した彼の舌には。小さなだいだい色の実が乗っていました。

「これは」


酸塊すぐり


 彼がそれを口に含み、また口づけた後。

 彼女の首筋からか細い枝が伸び、白く細長い袋のような花弁を垂らします。


 その首筋をなで、彼が尋ねます。

「これは?」


 息を呑むような間の後、彼女が答えます。荒くなった呼吸の下から。

衝羽根つくばね……空木うつぎ


 抱き寄せる肩から、なでる背から。

「これは?」

万年まんねんそう

 小さな花の群れが薄赤く広がり。


「これは」

瑠璃雛るりひなぎく……」

 薄紫の花は恥じらうように花弁を広げ。


 それからも花は広がりました。たかぶるまま、たかぶるまま。



 わたしは。わたしは、震えて見ていることしかできませんでした。身を隠した岩を、砕かんばかりにつかんで。瞬きもせず、最後まで。


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