28.帰ろう、俺たちの家へ


 急な春驟雨は空をどんよりと暗く厚く覆い、滝のように降りしきる雨は地面で飛沫を上げて世界を白く染め上げる。

 下校や退社の時間ということもあり、住宅街には背を丸めて折り畳み傘に縮こまったり、鞄を雨除けにして走り去る人々。

 そんな中、濡れることを厭わず全力疾走する翔太。


(くそっ、何やってんだよ……っ!)


 英梨花でなく自分に毒吐きながら一直線に目的地に向かって駆け抜ける。

 耳にこびりついているのは、先ほどまでの英梨花の不安そうな声。

 見た目は見違えた。出自もかつて信じていたものではなかった。

 だけど、その性根は早々変わらない。

 泣き虫で憶病、甘えん坊。

 ここ最近、英梨花の様子が少しおかしいことには気付いていたではないか。

 だけど離れていた空白の時間が英梨花との間に溝となってしまっている。

 見知らぬ人ばかりの土地、頼れるのはである自分だけ。

 もっと気に掛けるべきだった。

 果たして自分はその溝を埋める努力をしていただろうか?

 やがて住宅街の外れにある公園が見えてきた。近くに森と神社があり、美桜と出会い、英梨花とも一緒に遊んだ思い出の場所。そこにあるプリンの様な円筒形の滑り台、その内部。

 果たしてそこにびっしょり濡れて膝を抱える、英梨花の姿があった。


「英梨花」

「……ぁ」


 名前を呼べば英梨花は目を大きくして瞳を揺らし、息を呑む。

 見つめ合うことしばし。

 英梨花はやがてスッと目を逸らし、膝に顔を埋める。

 幼い頃、頑なになっている時によく見た仕草だった。翔太は困った様に眉を寄せ、滑り台の内部に入り、少し距離を開けて隣に座る。たちまち地面に水たまりができていく。

 思案を巡らす。


 ――大丈夫か?

 ――どうかしたか?

 ――何かあったのなら聞くぞ?


 そんな言葉を掛けるべきだが、どうしてか適切ではない気がして口を噤む。

 何とももどかしい空気が流れる。

 互いの吐息の他に聞こえる雨音は、次第に弱くなっていた。


「……くしゅっ」


 その時、可愛らしいくしゃみが響く。

 英梨花は寒そうにぶるりと身体を震わせ、自らを搔き抱いていた。

 それを見た翔太は自然とかつてよくしたように英梨花を抱き寄せ、手に指を絡ませ繋ぐ。

 突然のことに頬を赤らめ丸くした目を向けてくる英梨花に、翔太は懐かしむような、しかし困ったような笑みを返す。


「手、冷たっ! 風邪ひくぞ……って、俺の方がびしょ濡れだな。これじゃ余計に悪化するかも」

「ん、これでいい。兄さんあったかい」

「そっか」


 そう言って英梨花は翔太の胸に頭をぐりぐりと押し付けてくる。

 物理的にも精神的にもくすぐったく、思わず笑みがまろびでる。空気も緩む。

 だからだろうか。

 聞きたいことがスルリと口から出てきてくれた。


「なぁ、最近帰りが遅いけど、何してんだ?」

「…………」

「別に何してようがいいんだけどさ、さっきみたいな電話がくるとさすがに心配というか……知りたいんだ、英梨花のことが。そして昔みたいに頼って欲しい」

「……ぁ」


 翔太はジッと英梨花の目を見つめ、心の裡をにぶつける。みるみる頑なだった英梨花の表情が溶けていく。

 視線が絡み合う。

 英梨花の目には躊躇いが見て取れた。言い辛いことなのだろうか?

 やがて観念したのか英梨花は少し気まずそうに睫毛を伏せ、ポツリと呟く。


「……バイト、探してた」

「バイト?」


 予想外の言葉に間抜けた声が漏れた。

 バイト。

 英梨花から告げられた理由に目をぱちくりさせる。少々気が抜けてしまったのも事実。

 入学直後ということもあって多少性急過ぎる気もしないではないが、なるほど、普段から身の回りのものやオシャレに気を配っている英梨花のこと、色々物入りなのだろう。それに、バイトではお金以外でも目的や学べることもある。

 だが納得した顔を見せる翔太とは裏腹に、英梨花はどんどん表情を曇らせていき、そして苦々しく呟いた。


「私は、あの家の本当の子じゃないから」

「…………ぁ」


 ガツン、と。後頭部を思いっきり殴られたような衝撃が走った。

 英梨花は、翔太の父と母の子ではない。告げられた通りだ。遠く離れた、血の繋がりもかなり希薄な親戚。他人なのだ、その本質は。

 美桜のように家事をこなし食費を入れ、居候しているわけじゃない。その不安はいかほどのものか。今の英梨花の立場はものすごく脆弱で。

 だから、もしもにそなえて現金を得るためバイトを探していたのだろう。

 キュッと胸が締め付けられる。やはり英梨花はかつてと変わらず、兄として守るべき存在だった。その衝動に任せるまま英梨花をギュッと抱きしめる。


「昔も言っただろ、英梨花を守るって。俺は何があっても英梨花の味方だから……だから、心配するな」

「にぃに……」


 腕の中の英梨花はビクリと震えて恐る恐る見上げてくる。翔太が努めて明るく笑いかければ、英梨花は「んっ」と言って、ぎゅっと強く抱きしめ返す。

 雨はいつの間にか止み、空からは夕陽が差し込む。


「風邪ひくといけないな。帰ろう、俺たち・・・の家へ。それからいくかの約束をしよう」

「約束?」

「これから一緒に暮らしていくための、細々とした取り決め」

「……んっ!」


 翔太は英梨花の鞄を取って立ち上がる。

 互いに手を繋いだまま、昔のように帰路に着く。

 それぞれの顔は、屈託のない無邪気な笑顔に彩られていた。 


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