第15話 争覇の章 *出家~講和と断絶

  *出家


 元亀四年(一五七三年)も七月を迎えている。

謙信が予測した通り、信玄亡き今、畿内は信長の独壇場と化していた。

 手始めに、信長に公然と反旗を翻し、二条御所から山城国・槙島城に移り籠った、将軍足利義昭を攻略し、追放してしまっていた。

 元亀から天正に改元された八月になると、織田信長は軍勢を越前国・一乗谷に向けた。朝倉義景他一族を滅ぼし、返す刀で、近江国・小谷城を攻囲すると、浅井久政・長政父子をも自刃に追い込んでいた。

 ちょうどその頃、謙信は一万の軍勢を率いて、越中に再び出陣している。

 神通川以東まで固めた支配地域を更に進め、先ずは越中から一向一揆勢力を一掃する必要があった。

 この頃、前の尻垂坂の合戦によって、痛い目に遭い駆逐したはずの、加賀一向宗徒勢が越中国内に侵入し、再び神通川以西の諸城に籠ったうえで、越中の宗徒と結託し始めているらしい。この不穏な芽は、早期に摘んでおかなければならない。

 謙信に迷いはなかった。前の戦いで、富山城に籠城した宗徒を助命したのも、武器を捨てて帰農すると約束したからだ。この話は宗徒の間で広まっているはずなのだ。 それでも、懲りずに刃を向けて来るのであれば、もう容赦する余地はない。

 昨年手を焼いた杉浦玄任率いる銃隊の姿も、今は越中にない。謙信は越中に配置した全兵力を合流させ、総勢一万七千の大軍で神通川以西の各城を次々と陥落させていった。

 一揆勢の抵抗が激しかったのは、白鳥城・日宮城・二塚城までである。これらの城が謙信の手に落ちたことを知った一揆勢には、既に戦闘意欲の欠片も残っていなかった。散り散りとなって、加賀に逃げ帰るだけだった。謙信は殆ど空の状態になった城を接収すると、守兵を配置し支配を固めた。

 越中国内の諸城をほぼ手中に収めた謙信が、更に軍勢を差し向けた先は、一向宗徒の牙城である加賀国だった。この機会に、加賀の一向宗徒の拠点を潰さなければ、いつまた、同じことが起起きるか分からない。

 しかし、この謙信の動きを察知した加賀一向宗徒は、各支城を捨てて金沢御坊に籠り、徹底抗戦の構えを崩すことはなかった。

 金沢御坊とは言え、それは名ばかりの、加賀一向宗徒が籠る堀を巡らした巨大な城郭でしかない。長期戦を嫌った謙信は、やむなく軍を越中に引き返さざるを得なかった。

 越中に戻った謙信が入ったのは日宮城である。そこには、神保覚広さとひろが待ち構えていた。

 先年の戦の最中に、自ら援軍を要請しておきながら、一揆勢に恐れをなして、能登との国境である石動まで逃亡していたその人である。

 亡くなった神保長職の嫡男である長住は、親・武田派だったが故に、神保家臣団から早々に追放されている。その結果、当主としてのお鉢が回った同族の覚広に、日宮城主を任せることになった経緯がある。それが、あの失態を演じていたのだから、顔も見たくないというのが謙信の本音だった。

 しかし、家中の実力者であり、以前から謙信に忠誠を誓っている家老の小嶋職鎮もとしげらの手前、面会を断るわけにはいかない。日宮城への復帰を許した以上は、けじめをつけるためにも、一度は会うしかなかった。

 覚広の背後には家老の職鎮が控えている。ここはしっかり諫言しておくしかない。 謙信は、神保覚広に向かって口を開いた。

「覚広殿、先ずは本城への復帰、祝着である」

「これも全て山内殿のお陰。どれほど感謝しても、感謝しきれませぬ」

 悪びれる様子もなく、覚広は応じた。謙信の頭には、厚顔無恥という言葉が思い浮かんだが、さすがに口にすることははばかれた。

「今後のこともあるので、念のために訊いておこう。先年の戦の折に、何故勝手に城を明け渡し逃亡なされたのか。一揆勢に対し、多勢に無勢とは言え、貴殿さえ城を投げ捨てて逃亡しなければ、我らにも勝機はあったはず。新庄城の軍勢と示し合わせて、挟撃の機会を伺うべきであったと思うが如何か」

「一揆勢の大軍に攻囲されており、とても勝ち目はないと思った次第。いや、実に面目次第もござらぬ」

「如何に大軍に囲まれていたとは申せ、ひと月やふた月は籠城出来ぬ城構えではなかろう。貴殿の臆病風により、我らは数百という大切な兵を失っている。それを貴殿はどのように、自ら責めを負うべきと考えているのか」

 ここまで謙信に追い込まれては、もう覚広に返答する言葉は残っていない。いつのまにか、額からは汗が滲み出ている。背後から助け船を出したのは、小嶋職鎮だった。

「畏れながら、山内殿に申し上げます。我ら家臣団が付いておりながら、城からの退避をお止め出来なかったのは、神保家家臣団の全員が負うべき責めと心得ます。どうか、ご存分になされますよう」

 謙信が聞きたかったのは、小嶋職鎮からの詫びではない。当主たる覚広としての責任を負う覚悟だった。その一言すら発することが出来ない覚広に、謙信は完全に失望した。

 失った数多の兵の命はもう帰ることはない。しかし、こういう主の下では、また同じ失敗を繰り返すものだ。

「では申し渡す。小嶋職鎮殿には城代家老を申しつける。以後、覚広殿は神保家当主ながら、城主としての地位を剝奪する。なお、急な報せ事や相談事は、以後全て小嶋職鎮殿から、魚津城の河田豊前守長親に行うこと。此度のような失態を、二度と繰り返してはならぬ。以上じゃ」

「では、このまま、この日宮城に居続けても良いので」

 恐る恐る覚広が訊ねた。

「命を奪うつもりや、追放するつもりなどは毛頭ない。しかし、貴殿は城主としての、持つべき覚悟や矜持に欠けている。城を捨てたことの後悔や懺悔もない。そのような方に城主を任せることは出来ぬ。このままでは、神保家当主としてすら、果たして適任かどうか。あとはご自身で判断なさるがよい」

 そう言い放つと直ちに立ち上がり、謙信は日宮城を後にした。これ以上、覚広と顔を突き合わせていたくない、それだけだった。


 翌年の天正二年(一五七四年)は、謙信が一転して関東を転戦する年となった。

 越中は河田長親を中心とする家臣団が、戦で荒れ果てた国内の復興に注力し、それが徐々に結実しつつある。

 越相同盟が短期間で破綻した今、関東では北条氏政が父親の氏康と同様に、謙信不在の時を狙い、策謀を張り巡らしていた。内通の誘いや、謙信に味方する城主への攻撃を繰り返しており、それをいつまでも放置するわけにはいかない情勢となっていた。

 氏政を直接叩く機会は四月だった。謙信と氏政が利根川を挟んで、再び対陣したのだ。二年前とは大きく違う。武田信玄はもうこの世にいない。謙信にとっては氏政を叩き潰す、願ってもない絶好の機会だった。

 しかし、この時も自然の脅威が、謙信の前に立ちはだかっていた。折からの大雨により、利根川の水位が増して、一向に引く気配がない。戦おうにも渡河出来ないのではどうにも手の打ちようがなかった。結局、謙信は対岸の氏政軍が退却するのを、黙って見過ごす他なかった。

 その後も、謙信は氏政との直接対決の機会を伺うが、その時が訪れることはなかった。敵方の城を陥落させ、また砦には放火をして、氏政を誘い出そうとしたが、その誘いに乗ってはこなかった。

 この頃になると、関東においても勢力図に微妙な変化が生じている。それは、ほぼ常陸国を手中に収めた佐竹義重が、近隣の小山氏や宇都宮氏らの新たな盟主として、氏政に対抗するようになっていたことだ。そこには、九年前に父・義昭を失い悲壮感に満ちた表情で、謙信のもとに参陣してきた義重の姿はない。関東管領とは言え、拠点は越後にあり、今や北陸に軸足を移しつつある謙信を、冷静に俯瞰していれば、それは当然の帰結とも言えた。

 結局、その年の謙信は二度の越山にも関わらず、かくたる成果がないまま、帰国を迫られる結果となっていた。

 帰国する前に立ち寄ったのは上野国・厩橋城である。つい先だって、北条高広が隠居し、嫡男の景広が家督を継いだばかりだった。

 景広は、父・高広が一時北条に帰属している数年の間、謙信の下で薫陶を受け、側近として謙信を見続けてきた。謙信も景広の力量を認め、これからの上杉軍団の一翼を担う部将として、大いに期待するまでに成長している。

「どうじゃ、当主となった気分は」

 謙信が景広に問いかけた。決してからかっているつもりではない。

「全てが初めてのことであり、戸惑っております。自分が当主として務まるのか、今から非常に不安でいっぱいです」

「それは誰もが通る道じゃ。心配は要らぬ」

「御実城様も最初は不安でしたか」

「むろん、儂も同じであった。今思えば、全てに無我夢中であった」

「それでも、御実城様は、それがしなどよりも、ずっと若くして家督を継がれました。しかも守護代という大任でございます。比べること自体が、甚だ烏滸がましく存じます」

「そのようなことはない。守護代であろうが、城主であろうが、不安の大きさは皆同じじゃ。それに最初から自信満々な者ほど、案外、愚か者である場合が多い」

「それをお伺いし、少しは安堵いたしました」

「それに、隠居の身とは言え、お主には父が近くにおるではないか。迷った時には、遠慮せずに相談するがよい。決して、ひとりでは抱え込まぬことだ」

「承知いたしました」

「ところで、関東の今後については、お主と一度話をしておこうと思って参った」

「はい」

 謙信の表情が一転して硬くなったのを、景広は見逃さず居住まいを正した。

「この日の本は、今、大きく変わろうとしておる。氏康や信玄はこの世になく、知っての通り、四月には佐野昌綱も逝ってしまった。西では公方様が追放され、織田信長が急速に勢力を拡大してきている」

 再三再四にわたり臣従と反逆を繰り返し、謙信を苦しめてきた唐沢山城の佐野昌綱が急死していた。天正二年四月八日のことである。享年四十六歳。

「存じております」

「うむ。一方、この関東では氏政が相変わらず好き放題やっているが、もう一方で常陸の佐竹殿が下野の諸将と手を組み、あらたな対抗勢力となろうとしている。つまり、我らとの三つ巴といった構図がより鮮明になって参ろう。むろん、佐竹殿と戦うつもりは毛頭ない。しかし、様々な動向を素早く掴み判断する、そして、それを儂に報せることは、これまで以上に大切となる。それは分かるな」

「はい」

「家督を継いだばかりのお主には、荷が重いと感ずるかもしれぬが、今の儂の言葉を肝に銘じて、当主として務めて貰わねばならぬ。いや、儂の目に狂いはない。お主なら、間違いなく出来ると思い、言っておるのだ」

「やってみます」

 その景広の言葉に満足そうに頷いた謙信は続けた。

「向こう数年間、儂の動きは、西が中心になるかもしれぬ。信長が朝倉殿を滅ぼした今、一時は、越前国の一向宗徒に手を焼くであろうが、やがては南進を目指す儂と対立することになろう」

「御実城様は、今、織田殿と同盟なさっているのでは」

「一応、そうじゃが、儂と信長は所詮、水と油じゃ。決して交わることはない。いずれ衝突する時が来る。出来ればそれまでに、加賀までを儂が平定して力を蓄え、戦いを有利に進めなければならぬ」

「その間、関東のことは、この丹後守に任せるということでしょうか」

「その通りじゃ」

「しかし、左様な重責を担う自信がございませぬ」

「お主は幾つになった」

「二十七歳でございます」

「大丈夫だ、お主は儂の下で数年間過ごす中で、知らず知らずのうちに、将としての器を着実に磨いてきている。その慎重さが時折あだになるが、開き直った時の勇猛果敢さは、誰にも負けぬものを持ち合わせている。それにお主より三歳年上ではあるが、豊前守(河田長親)も、儂が不在の中、越中国をまとめて上げておる。お主であれば、万事任せても大事ないと思っているからこそ、こうして言っておるのだ」

「それがしは、この東上野を守ることで精いっぱいです。それ以上望まれても、それは無理というものでございます」

「それでよい。今を保持するだけで十分じゃ。ただ、それが決して簡単ではないことくらい分かっておろう。氏政はなかなか手強い相手だ。何を仕掛けて来るか分らぬ。西がひと段落したら、必ず大軍を率いて戻って来る。いずれ、氏政は徹底的に叩いておかねばならぬ相手だ。その時までは、辛い役回りとなろうが、儂はお主を信じて任せようと思う」

「御実城様にそこまで見込まれたとあっては、もう引き下がるわけには参りませぬ。全身全霊を傾けて、そのお役目を全ういたします」

 景広は目礼をもって、謙信に誓った。


 謙信が春日山に帰城したのは天正二年(一五七四年)十一月のことである。

 春日山城で待っていたのは、留守居役の直江景綱だった。軍装を解いた謙信は、直ちに景綱を実城内の居室に招き入れた。

「関東はなかなか難しいようですな」

 景綱は帰城の挨拶も済ませると、敢えて言い辛いことを一番に口にした。謙信に対して言い難いことを言うのも、自分の役割であると、いつの頃からか、割り切っている。

「帰国早々に手厳しいことを言うではないか」

「申し訳ございませぬ。しかし、事実を申し上げるのも、我が務めと心得ております故に」

「何が言いたい」

「暫くは関東のことをお忘れになった方が宜しいのでは、と存じまして」

「そのことであれば、心配に及ばぬ。厩橋で丹後守に任せてきた」

「左様でございましたか。そうとは知らず失礼を申し上げました」

「儂はどうやら時流に取り残されるところであったらしい。激変の波は関東の大地にも、確実に押し寄せてきている」

「どうやら、そのようですな」

「佐竹義重殿らが北条に対抗する大きな勢力になってくれれば、それはそれで良いと思っている」

「しかし、佐竹殿らとて、小田原には束になっても、勝つまでは難しゅうございましょう」

「それはいずれ儂がやる」

「なるほど。しかし、今までのやり方では、同じことを繰り返すだけですぞ」

「儂は決めた。向こう数年の間は、能登と加賀の平定に力を尽くすことにする」

「なるほど」

「そして、能登や越中の軍勢も引き連れ、大軍で越山し小田原を討つ。関東の国衆に援軍は頼まぬ。我が上杉軍だけで倒す」

「しかし、また籠城されてしまうのではありませんか」

「そうはさせぬ。大軍で武蔵国から相模国へと、敵の城を次から次へと陥落させながら、小田原に迫る。どこかの時点で、氏政は出て来ざるを得なくなる。今度は一年か場合によっては二年、氏政を討つまで関東に留まる覚悟で行く。兵糧の確保も考えてある。永禄四年と同じてつは、決して踏まぬ」

「そうなると、能登や加賀の制圧を、急がねばなりませぬ」

「そう簡単ではあるまい。加賀の一向宗徒はしぶとい。信長も北上して来よう」

「となると、お嫌いな信長とも、いよいよ断交ですかな」

「いや、それは最後でよかろう。縁切りはいつでも出来る。取りあえずは仲が良いふりをしていても損はあるまい」

「そこまでしたたかに立ち回るのであれば、何も申し上げることはありませぬ」

「強かなのは信長の方が一枚上手かもしれぬ。儂が越山するうえで、かねての約束通り、武田領の信濃国を、美濃から攻めるよう伝えたが、一向にその動きがなかった。 徳川は駿河への攻撃を行い、約定を果たしているにも関わらず、信長は弁解ひとつで済ましてきた」

「弁解だけではござりませぬぞ」

 景綱が意地悪そうな目で、謙信の背後の屏風を指している。

「ああ、これか」

 信長は信濃出陣が出来なかった詫びの品として、狩野永徳作の「洛中洛外図屏風」を贈ってきていた。金箔を施し、京の街を表した実に見事な屏風ではある。しかし、いつ敵になるか分らない相手からの贈り物であり、本殿広間に飾るわけにはいかない。仕方なく、謙信の居室に飾っていたものだ。

「欲しければ、いつでもくれてやるぞ」

「冗談でも頂けませぬ。丁重にお断り申し上げます」

 ようやく、二人の間に笑みが零れた。

「信長は信用出来ぬ。家康はそうでもないが、信長とは一蓮托生じゃ。いずれは徳川とも縁を切ることになろう」

「信長とも一戦を交える時が来そうですな」

「間違いないだろう」

「どの辺りでの激突になるとお考えで」

「時期にもよるが、緒戦は加賀あるいは越前辺りか」

「なるほど。それでは、この老いぼれも、その時が来るのを楽しみに生きて参りましょう」

「そうじゃ、大和守にはまだまだ長生きして貰わねば困る」

「この頃は、二言目には、そのことがお口から出て参りますな。ご心配には及びませぬ。ほら、この通り、当分は黄泉からもお呼びが掛かりそうもありません」

 景綱は胸に手を当て、体調に不安がないことを示した。

「ところで、先だっても足利義昭公から、御内書が届いておりましたそうな。織田殿から京を追われて、今はどちらに」

「今は紀伊国・由良の興国寺に身を寄せているが、近々安芸国の毛利を頼るつもりらしい」

「それを伺い安堵いたしました。正直、越後を頼って来られたら、困ったことになる、と内心肝を冷やしておりました」

「それは儂も同じじゃ。亡き義輝公の弟君とは申せ、時勢に疎い割に、我が儘で策略を巡らすことがお好きな方のようだ。信長に反旗を翻して追放されたことも、時期を見誤ったとしか言えまい」

「武田信玄の死は誰も予想出来ませんでしたから、仕方ないとも申せますが」

「いや、信玄と信長が戦って、勝敗を見極めてからでも遅くはなかったはずじゃ。今から考えれば、そこまで信長との関係が、冷え切っていたとも言えるが」

「そうだとしても、織田殿のお力なしで将軍職に就けたのかどうかは、実に微妙なところでございましょう」

「その通りじゃ。かの御方がもう少し、公方様としての威厳と矜持を示して頂ければ、儂の対応も少しは違ったかもしれぬが、余りにも」

 謙信はこれ以上口にすることは、さすがに憚られた。曲がりなりにも将軍職にある方を、これ以上愚弄することは、謙信の本意ではなかった。

「さすがの御実城様も、お言葉を選ぶのにご苦労なさる程の御方のようですな」

「これ以上言わせるな。ただ、毛利を頼ったとしても、今度は儂に対して、毛利と協力して東と西から信長を攻めるよう、嗾けてくるに違いあるまい」

「如何なさるおつもりで」

「いずれはご意向に従うことになろう。但し、信玄亡き今も武田は勝頼が継いでおり、兵力は未だ無傷のまま温存されている。決して勢力が衰えた訳ではない。それに加えて、小田原と信長の両方の動向を睨みながら、時期を判断する他あるまい」

「なかなか、心身ともに休まることはなさそうですな」

「仕方あるまい。これが儂の定めと心得ておる。そこで、大和守には予め伝えておくことが二つある」

「はて、それは如何なることでございましょう」

「先ずは喜平次のことじゃ。以前から気にはしていたが、我が養子とは言え、亡き義兄上や上田衆の手前、姓は長尾のままであった。しかし、三郎が上杉を名乗っているのに、喜平次が長尾のままではつり合いが取れぬ。喜平次にも上杉の名跡を継がせようと思う」

「それは目出度いお話です。こう申しては何ですが、同じ養子でありながら、血縁でもない三郎様だけが、上杉の姓を名乗っているのは、如何かと思っておりました」

「そうなのだ。三郎が来るまでは何ら問題なかったが、あの時は小田原への体面上、三郎に長尾を名乗らせるのははばかられた。しかし、そうなると今度は、喜平次が詰まらぬ思いを抱かぬ、とも限らぬ」

「お気づきだったのですね」

「当たり前だ。喜平次は初陣以来、上田衆を上手くまとめ上げ、関東と越中で目覚ましい活躍をみせ、儂に尽くしてくれている。先だって、栗林政頼にも内々に打診してみたが、大喜びであった。今となっては、長尾の姓に対する執着よりも、上杉の名跡を継げることの方を、名誉と感じてくれている」

「それならば、もう何も申し上げることはございません。それはいつになさいますので」

「新年早々の吉日である一月十一日を考えておる。上杉の姓を与えるだけで、済ませるつもりは毛頭ない。儂の官途である弾正少弼も譲り、諱も景勝に改めさせようと思う」

「もうご本人にはお伝えしておりますので」

「いや、未だじゃ。これにはもう一つおまけがある。年が明けて十五歳となる樋口与六も、同時に元服させようと思う」

「なるほど、仙桃院様のお計らいで、坂戸から喜平次様と伴に参った、あの時の小僧ですな。童でありながら、なかなかの才覚の持ち主との噂です」

 姉の綾は、夫・政景の死後は、剃髪して今は仙桃院と呼ばれている。

「そうなのだ。儂の目から見ても、行く末が楽しみな奴よ。幼い頃から伴に育ったせいか、喜平次とは、兄弟のように仲が良い。ゆくゆくは、喜平次の良き側近となろう」

「御実城様もなかなか、粋な計らいをなさる。喜平次様にとっては、何よりのはなむけとなりましょう」

 まさか七年後に、この与六が直江家を相続することになるとは、夢にも思わぬ景綱である。

「そうであれば、儂としても嬉しい限りじゃ」

「もう一つ、ございましたな。我が耳に入れておきたいこととは何でございましょう」

「そうであった。儂は近々出家しようと思う」

「えっ、まさか今更、出奔なさるおつもりではないでしょうね」

「心配するな。剃髪して法体装束を纏うだけじゃ」

「それならば、既に自らを法名の謙信と称されており、いずれそうなさるとは思っておりましたが、何故この機に、と思われたのでございますか」

「たとえ義のためとは言え、儂は数多くの殺生を繰り返して参った。そして、その修羅の道はこれからも続く。この現世における悪行は、法体になっても決して消えはしない。それでも、僧侶の身となって、亡くなっていった者たちを供養することが、現世におけるせめてもの、儂に残された務めだと思っている。それが、栃尾での旗揚げから、三十年が経つ今が、良い区切りだと思っただけじゃ。それに我が師たる清胤様のご都合もある。かねてより、ご都合をお伺いしていたが、ようやくお越し頂ける段取りがついたのだ」

「それはおめでとうございます。まことに殊勝な心掛けと存じます。それがしになど、とても真似が出来ることではございませぬ」

「良いのだ。これは自分に対する慰めでもあることは分かっている。殊勝なことなどでは決してない」

「その謙虚さが、それがしのような凡人を惹きつけるのでしょうなあ」

「そのように主をからかうものではない」

「からかうつもりなど、毛頭ございませぬ。正直申し上げたつもりですぞ。お気を悪くされては困ります」

「まあ良い。とにかく、儂は僧侶として、父・為景の三十三回忌法要も、年末に執り行うつもりでいる」

「それは良いご供養になることでしょう。しかし、あれから、もうそんなに経つのですなあ。月日の経過が早いことに、驚いてしまうこの頃。歳は取りたくないものです」

「それは儂も同じじゃ」

 しかし、こうしている間にも、時は待ってくれない。刻一刻と過ぎ行く世の無常を噛みしめながら、ただ前に進むしかない、と謙信は思った。

 天正二年十二月十八日、謙信は凍てつく寒さをものともせずに、城下まで繰り出していた。

 自らの師である、高野山金剛峰寺・無量光院の清胤を出迎えるためである。蔵田五郎左衛門尉に手配させ、国境まで出迎えの兵と馬を出しており、もう直ぐ着くことになっている。

 遠くにその姿を発見するや、謙信は待ち切れず駆け出していた。

「此度は遠路お越し頂き、何と御礼を申し上げたらよいか」

「なんの。最愛の弟子のためとあれば、何処なりとも参上するのが、師たる者の務め。お気になさいませぬよう」

 清胤は長旅の疲れをも感じさせることなく、以前と変わらぬ、全てを包み込むような優しい笑みを口元に湛えている。

「今宵はゆるりとお休みくだされ。明日は我が生涯において記念すべき一日となります。その日に師たる清胤様をお迎え出来たことに、無上の喜びを感じております」

 謙信はまるで子供のように、喜びを爆発させていた。長年の念願が叶うのだから、無理もないことだった。

 謙信と名乗り始めた時から、出家は決めていたものの、あくまでも、師たる清胤立ち合いに拘ったために、この日まで延び延びとなってしまっていたのだ。

 かくして、謙信は翌十二月十九日に、出家し名実ともに法体となった。清胤は謙信に対して、修行の導師として四度の法会灌頂を行い、阿闍梨権大僧都の地位を授けている。

 更に同二十四日、謙信は春日山林泉寺において自らの手で、父・為景の三十三回忌法要を、厳粛且つ盛大に執り行った。


  *講和と断絶 


 翌天正三年(一五七五年)一月十一日、吉日のこの日、長尾喜平次顕景が改名した。 上杉弾正少弼景勝の誕生である。

 同時に樋口与六も元服し、諱を兼続とした。

 景勝と兼続は、儀式を終えた後に、御礼の言上のため、揃って謙信の下を訪ねていた。

「御実城様のお陰をもちまして、こうして二人ともに、それぞれ改名並びに元服の儀を滞りなく終えることが出来ました。ここに深く感謝申し上げます」

 二人を代表して景勝が御礼を申し述べた。

「左様な堅苦しい挨拶は抜きじゃ。これからは三人で祝い酒と参ろう」

 謙信の指図で、すぐさま三人の前に酒と肴が用意された。

「先ずは祝着じゃ」

 謙信は盃を軽く掲げると、それを一気に飲み干した。それを見ていた景勝と兼続も、うやうやしく両手で持った盃を緊張した面持ちで飲み干した。二人とも酒はいける口らしい。

「御実城様は私との約束を守り、こうして果たして下さいました」

 口を開いたのは、元服したばかりの樋口兼続である。

「忘れるはずもなかろう。与六、いや兼続が文武に勤しむ様子は、いつも気にしながら、新兵衛たちから聴いておったぞ」

 近臣として活躍していた彌太郎や新兵衛らは、年齢を考慮して、今は春日山で預かっている子供たちに武芸や教養を授ける役回りを担っている。もちろん、その中から秀でた才覚の持ち主を更に伸ばすと同時に、その様子は謙信の耳にも、逐一届ける手筈となっていた。

「そうでしたか。それでは後ほど、あらためて老臣の皆さまには、御礼を申し上げたいと存じます」

「うむ、そうするがよい。皆喜ぶことであろう。景勝が戦で城を離れていた時も、一人遅くまで文武に励んでいたらしいではないか」

「はい、それも今日こうして元服の日を迎えられたことで、全てが報われた気がいたします」

「いいや、今日で終わりではなく、今日が始まりじゃ。お主にはこれから景勝の片腕として、しっかりと、その役割を果たして貰わねばならぬ。頼んだぞ」

「はいっ、承知いたしました」

「御実城様、ご心配には及びませぬ。兼続は坂戸の城を出た時から、既に我が随一の側近でございます。きっと、御実城様のご期待以上の働きを、これからお見せ出来ることと存じます」

 普段は決して口数の多い方ではない景勝が、珍しく饒舌だ。これも兼続の元服が、どれだけ嬉しくて仕方ないかの表れであろう。謙信は満たされた盃を口に運びながら、素直に喜びを噛みしめていた。

「今考えれば、景勝と伴に兼続を春日山に送り込んで下された、お主の母上に感謝せねばならぬのう、景勝」

「仰せの通りと存じます」

「景勝、そして兼続、お主たちにはひとつだけ儂から伝えておく」

「はい」

 突然真剣な眼差しとなった謙信を前にして、何を言われるか分らない二人は、些か当惑しながらも、盃を膳に置いて次の言葉を待った。

「いずれこの儂も、お主らより先にこの世を去ることになろう。その時、この日の本の時勢が、どう動いているのか、変わっているのか、今は無論知れたものではない。儂が一番恐れているのは、その時が越後最大の危機かもしれぬということだ。分かるな」

 二人は同時に唾を吞み込み、頷いた。

「お主たち二人は、その危機を乗り越えなければならない。いや、言い換えよう。お主たち二人が力と知恵を合わせれば、必ず乗り越えられる。そう儂は信じている。この話を二度とすることはなかろう。それぞれの胸の奥にしっかりと刻みおくのだ。そして、に思い出して動け。良いな」

「はい」

 二人は同時に返事をした。

「二人は全てが同時じゃのう。余程気が合うとみえる。良し、本当に固い話はこれで終いとしよう。今宵は儂も嬉しい。気分が良い。三人で飲み明かそうではないか」

「承知しました」

 今度も元気よく二人が揃って返事をした。互いに眼を見合わせた三人が思わず笑っていた。


 柿崎和泉守景家が亡くなった。木崎城からの急報だった。

 前の晩まで、普段通り元気に酒盛りをしていたという。翌朝、床の中で静かに横たわる姿が発見されている。その顔は眠っているように安らかだったらしい。享年六十二歳だった。

 元亀四年元旦には、村上義清が先立っている。二月前には、初陣から仕えてくれた本庄実乃も、静かにこの世を去っていた。若者の成長・台頭と引き換えのようにして、謙信を支えてきた老将が、ひとりまた一人と消えていく。その度に、何とも言い表せない虚無感が謙信を襲っていた。昼は一人毘沙門堂に籠り、ひたすら祈り続け、夜は酒で紛らわし、現世の無常を噛みしめる日々が続いていた。

 やがて、柿崎の家督は晴家が継ぐことになった。越相同盟の折に、小田原に人質として赴いたその若者だ。晴家に、父のような剛胆さと繊細さの両方を、求めるのは難しい。しかし、小田原での人質生活は、これから一族の長として必ず役に立つはずだ。今はそれを信じるしかない。

 その日は雨上がりの空に浮かぶ雲間から、時折姿を見せる月が綺麗な日だった。その月明りを頼りに、ひとり酒を傾けていた時のことだ。ふいに幻次が現れ、謙信の前に跪いた。

「如何した、何かあったか」

「火急の報せでございます」

「申せ」

「去る五月二十一日、三河国長篠城の西方、設楽原にて織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼が激突、どうやら武田勝頼が大敗した模様でございます」

「勝頼如き若造が、信玄の遺言を破って討って出たか。仔細は如何した」

 信玄の死は三年を待たずに、死後直ちに各地に広まったが、勝頼には三年間は体力を蓄えよ、との意味も含めた遺言であったはずだ。やはり気が逸り、功を焦ったか。

「未だ掴めず、分かり次第あらためてお報せ申し上げます」

「うむ、急げ」

 幻次が立ち去った後も、胸の鼓動の高まりは治まらない。

 これで信長との手切れが早まるのは間違いない。謙信と信長は、武田という共通の敵を抱えて、繋がっていた関係に過ぎない。

 武田勢の損害次第では、暫くの間、勝頼は立ち上がれまい。一挙に信長が勢力を拡大するのは目に見えている。信長が次に目指すのは、ひとつは播磨から西の国々であり、もうひとつが北の越前加賀のはずだった。

 数日後、幻次から設楽原における合戦の詳細が入った。

 織田・徳川の連合軍三万八千が、武田勢一万五千を完膚なきまで打ちのめしたという。武田勢の死傷者は一万にも及ぶらしい。

 中でも、山県昌景・内藤昌秀・馬場信春・真田信綱といった信玄以来の重臣が、悉く討ち死にしており、総大将の勝頼だけが、再起を託され逃れていた。

 どうやら、勝頼は討ち死にした重臣らの反対を押し切って、信長と家康の大軍に真っ向から挑んだらしい。

 格別の策がないにも拘らず、三倍近くの敵に真っ向勝負を仕掛けたら、こうなるのが分らなかったのだろうか。もしそうであれば、それは大国を治め、大軍の命を預かる将としては、失格と言わざるを得ない。

 信玄は嫡男・義信を自らの手で殺め、後継とした勝頼も戦上手とおだてられ、過信した挙句の果てがこれでは、おそらく浮かばれまい。甲斐源氏の嫡流である武田家も、進退窮まったと言う他ない。

 後日、信長から謙信に対して、設楽原での大勝を誇示する内容の書状が届けられた。多少の誇張はあるが、幻次から知らされた内容とほぼ同じだった。

 設楽原での大勝を機に、信長は謙信と距離を置くだけでなく、謙信の怒りを買う勝手な動きを取り始める。

 手始めは、山浦国清への接触だった。謙信を通さずに直接、北信濃の切取りを書状で促す、という無礼を平気で行ってきたのだ。

 国清は村上義清の子であり、今は謙信に臣従し、越中国に在番している。その国清に対して、謙信を通さず直接書状を送るなど、内通を唆しているとしか思えない遣り口だった。

 これに一番驚いたのは、送られた当の本人、国清である。国清は幼い頃に父と伴に葛尾城を追われながらも、救いの手を差し伸べ、今では一門衆として取り立ててくれている謙信に、並々ならぬ恩義を感じている。

 その謙信から事実無根とは言え、内通の疑いを掛けられては堪らない。すぐさま、その書状を春日山城に回付したことで、謙信の知るところとなっていた。

 信長の横暴はこれだけに止まらない。

 常陸国の佐竹義重と下野国の小山秀綱に対しても、設楽原での大勝を報せるとともに、討ち漏らした勝頼を、攻め滅ぼして欲しいと、直接要請してきたのだ。

 これまで、関東諸将に対する事柄は全て、関東管領である謙信を通して行ってきたにも関わらず、このあからさまな態度の変化である。

 これに一番怒りを覚えたのは佐竹義重だった。これではまるで、信長に臣下の礼を取れと言わんばかりの内容ではないかと憤慨し、信長に対して書状を突き返すと同時に、謙信にも顛末を報せてきたのだ。

 元々独立心の強い関東諸将である。謙信はその意向を十分汲み取ったうえで、あくまでも対等同盟という形式で、味方を募ってきた経緯がある。

 義重にすれば、関東管領の謙信からでさえ、臣下の礼を求められたことがない。武田勝頼に一回勝ったくらいで、調子に乗っている信長になど、おいそれと従うはずもなかった。

 謙信自身は、佐竹義重からの報せを冷静に受け止めていた。

 信長がようやく本性を見せただけなのだ。それが早いか遅いかだけの話であり、いずれこうなるのは分かっていたことだった。

 謙信にもう迷いはなかった。例え味方が誰一人としていなくても、信長と戦い討ち滅ぼすしかない、と密かに決意を固めていた。

 天正三年(一五七五年)十二月、足利義昭からの使者が、春日山城にやってきた。大館藤安という幕臣である。兄の晴光には、永禄二年の上洛時に面識があったが、藤安とは初対面だった。使者を遣わしたのは、これまでの経緯から、御内書を送りつけただけでは心もとない、と義昭が考えたからに違いない。

 義昭の備後国・鞆の浦への動座は、延期を重ね、年明けにようやく実現するらしい。未だ紀伊国に留まっているとのことだ。

 藤安は早速、義昭からの言伝を話始めた。

「公方様は山内殿の上洛を心待ちにしておられます。上洛して逆賊・織田信長を成敗して欲しい、と心から願っておいでです。此度、不本意ながらも一旦備後国へと、ご動座なさいますが、必ず毛利殿の大軍を率いて捲土重来を果たすと意気込んでおられます。その時は、是非とも山内殿には、東から攻め上って頂きたいとの思し召しです。そのためにも、一日も早く北条や武田、それに一向宗との和睦をお望みなのです」

「公方様のお望みは、かねてより重々承知いたしております。畏れながら申し上げますが、小田原とは先年迄同盟関係にありましたが、先方から一方的に断交を申し入れてきたもの。説得は小田原に対して、お願い致したいところでございます。また、武田についても北条との同盟が堅く、我が越後を敵視している以上は、極めて困難と心得ます。一向宗も石山本願寺に和睦を申し入れても、依然として良き返事を頂けず、今日に至っております。以上からご理解頂けるとは存じますが、原因は全て相手方にあり、この謙信一人に対して、和睦を求められましても、それは相手があること故に筋違いというもの。是非とも、相手方をご説得頂きたいと存じ上げますが、大館殿は如何お考えでしょうか」

「山内殿のお申し出はご尤も、と存じます。公方様も方々に手を尽くされておりますが、なかなかに難しく、良き返事を貰えてはおりませぬ」

「それでは、公方様が如何に我が上洛をお望みでも、困難を極めるは必定。しばしご猶予を頂戴する他ございませぬ」

「それでも、唯一望みを託せるところがございます」

 意味ありげな大館藤安の言葉に、謙信は急に興味を持った。

「そのひとつとは」

「石山本願寺でございます」

「本願寺顕如様は、武田との誼から、和睦に応じてはくれませぬが」

「それが近頃、少し様子が違うのです」

「違うとは、如何なることでしょう。もう少し詳しくお聞かせ願えますか」

「武田殿も代替わりで、勝頼殿の代になられた。その勝頼殿が数か月前、信長に惨敗を期したことで、顕如様も距離を置き始めているのです。まして勝頼殿は、三条の方が産んだ子ではございません」

「なるほど。実に機敏な動きですな」

 皮肉を込めた表現で、謙信は伝えたつもりだ。

「そのうえ、十月の越前国における一向宗徒への猛攻の後に、一旦は信長と和睦した顕如様ですが、どうやら怒りは収まっていないようなのです」

 事実、同年八月に、信長は越前国の一向一揆を攻撃し、大打撃を与えていた。

「とすると、信長との再度断交も間近ということでしょうか」

「公方様はそのように睨んでおります。公方様は備後国にお移りになったら、すぐにでも本願寺と山内殿との和睦の仲介を、密かに進めるつもりでお出でです」

「それは願ってもないこと。ご存知の通り、越中や能登の一向宗徒は、ほぼ鎮静化させておりますが、金沢御坊が控える加賀の宗徒には、まだまだ手が掛かりそうな状況故に、もし和睦がなれば一挙に道が開けましょう」

「それは頼もしい。今の話を聞けば、公方様もお喜びとなります」

「お待ちくだされ。とは申せ、信長を叩き潰し、小田原を滅ぼして後となります故に、上洛迄には少なくとも、あと数年を要するものと思われます」

「それでも、数年の後に実現するのであれば構いませぬ。早速、紀伊に戻り公方様に本願寺との話を進めて頂くよう申し伝えます」

「宜しくお願い申す」

 謙信の目の前に、一筋の希望の光が表れた瞬間だった。

 そもそも、京には畏れ多くも帝が鎮座し、その帝から政事を委託された、将軍がいなければならない。そして、その将軍は全ての武家を統べるのが本来の姿だ。その秩序が保たれて戦もなく、安心して暮らせる世の中こそが、民が求めている国の姿でもあるはずだった。しかしながら、乱世という時流を正当化し、かつては成り上がり者の三好長慶が、そして今は織田信長が、将軍をないがしろにして君臨しようとしている。このことは謙信にとって、断じて許容できることではなかった。

 確かに義昭公にも将軍の資質としては疑問が残るところがある。しかし、だからといって、その御方を廃し奉る、あるいは追放しても良いことには、決してならないはずだ。管領や国主は、将軍が如何なる御方であれ、あくまでも、その高貴な血筋を引く御方を補佐し、正しい方向に導くべきなのだ。

 謙信は自らの理想実現に向けて、ようやく、その第一歩を踏み出そうとしていた。

 

 天正四年(一五七六年)一月、将軍足利義昭は、紀伊国由良の興国寺から、毛利領の備後国鞆の浦とものうらに動座した。かの地は昔、足利尊氏が、光厳上皇から新田義貞追討の院宣いんぜんを賜ったとされ、足利将軍家にとって、縁起の良い場所である。

 義昭は早速、積極的に動き始めた。毛利輝元に信長追討と幕府再興に協力するよう、求めると同時に、本願寺への対謙信和睦工作を進めた。

 思った通りだった。前年の信長による越前一揆勢への攻撃で、一旦は怖じ気づいた顕如が、信長と和睦をするも、決して屈服した訳ではなかった。むしろ、時が経つに連れて、信長に対する怒りの炎は増幅する一方だった。

 そこに、謙信との和睦と同盟の話である。石山本願寺・顕如にとっては、まさに「渡りに船」の話だった。

 同年五月、将軍足利義昭の仲介により、遂に謙信と本願寺顕如との和睦が成立した。同時に謙信と毛利輝元との同盟も結ばれ、ここに織田信長との断交は決定的となった。


 信長は安土にいた。

 琵琶湖の南東部に位置するこの地に、巨大な要塞の築城を、始めたばかりだ。

 今は越前から呼び戻した柴田勝家を従えて、城普請の進み具合を眺めている。勝家には、前年の越前国一向一揆殲滅作戦以降、北陸方面の総司令官を命じていた。もっとあからさまに言えば、謙信対策である。この安土城も、北陸道から京を狙う謙信対策の城でもある。

「とうとう、謙信が本願寺と和睦したらしい」

 信長が勝家を呼びつけたのは、他でもない。この話をするためだ。

「それはまことでございますか」

「これで謙信とは完全に手切れとなった。既に毛利とも手を結ぶことが決まっているらしい」

 信長はこれまで毛利氏との友好関係を保ってきていたが、足利義昭が毛利領である鞆の浦に動座したことによって、解消されたのも同然の状態だった。

「顕如の奴、去年の越前攻めで懲りたのかと思ったら、そうでもないらしい。また儂に牙を剝こうとしておる」

「少しやり過ぎましたか」

「いや、あれでよい。いずれ、本願寺は潰さねばならぬ相手。それが少し早まっただけと考えればよい。そもそも、坊主が寺とは名ばかりの城郭内に、宗徒を武装化させて籠るなど、実に怪しからん輩じゃ」

「しかし、雑賀衆も中に引き入れて、相当火縄銃の使用にも手馴れているそうでございますし、油断は禁物かと存じます」

「権六」

 信長は非公式の場では、いつも昔ながらの名で呼んでいた。

「はい」

「儂は少しも油断などしてはおらぬ。言葉には気をつけろ」

「申し訳ございませぬ」

「本願寺攻めには右衛門尉を向ける。周囲に出城を設けて孤立させる。心配ない」

 右衛門尉とは佐久間信盛のことだ。

「兵糧攻めでございますね」

「うむ。それより、お主は越後の動きだけに集中しろ」

「ははっ」

「ただでさえ軍神と恐れられる謙信じゃ。その謙信が一向宗と手を結んだのだ。下手をすると、これまで積み上げてきたものが、全て水泡に帰する恐れすらある。加賀の一向一揆殲滅はどうなっておる」

「それが越前において一揆が再燃し、未だ手を焼いている状況で、とても加賀までは、手が」

「馬鹿者、早くやれ」

「はい、早速」

「能登の七尾城はどうだ。調略は上手くいっているか」

長続連ちょうつぐつら綱連つなつら父子が、未だ遊佐や温井らの重臣と対立しているようで、これもなかなか手古摺てこずっております」

 勝家は流れる冷や汗を、押さえるのに必死の様子で、言葉も徐々に小さくなる有様だ。

「何を愚図愚図しておる。鬼の権六の異名が泣いておるぞ。こうしている間にも、謙信は能登と加賀の攻略に向けて、着々と準備を進めているに違いない。とにかく急げ」

「直ちに戻り進めます」

「いずれ大軍を送り込む。謙信との決戦となれば、儂が直接出向かざるを得まい。それまでお主が下地をしっかり固めるのじゃ。行け」

 逃げるように引き下がった勝家から目を逸らし、信長は琵琶湖の遥か北方に目を向けて、一人呟いた。

「謙信、来るなら来てみろ」

 信長が目指す天下一統の前に、敢然と立ちはだかる巨頭、それが謙信である。来るべき宿敵との決戦に思いを馳せながら、信長はその場に立ち尽くしていた。


 

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