軍営

横山士朗

第1話 序章

  * 初陣


 秋の雲一つない青空高く、白い狼煙が真っ直ぐに伸びていく。その合図を景虎の瞳が、しっかりと捉えていた。

 全て手筈通りだ。抜かりはない。

 暫くすると、遥か彼方から大量の土煙とともに、地鳴りのような轟音が少し遅れてやってきた。

ついにこの時が来た。敵兵はざっと二千、いや三千か。

大地が震える。いや違う、己の怖じ気づきに違いない。落ち着け、よく見ろ。我らを遥かに上回る軍勢とは言え、陣形を組む素振りすらみせない。思っていた通り、ただの寄せ集めではないか。数に頼んだ力攻めで来るならば、怖れるに足りぬ。

まとまりのない気勢を方々で上げながら、押し寄せる敵の軍勢を、景虎はやぐらの上から見下ろしている。

この戦、勝てる。

「新左衛門尉、敵の動きをどうみる」

 どこから見ても、統制が取れているようには思えない。景虎は傍らに控える栃尾城代の本庄新左衛門尉実乃しんざえもんのじょうさねよりに訊ねた。

「御心配には及びませぬ。かねてより我らが予想してきた通り、敵は若殿のことを戦知らずの若輩と侮っているようです。せいぜい、数を頼みに我らを押し潰そう、といったところでございましょう。そこに格段の策はない、と断言出来ます」

「儂の見立ても同じだ。新兵衛、弥太郎からの報せはどうなっている」

「ははっ、夜陰に紛れて、無事に埋伏を済ませた、とのことでございます。敵の背後をつく手筈に、抜かりはございませぬ」

 近習の金津新兵衛が、前方の敵を直視したまま返答する。挟撃を狙って、別動隊を率いる近習の小島弥太郎と黒金孫左衛門も、敵に悟られることなく、予め決めた場所に、埋伏が完了しているらしい。

「いよいよで、ござりますな、若殿」

 声をかけたのは、援軍に駆けつけた、揚北あがきた(現在の新潟県下越地方)の有力国衆の一人である安田長秀である。景虎が見事に指揮する様子を、半ば驚きながらも、頼もしそうに見ている。

「此度、安田殿が合力して下されたお陰で、こうして大胆な策を講ずることが出来ました」

 こう言うと、景虎は目礼し応えた。

初陣、ようやく、ここまで漕ぎつけた。

眼下には自らの旗印として決めた「毘」旗が、秋の風に吹かれて翻っている。

「参るぞ」

 景虎は近習として新たに加わった、庄田惣左衛門尉定賢しょうざえもんのじょうさだかたや吉江忠景らを従えて、櫓から素早く降り立った。

 天文十三年(一五四四年)、この時、長尾景虎のよわいは十五歳。前年の天文十二年、景虎は守護代である兄、長尾晴景の命を受けて、「古志郡司」として越後国・栃尾城に入った。

 栃尾城代である本状実乃のもとで、中郡なかごおり(現在の新潟県中越地方)の勢力基盤を固めるためである。

 しかし、近隣の黒滝城主である黒田秀忠や、長尾一族でありながら三条城の長尾平六長景らは、守護代・晴景が病弱で、統率力が欠けていることにつけ入り、反抗を続けていた。これらの不逞の輩が、栃尾城を武力で陥落させ我が物にしようと、遂に挙兵したのである。

 当時の越後は、揚北(現・新潟県下越地方)の有力な国人の間で、しばしば争いが発生していた。それに加えて、長尾氏の勢力基盤であるはずの中郡においても、守護代・晴景と未だ若輩の景虎兄弟を侮り、反発を表面化させる輩が平然と跋扈する事態となっていた。

 その反抗勢力筆頭である黒田秀忠などは、元を正せば、晴景と景虎の父である先代の為景に勤仕して気に入られ、黒川城主として任じられた大恩ある身である。その大恩ある身にも関わらず反故にして、反旗を翻し、栃尾城攻めを決行したのである。

 かかる不義の仕業は、幼少期より林泉寺第六世住持である天室光育の薫陶を受け、「義心」を叩き込まれた景虎にとって、断じて許せることではない。この不義不忠の者を相手にする意味では、景虎の初陣にこれほどお誂え向きの敵はいなかった。

父、そして府内長尾家から受けた恩義と、かつて誓った忠誠心を忘れ去り、守護代である兄・晴景に反逆する黒田一党を、畏れながら刀八毘沙門天様に代わって、この儂が必ずや成敗してみせる。絶対に勝つ、いや儂は勝たねばならぬ。

 決意をあらたにする景虎だった。

「いざ出陣じゃ、ときの声を上げよ」

『えいえいえい、おう』

 景虎勢全員の声が、越後国栃尾の地に高らかに響き渡る。兜を纏った頬に当たる秋風が心地よい。逸る景虎の気持ちを鎮めてくれた。


  *誕生


 享禄三年(一五三○年)一月二十一日、越後守護代である長尾為景に、待望の男子が誕生した。

 為景には永正六年(一五〇九年)に誕生した嫡男の晴景と、その弟である景康がいた。晴景は生来病弱で気弱なために、継子としては些か不安があり、景康は凡庸が過ぎて、守護代家を支える者としては、心配が尽きなかった。また、大永七年(一五二七年)に生まれた男子も、早逝しており、この時既に四十の歳を超え、壮年期を迎えていた為景にとって、事実上三人目となる男子誕生は、喜びも一入だった。

 母親は栖吉すよし長尾家出身の虎御前である。虎御前はこれより二年前にも、為景との間に、女子を授かっている。これが後に仙桃院と呼ばれ、上杉景勝の母となる、景虎にとっての実姉・綾姫である。

「よくやった。元気で利発そうな男(おのこ)ではないか」

「まことに。どうぞ抱いてやって下さいませ」

 為景は生まれたばかりの赤子を、ぎこちない手で抱きながら目を細めている。

「良い子じゃ、良い子じゃ」

 為景はその赤子から、虎御前に顔を移し、更に続けた。

「そなたの身体に障りがあってはいかぬ。先ずはよう休んでおくれ。この子の名前じゃが、かねてより男子であれば、今年の干支から『虎千代』と決めておった、如何じゃ」

「良い名でございます。殿によく似て賢く、強く逞しい武家の子として、健やかに育って欲しいものでございます。」

「その通りじゃ。嫡男の晴景は、あのように病弱故に心許ない。ゆくゆくは、この府内長尾家を支え、晴景を輔弼して、国に安寧をもたらす程の武者に育って欲しいものじゃ」

 この赤子が長尾景虎、後の上杉謙信である。

 男子誕生に沸き、心底から喜ぶ為景だったが、この時、越後国守護代としての彼の地位が、盤石かと言えば、必ずしもそうではなかった。

 父である長尾能景の後を継ぎ、守護代に就任して以降、その政権地盤は常に不安定であった。この後も彼が没するまでの十年余りは、政争と戦に明け暮れることになる。父・長尾為景の生涯もまた、波乱万丈であった。

この子・虎千代が元服するまでは、何としても生き長らえて守護代家を、いやこの越後を守らねばならぬ。今の儂にとって、この子は唯一の希望の光だ。この子のためにも、儂は絶対に負けることは許されぬ。

 一抹の不安を抱えながらも、生まれたばかりの静かに眠る我が子を、じっと見つめながら、為景は、そう決意を新たにしていた。

 庭先からは、どさっという大きな物音が聞こえてきた。積もった雪の重さに耐えかねた、庭木の枝から、崩れ落ちた雪の音に違いなかった。越後の春はまだ遠い。


  *下剋上


 話は一旦更に、父・長尾為景の若き時代まで遡る。

 上杉謙信の生涯を辿るうえでは、当時の越後国や、代々守護代職を継承する府内長尾家を取り巻く周囲の状況、そして謙信が生まれる以前の越後国内外情勢がどうであったかを、予め念頭に置くことが欠かせない。

 父である長尾為景の足跡は、謙信の生涯に少なからず影響を及ぼしている。謙信が父や兄から継承したのは、必ずしも歓迎すべき遺産ばかりではない。むしろ、負の遺産全てを、一人肩に背負うことからが、彼の出発点だった。

謙信の生涯は、避けようもない宿命に対し、真正面から真摯に立ち向かい、時には迷い苦しみ抗いながらも、果敢に挑み続けた、まさに死闘の歴史でもある。

 足利将軍家の再興、関東での覇権掌握という見果てぬ夢を追い求め、道半ばにして倒れるまでの四十八年余の人生は、先ず父・為景の歩みを知らずしてはとても語ることは出来ない。


 謙信の祖父であり、為景の父である長尾能景は、越中国(現在の富山県)守護である畠山卜山からの要請を受けて出陣した、般若野はんにゃの芹谷野せりだんのにおける合戦で、神保氏と加賀の一向宗徒の連合軍に敗れ、敢え無く戦死してしまう。

 父の急死を受けて、長尾家第十代の守護代として、急きょ跡を継ぐことになったのが、謙信の父・為景だった。永正三年(一五〇六年)九月、この時、為景十八歳である。

 以降、一向宗徒との戦いが、為景から景虎(謙信)までの代にわたり、まるで因縁であるかのように、長年続くことになったことは、謙信第一の宿命と言える。

 守護代に就いた父・為景は、先ず五十嵐・石田氏といった越後・中郡の、以前からの反感分子を急襲して、これらをことごとく平定した。

 しかし、為景にとって本格的な戦いの始まりは、越後守護である上杉房能との、主従間での争いだった。

 時は実力だけがものを言う戦国の世である。大義名分と損得を上手く絡ませながら、人望を得ることこそが、下剋上と言われる世を生き抜く条件である。

 越後守護である上杉房能ふさのりは、自身の実兄である関東管領・上杉顕定あきさだからの度重なる要請に従い、越山(関東への遠征)を繰り返し行っており、父・能景の代にあっては、これを黙認・追従していた。

しかし、新たに守護代となった為景は、守護・房能の越山を、正面切って「否」と反対したのである。これには、越後国人衆の意向が強く働いていた。

 関東への出兵は、越後国人衆にとっては迷惑以外の何物でもない。利益をもたらすどころか、兵の損耗損失と、膨大な戦費支出による疲弊が残るだけの、迷惑な軍役でしかなかった。

 従って、能景の時代にくすぶっていた国人衆の不平不満が、為景への代替わりによって一挙に爆発した格好だった。

 関東管領家からの越後に対する出兵要請、これには当時の関東における権力争いが大きく絡んでいる。関東管領家である山内上杉家と扇谷おおぎがやつ上杉家、その主筋に当たる古河公方、これに新興勢力の北条早雲(伊勢新九郎長氏)が、相互に利害で絡み合い、離合集散を繰り返すことが常だった。

 この年々激しさを増す関東擾乱に、関東管領と隣国の越後守護が実の兄弟であることから、越後が門外漢を決め込むどころではなくなっていたのだ。

 やがて、約半世紀の時を経て景虎(謙信)も、関東管領職継承の代償として、この関東擾乱じょうらんという「火中の栗」を拾うことになるのだが、これが謙信にとって第二の宿命であろう。

 さて、またもや守護・房能からの越山要請を受けた越後国人衆は、守護代に就任したばかりの為景のもとに徒党を組んで押しかけ、口々にこう訴えかけた。

「守護代殿、亡き御父上の前では、越山の命に我らも渋々従って参った。しかし、とうに精根尽き果てて、限界を超えておる。兵は疲弊し、財は枯渇する寸前、さすがに我らの堪忍袋の緒も切れるというもの。かくなるうえは、守護代殿が何と言われようとも、力づくでも守護・房能殿を廃したてまつる所存でござる。ついては、守護代殿も、この際、旗幟きしを鮮明になされるがよい」

 しかし、僅か十八歳とは言え、新守護代である為景は、国人衆の神輿に担がれて乗る、などという愚行は犯さなかった。

為景は国人衆の代弁者としてではなく、慎重且つ強かな一手を打ち、大義名分を整えることを忘れていなかった。守護代就任早々に、反逆者の汚名を被るわけにはいかない。

 国人衆の言い分を聞いて上手く帰した後で、為景が訪ねた先は上杉定実さだざねのところだった。定実は、同族の上条家より、守護家の養子として迎えられている。

「若様、恐れながら、守護である養父の房能殿は、越後国内の政事まつりごとよりも、上野国や武蔵国の政事に、重きを置いているとしか思えませぬ。今や、多くの国衆が若輩である、この守護代を通して、若様の挙兵を懇願して参る有様でございます。どうか直ちにご英断下さいますよう、お願い申し上げます」

「しかし、それでは義父への謀反ではないか。左様なことは出来ぬ相談じゃ」

「いいえ、そのようなご懸念は無用に存じます。京におわします管領の細川高国様を通して、既に将軍家からも守護交替のお墨付きを賜っております。つまり、正義は我らにあり。何ら憂いはござりませぬ。全ては、この守護代にお任せくださいませ」

 このようにして為景は、未だ十九歳とは思えない程の老獪な手口を使って、上杉定実を篭絡ろうらくし、次期守護として神輿を担ぐことに成功した。

 むろん、この守護交替劇の御膳立ては、謙信の代には更に拡大する守護代家の豊富な財力を背景にした裏工作が、効を奏した結果だった。

 為景は守護代就任早々から、京人が喜ぶ絢爛豪華けんらんごうかな献上の品々を、将軍家や管領に贈り届けていた。その見返りとして、守護交替の内諾を予め取り付けたうえで、初めて不平を募らせた国衆の軍勢を集結させたのであった。

 但し、未だ守護の地位にいる上杉房能も、為景の動向を掴んでおり、指を咥えて傍観しているはずがなかった。為景の不穏な動きを察知するや否や、先手を打って、為景討伐の軍勢を招集しようとはかったのである。

 ところが、一族・縁者以外に、この招集に応ずる国人はいない。時流を読み間違った房能と為景の勝負は、既にこの時点で戦わずして決していた。

 それでも、上杉房能は諦めなかった。火を見るより明らかな劣勢を挽回し、起死回生を図ろうと、関東への道である安塚街道を進んだ。行く先は兄である関東管領である上杉顕定のもとである。関東管領軍の助勢を得て、捲土重来を期するつもりだった。

 しかし、その動きすら既に、為景の耳に筒抜けとなっている。上杉房能の関東脱出が、叶うことはなかった。途中の天水越あまみずごえ(現新潟県十日町)で、待ち構えていた為景軍に包囲されてしまっては、自刃して果てるしか途は残されていなかった。永正四年(一五○七年)八月七日のことである。

 この実弟の惨劇を耳にして、関東管領たる上杉顕定が激怒しないわけがなかった。

「おのれ、長尾の小倅如きが、小賢しい真似をしてくれる。すぐさま、この儂が軍勢を率いて越後に乗り込み、小倅の首を房能の墓前に捧げてくれよう」

 顕定としては、関東管領としての誇りを引き裂かれただけでなく、越後守護である実弟を殺害された、とあっては当然の憤りであった。

 しかしながら、この時、顕定は為景討伐軍を直ちに率いて、越後に進むことが出来ていない。為景と内通している、上野国・白井城の長尾景春率いる軍勢が、越後への進軍を遮断して、とむらい合戦を妨害したからであった。

 ただ、一方の為景も、揚北を中心とする多くの国人衆からは、猛反発を喰らっていた。新守護である上杉定実をあくまで傀儡かいらいとして擁立し、利用しようとしているに過ぎないという意図を、既に読まれていたからだ。

 その結果、本庄・色部・竹俣氏といった揚北の国人衆が、各居城で一斉に蜂起し、為景への反旗を翻したために、先ずはその火消しに躍起とならざるを得なかったのである。

為景が苦しいのは、揚北衆の中の為景支持派と目される中条・築地・安田氏らの援軍だけでは、どうにも施しようがないことであった。そこで、隣国の伊達氏や葦名氏に合力を頼ってまでも、鎮静化に当たる他ないという台所事情であった。

 このような越後国内抗争は、翌年の永正五年(一五〇八年)七月まで続き、反為景派の降参による和議や、当主の隠居といった形でようやく決着した。室町幕府が上杉定実を正式に守護と認めたのは、この後の同年十一月のことであった。

 もともと、越後・揚北の国人衆は、独立独歩の武者気風が極めて強く、守護代である長尾家の風下に立つことを是としない。この後も為景に対し、事あるごとに逆らい続けることになる。

 揚北衆は、謙信の代に至っても、その一部が謀反や反抗的な態度を表面化させており、その都度、対応に奔走することになる。揚北の不安、これが謙信第三の宿命である。

 少し余談となるが、時折、謙信が家臣の謀反に遭うのは、失政や人間性に起因するという説を小耳に挟むことがある。しかし、その説やご指摘は、越後という南北に長い国の歴史的背景を、十分に理解されたうえでのことなのだろうか。

 そもそも、武田信玄や今川義元と言った、代々名門守護職の家系に生まれ、一定の盤石な基盤で家督を継いだ大名と、守護代家の三男として生まれた謙信を、同じ土俵で比較すること自体が果たして如何なものか。

 奇しくも、謙信から遅れること四年後に生を受け、謙信没後の同じく四年後に憤死した織田信長も、尾張一国を平定からするために十三年という長い年月を要していることは、戦国の世とは申せ、血筋や家系によって、有利不利が分かれていたことを証明する例ではないか。

 さて、関東管領である上杉顕定が、上野白井城の長尾景春を退けて、実弟である先代の越後守護・房能の弔い合戦のため、越後に向けて進発したのは、永正六年(一五〇九年)七月のことである。既に上杉房能の死から二年近くが経過していた。

 上杉顕定と養子の憲房が率いる軍勢八千は、三国峠を越えると破竹の勢いで越後国内を進撃し、瞬く間に越後府中を陥落させた。

「守護代よ、儂はそなたの甘言に乗り越後守護となったが、今からでも遅くはない。管領殿に詫びを入れて降参し、助命嘆願することこそが賢明というものではないか」

 越後府中を追われた守護・上杉定実が、狼狽のあまり為景に弱音を吐いた。

「御屋形様、確かに時の勢いは、今のところ管領側にございます。しかしながら、越後国衆の多くは、御屋形様のお味方でございますぞ。既に手を回し、御屋形様を一時越中にお匿いする手筈を整えておりますれば、この守護代と共に一旦落ち延び、再起を期することこそが上策と心得ます」

「落ち延びて、その後何とする。よもや、越中の知らぬ土地で、そのまま野垂れ死になど、まっぴらごめんじゃ」

どこまで、このお方は臆病なことか。いくら形ばかりとは申せ、越後一国の守護である自分に、矜持きょうじというものがないのか。

 腹の中の半ばあきれた思いを、噛み殺して為景は続けた。

「ご安心召され。この守護代が、必ずや御屋形様を、越後への復帰を果たしてご覧にいれましょう。暫しの辛抱でございます。それに、今から管領殿に詫びを入れても、決して許しては頂けませぬぞ。この守護代を信じて頂く他に、もう途は残されてはいないのです」

 ここまで為景に言われては、さすがの定実も腹を括るしかない。

かくして、長尾為景に連れられた上杉定実は、越中への一時国外退去という憂き目に遭い、船で落ち延びていった。

 関東管領父子は、その後も為景勢力の一掃を期して、越後国内を蹂躙しながら、所領の没収や厳罰を下そうとするが、各地の反乱は一向に治まる様子はない。やがて、関東管領・上義顕定の心には、いつになっても越後を平定出来ないという焦燥感だけが、日を増して強くなっていく。

 時は既に永正七年(一五一〇年)の春も終わりを迎えている。顕定は、留守にして十か月となる関東の情勢が、気がかりでもあった。それも無理はない話である。一度は武蔵国まで駆逐した長尾景春が、新興の伊勢新九郎長氏(北条早雲)と手を組んで、勢力を盛り返していたのだ。顕定のもとには、景春の挙兵近しという不穏な報せが、日を追うごとに方々から届くようになっていたからだった。

 顕定の頭の中は、帰国かまたは、越後平定までの遠征継続かの二択で、どちらにするか揺れ動いていた。そのような折に、想定外の報せが、顕定のもとに舞い込んでくる。それは、越中に逃れていた定実・為景の主従一向が、佐渡を経由して蒲原津(現・新潟市)に海路上陸した、との報せだった。

 これが永正七年四月のことである。この時期は、梅雨に入る前の比較的海が凪いだ穏やかな頃である。為景は臆病な定実の気持ちを察して、予め、この帰国時期を選んでいたのかもしれない。

 為景は越中逃亡後も、しきりに西頸城にしくびきの村上氏や、揚北の中条なかじょう・築地氏といった親・為景派との連携を探り、関係性を深めていた。また、隣国北信濃の高梨氏や会津の葦名氏、出羽の伊達氏らからも協力の約束を取り付け、着々と関東管領包囲網を築いていた。更に幕府への根回しも怠っていない。

 本来、幕府は自らの政治機構の一部であり、自らが任命した関東管領に味方するのが筋であろう。しかし、この時期に至っては、室町幕府が幕府としての呈を成していないだけでなく、財政を潤してくれる者であれば、誰でも味方をするという為体ていたらくだった。

 こうして、首尾よく越後への帰還を果たした定実・為景だったが、相手は関東管領軍であり、そう易々と事態が好転するわけではなかった。双方は一進一退を繰り返し、余談を許さない戦況が続くことになる。

 この状況を一変させたのが、定実の実家である上条家の寝返りだった。上条家は定実の実家にも関わらず、「寄らば大樹の陰」とばかりに、従来は関東管領派であった。これを崩したのは、為景による上条家への裏工作であり、それが効を奏した結果だった。

 上条家の寝返りによって、関東管領勢は一大拠点としていた、寺泊からの撤退を余儀なくされる。戦況は一挙に定実・為景軍の優勢へと、大きく流れが傾いていく。

 関東管領にとっての不運は更に続く。同じ時期に顕定が最も憂慮していた長尾景春が、再度挙兵したことに加えて、伊勢新九郎長氏(盛時)の武蔵侵略、古河公方家の内紛勃発と、関東における悪い報せが顕定の下を、矢継ぎ早に襲う有様だった。

こ のような状況に陥った関東管領・上杉顕定は、ひとつの大きな判断の過ちを犯してしまう。味方の諸将の反対に耳を傾けず、越後の鎮静化を諦め、帰国の途につくことに舵を切ったのだ。しかし、一度狂い始めた歯車が戻ることはない。

 為景勢が勢いを増して、各地における関東管領勢を撃破する中で、永正七年(一五一〇年)六月二十日には、ついに為景が念願の越後府中を奪還するに至る。ここに合戦の趨勢は決したと言ってよい。

 一敗地に塗れた顕定だが、それでも何かに憑かれたかのように、ひたすら関東への帰路を急ぐ。しかし、国境に近い上田・坂戸城の長尾房長(後に謙信の義兄となる長尾政景の父)に退路を断たれたうえに、上田荘・長森原(現・南魚沼市六日町)で、長尾為景と北信濃・高梨政盛連合軍の挟撃を受けてしまう。

 ここに、自身の命運もここまでと悟った関東管領・上杉顕定は、最期まで共に戦い貫いた家来衆を前に口を開いた。見渡せば、矢尽き刀折れ、手負いの者ばかりといった有様で、これ以上の戦いが無理なことは一目瞭然だった。

「無念じゃ、我が弟の仇を討つつもりが、返り討ちに遭うとは、なんと口惜しいことか。しかし、事ここに至っては是非もない。かくなるうえは、関東管領として恥じぬ死に様をみせてくれよう。皆の者、儂に続け」

 覚悟を決めた顕定はこう叫ぶと、もとどりを切り阿修羅の如き形相で、先頭で敵中に突っ込んでいった。こうして、関東管領・上杉顕定は、再び上野国の土を踏むことも叶わず、遠く離れた越後の地で、儚く命を散らしてしまう。享年五十七歳。

 弟の弔い合戦を謳い、意気揚々と越後に入った時は、このような末路を辿ることなど想像すらしていなかったに違いない。であればこそ、顕定の無念は如何ばかりかと、察するに余りある。

 ともあれ、ここに長尾為景による越後国内の下剋上は完成した。

 歴史最大の皮肉は、約半世紀の時を経て、為景の子である謙信が、仇敵であった顕定と同じ関東管領職を譲り受け、顕定とは真逆の越山(関東出兵)を幾度となく繰り返すことになったことだ。

 但し、およそ当時の人間業とは思えぬ謙信による越山は、戦果の程はさておき、謙信が有した豊富な財力と、類い稀な天才的軍事力なしには果しえなかった奇跡である。もしも、どちらかが少しでも欠けていたら、途中で頓挫するか、上野・武蔵の野に躯をさらすのが、せいぜいだったに違いない。

 謙信の後半生の悲劇は、関東管領職という、既に形骸化されていた名誉職にも関わらず、それに縛られ、その幻の職務を全うしようと、最後まであがき続けたことかもしれない。


  *内紛


 関東管領・上杉顕定の敗死以降、越後に平和が訪れると思えたのも、束の間のことだった。所詮、越後守護の上杉定実は、守護代である長尾為景の傀儡かいらいでしかない。

 その現実に気づいた定実と、あくまでもお飾りのままにして置きたい為景の対立は、越後国内外の国人衆を巻き込んで激化していくことになる。生来、臆病者の上杉定実ではあるが、自尊心だけは極めて高く、権力への渇望は並々ならぬものがあった。

「儂の近習は全て守護代の息がかかった者ばかり。この儂を政事まつりごとから遠ざけておる。これでは、越後守護とは名ばかりの飾り物ではないか」

 不満を募らせた上杉定実は、密かに国内外の国人衆に対して檄文を飛ばす。

 一方の為景も、守護である定実の不穏な動きを掴んでおり、対抗策として有力な国人衆と起請文を交わして、体制の安泰を図ろうとする。しかし、その起請文の内容は、双方の内政不干渉を確認し合う程度のもので、為景が狙う守護代への権力集中と体制の安定、という目論見からは程遠い内容でしかなかった。

 永正十年(一五一三年)八月、隣国信濃の島津氏らの軍勢が、守護・定実への援軍と称して、越後に侵入してくる。これに驚いた為景は、下郡の揚北衆に助勢を求めるが、もう一方の定実からも同時に加勢を求められていたから、揚北衆は堪らない。

 これまでは、それぞれが独立独歩の気風を強く持つ揚北衆だった。しかし、この一件を契機として、状況に応じてお互いに共同歩調を取ることに舵を切ることになる。   もともと個々でさえ強靭な力を持つ揚北の国人が、結束することで、より強大な勢力になるのは必至だった。つまり、守護と守護代の権力闘争が、揚北に強大な反抗勢力を誕生させてしまったのだ。

 その後も、揚北衆は強大な武力を背景として、為景を悩まし続けるが、それは謙信・景勝の代に至っても、変わることはなかった。上郡や中郡の国人衆とは、常に一線を画しつつ、時には力強い味方として、時には反抗勢力として、その存在感と独自性を発揮し続けることになる。

 国内情勢が安定した他国から見た越後は、いつでも分断の可能性を内包した危うい国であり、隙あれば一部、あわよくば全部を手中に収めようとする標的の国となり下がってしまった。これは為景の予期せぬ大きな誤算だったに違いない。

 永正十年(一五一三年)十月、これまで陰で暗躍していた守護・上杉定実は、遂に反為景の旗幟を鮮明にして、春日山城に立て籠もる。

 しかし、所詮、戦にかけては全くの素人である。定実は為景の手によって、わずか十日足らずで鎮圧され、府内へと連行のうえ、館内に監禁されてしまう。

翌年の永正十一年一月には六日町において、為景は守護に味方する八条・石川・飯沼氏を中心とする軍勢を撃破し、同年五月になると、勢いそのままに守護方の中心国人である宇佐美房忠を滅亡に追い込んだ。

 既に守護方の敗北は決定的となっていた。

「御屋形様、お久しゅうございます。ご壮健の様子で何より。この守護代、衷心よりお喜び申し上げます」

 為景は宇佐美一族討伐後のその足で、府内監禁中の館に赴き、甲冑姿のまま広間に坐し、定実に面会した。述べた口上もあくまで儀礼的でしかない。

「ふん、さような挨拶は聞きたくもないわ。さぞかし、此度の勝ち戦、気分が良いことであろう。この後、儂をどうするつもりじゃ。前守護や管領を誅しただけでは飽き足らず、儂まで亡きものといたすか」

 言葉を震わせ、びくびくしながらも、興奮と恐怖を抑えらない定実が、為景に向かって吠えた。

 その言葉を受けて、ようやく定実の顔を見上げた為景は、不敵な笑みを浮かべながら言上した。

「滅相もございませぬ。御屋形様には、これからも引き続き守護として、この越後を統べて頂きます、但し」

 敢えて間を置いた為景は更に続けた。

「政事などというわずらわしいことは、この守護代に全てお任せくださいませ。御屋形様はどうぞこのお屋敷にて心穏やかに、ゆるりとお過ごし頂ければそれで良いのです。何不自由なきよう万事取り図ります故に、どうぞ、ご安心召され。なお」

 為景は先ほどよりも更に間を置いて、低音の脅しが効く声で告げた。

「此度のように万が一でも、二心をお持ちになるようなことがあれば、その時はお覚悟遊ばされますよう」

 まさに、大蛇が蛙を睨みつけるが如き、為景一流の脅し文句だった。為景による越後の実質的支配が揺るぎないものとなった瞬間だった。父である長尾能景の戦死により、急きょ守護代を継いでから、既に八年の歳月が経過していた。


  *越中侵攻


 その後の為景は、国内の国人衆との融和を何よりも優先させ、関東への不介入という方針を貫き通し、国内統治に専念することになった。

 但し、その唯一の例外が西の隣国である越中である。為景は、越中守護である畠山氏からの助勢の要請を受け入れて、度々出兵している。

 これには三つの意義があった。ひとつは、永正六年の関東管領侵攻時に越中退避を受け入れてくれた恩に報いるという意義であり、二つ目は為景自身の領土拡大意欲であり、最後が畠山氏と対立している神保氏が、父・能景の仇に他ならず、自身の手で遺恨を晴らしたいという気持ちが強く働いた結果だった。

 越中守護である畠山卜山ぼくざんの在国は、遠国の紀伊(和歌山県)である。このことが、家来であるはずの神保慶宗に、国内での横暴を許す要因となっていた。慶宗は一向一揆と手を結ぶことで、着々と自らの勢力を拡大していた。

 越中の国内事情を知る為景は、越後内紛を鎮静化させた今こそ、逆賊である神保氏を討ち、越中統一を進めることこそが、自身の使命であり、仇討ちも果たせると考えた。

 しかし、その越中侵攻がすぐに実現するほど、事態は決して単純ではない。

何より、これまで続いた内戦による越後国内の疲弊は激しく、立ち直るには数年を必要とした。国人衆の出兵環境が整わないうちは、他国遠征など論外でしかない。

また、他の越中の国人衆の動向を見誤るわけにもいかない。動向を探るには一定の時間をかける必要があった。

 永正十四年(一五一七年)には、更に予期せぬことが起こる。越後を大地震が襲い、甚大な被害を被ってしまう。当然、震災の事後処理と復興作業を、何よりも優先させる必要があった。

 結局、為景の越中侵攻は永正十六年(一五一九年)へと大きく後ろにずれ込むことになる。

 同年十月、これまでのうっ憤を晴らすかのように、為景は越後と越中国境の境川において、神保慶宗軍と激突しこれを大破する。更にその余勢を駆って、一挙に高岡まで攻め込み、二上山の守山城を落城寸前まで追い込んだ。

 しかしながら、順風満帆だった越中攻めも、ここに来て歯車が狂い出す。共同戦線を張り、西から圧力をかけて挟撃を目論んだ能登守護の畠山義総と、加賀の畠山勝王の両軍が、それぞれ立て続けに、一向宗徒との戦に敗北してしまったのだ。このままでは逆に、為景軍が挟撃に遭い、壊滅の危機を迎えてしまう。加えて、冬の到来が目前に迫っていた。為景は渋々ながらも、一旦越後に兵を引くことを決断した。

 前年の苦い失敗を教訓に、為景は冬に閉ざされた中で、従前の根回しを念入りに行っていた。その根回しとは、紀伊国にいる越中守護・畠山卜山からの全面協力を得ることだった。 

 むろん、卜山は家来筋である神保氏の横行を、快く思っていないから、為景のために労を惜しまないのは当然である。

 先ず、為景は卜山からは、神保慶明の越中派遣の確約を取り付けた。慶明は慶宗の実弟ながら、兄とは一線を画し守護・ト山派の筆頭だった。また、ト山には能登守護である畠山義総との連絡調整役を担って貰うことにした。

 更にこの間でト山が成し遂げた一番大きな成果は、加賀一向宗徒の越中不介入という約定を取り付けたことである。

 ここまで万全を期した為景は、永正十七年(一五二〇年)六月に、再び越中攻めに臨んだ。

 もうこれ以上の失敗は許されない。為景勢は快進撃を続け、同年八月には新庄城(富山市)に入ると、その地を越中平定の拠点と定めた。

 そして、遂に同年十二月二十一日、新庄城に総攻撃を仕掛けてきた神保慶宗らの、敵対する越中の国人衆を、完膚なきまで叩きのめして、長年の悲願である仇討ちと、越中統一を成し遂げる。

 この時が長尾為景の人生における絶頂期だった。

 以降の実質的な越中統治は、守護・卜山の名代として手柄があった神保慶明、能登守護・畠山義総、そこに為景を加えた三者体制で当たることになった。

 しかし、この為景による隣国越中への統治介入は、同時に加賀能登を中心として、越中にも蔓延はびこる、一向宗徒との全面対決に繋がる導火線となってしまう。更に、為景が越後国内に一向宗禁制を発布したことで、対立の激化は避けられないものとなっていった。

 為景と一向一揆との戦いは、大永三年(一五二三年)に、幕府第十二代将軍である足利義晴と管領・細川高国の仲介により、一旦は終結を迎えるが、それはあくまで一時的な休戦でしかなかった。これが謙信の代まで延々と続く確執と、血で血を洗う一向宗徒との、泥沼の戦いの始まりだった。


  *関東擾乱 


 さて、為景は関東不介入を一貫して貫いたが、そのことは決して、関東の情勢にうとかったということではない。情報の収集は常に怠らず、各勢力からの誘いや、援軍要請も度々受けていた。

 大永四年(一五二四年)一月十一日には、扇谷上杉朝興ともおきが、北条早雲の子・氏綱に敗れて、江戸城から河越城に逃れている。これより、朝興は山内上杉憲房と同盟し、北条氏綱との対決姿勢を鮮明にしていた。憲房は為景に敗れた顕定の養子であり、顕定の死後は関東管領を継いでいる。

 北条氏綱は、越後との連合によって、両上杉氏の壊滅を図るべく画策した。しきりに為景の好きな絵画や蜜柑、酒樽といった貢ぎ物で、機嫌を取ってきたが、それを為景が意に介することは皆無だった。

 むしろ為景は、度重なる氏綱からの膨大な量の貢ぎ物に、驚き喜ぶ家来衆を一喝した。

「愚か者、かような貢ぎ物に現を抜かして何とする。儂が伊勢(北条)に手を貸して、両上杉家を滅ぼそうものなら、氏綱の次の狙いは、間違いなく我が越後になる。それくらい分からないで何とする」

 一方では扇谷上杉朝興も、しきりに援軍を要請してくるが、これも為景は明白に拒否していた。

 さすがに、山内上杉憲房だけは、既に義父の敗死から十五年の歳月が流れているとはいえ、自身も戦って敗れた遺恨ある為景に対しては、援軍を乞うことは行っていない。

 この旧・伝統的保守勢力である両上杉氏連合軍と、新興勢力である北条氏の騒乱は、天文十八年(一五四九年)の河越合戦までの間、それぞれの代替わりを経て続くことになる。

 そして、その河越での戦に大敗後、衰退の一途を辿る関東管領・上杉憲政が、越後の長尾景虎(謙信)を頼って、落ち延びてくるのである。

 為景が北条だけではなく、両上杉氏にも味方せず、頑なに越山を拒んだのは、守護代を継いで間もなく、討つことになってしまった前守護・上杉房能の失敗を教訓として、自らを戒めたに他ならない。「越山は百害あっても一利無し」と冷静に判断した結果だった。

 一方で、為景は春日山城を強固な城として要塞化し、越後統治の要として内外に誇示したのも、ちょうどこの時期に当たる。

 為景には、かつて関東管領勢に追われて、一度は他国である越中に退避せざるを得なかった苦い経験がある。この失敗から、たとえ今後、一敗地に塗れたとしても、他国で再起を図るのではなく、自国内に「攻めるに難く、守るに容易い」堅固な山城を築く必要性を、常々痛感していた。

 その城は新たに築くのではない。間近に聳える春日山城の恵まれた地形に着眼し、これを盤石なものとして、普請拡充することで成し遂げようとしたのだ。武将・為景の優れた才覚を如実に発揮した一面だった。

 また、為景は「目の上の邪魔な腫れ物」でしかない揚北の国人衆を、権威で屈服させるために、幕府への工作により、更なる公の地位を獲得しようと画策した。それは、将軍足利義晴や管領細川高国への献上を、惜しみなく行うことで、成し遂げようとしたことに他ならない。

 工作の効果は、一向宗徒との和議成立後に形となって表れる。それは、為景を越中新川郡の守護代に正式補任するという将軍義晴からの通知だった。

 傍から見ると、関東への越山と越中への侵攻が同じ「外征」というくくりであっても、為景の頭の中では、明確に分けて考えられていた。これは、為景の戦人としての力量と、政事を担う者としての平衡感覚が、共に備わっているからこその判断だった。

 幕府中枢への献上は、更なる効果となって現れる。

 大永から改元して享禄となったその年(一五二八年)の十二月十二日、継子である幼名「道一どういち」は元服に際して、将軍義晴の一字を拝領して晴景と名乗ることを許される。また、それにとどまらず、為景自身が「毛氈鞍覆もうせんくらおおいと白傘袋」の使用を許されたのだ。これは為景が実質的な国主として認められたことを意味するものであり、権威の象徴を授けられた形だった。得意満面の為景だったが、このことが、やがて他の国衆の反感を買うことになるなど、夢にも思っていない。

 このように、為景人生の中で、最も穏やかで華やかな時期である、享禄三年(一五三〇年)一月に誕生したのが幼名虎千代、後の上杉謙信だった。


  *かげ


 長尾為景の幸福で平穏な時間は、決して長くは続かなかった。

 きっかけは、虎千代が生まれた年の享禄三年九月、上条定憲が大熊政秀とともに、柏崎で反旗を翻したことである。暫く続いていた越後国内の安寧と均衡が、遂に崩れてしまった。

 上条家は守護である上杉定実の実家である。長尾為景という守護代の専横に対する不満が、一挙に噴き出したのだ。

 これに対する為景の動きは速かった。同年十一月には、大熊氏並びに同族の大関氏を破ると、一挙に上条城を攻囲して、落城寸前までこれを追い込む。

 これに驚き、急ぎ仲介してきたのは、実家の危機を憂いた守護・定実である。定実が、足利将軍家からの御内書を手にしていたため、為景は渋々講和に応じざるを得なかった。

 更に、翌年には、為景にとって最悪の報せが、京よりもたらされる。

 それは、享禄四年(一五三一年)六月、管領・細川高国が、細川晴元と三好元長の連合軍に敗れて、摂津国尼崎の地で自刃に追い込まれていたという訃報だった。この情報が為景ひとりに留まるはずがない。

 これまで常に、為景が幕府の後ろ盾と頼んできた管領の死である。この話が瞬く間に越後国中に広まると、自ずと為景の求心力は衰え、俄然これまで水面下で燻っていた反抗勢力の勢いが増すことになった。

 守護を蔑ろにして、「毛氈鞍覆と白傘袋」の使用を誇るなど、驕り高ぶった為景に対しては、多くの国人にとどまらず、同族一門衆にも不満は広がっていた。

 このような追い風を受けて、上条定憲が再度挙兵したのは、天文二年(一五三三年)九月のことである。これが「越後天文の乱」と言われ、戦火を広げて数年にわたり、国中を巻き込む大乱の始まりだった。

 当初の戦況は、為景軍が圧倒的に優勢だった。北条きたじょう輔広や安田景元の活躍に加えて、北信濃の高梨氏の援軍が効を奏したからだ。 

 しかし、天文四年(一五三五年)五月には、同族である上田庄の長尾房長を筆頭に、大熊政秀や宇佐美定満らが、上条定憲のもとに集結したことから、戦況は逆転する。

 更に翌六月には本庄・色部といった揚北の有力国人衆までが、為景に対して反旗を翻したことで、いよいよ窮地に陥ってしまうのであった。

 こうなると、為景にとっての頼る場所は、京の朝廷しか残されていない。一度は紛失した「錦旗」を再度拝領しただけでなく、国内平定の綸旨を発給されたが、その効果は皆無に等しかった。既に為景のもとからは、多くの国人衆が去り、与する味方は栖吉長尾氏と上郡の国人数人しか残っていない。

 最後の頼みの綱であるはずの「朝廷の威光」すら、形勢逆転の切り札とはならなかった。数多くの国人衆からは既に見放され、もう為景に打つ手は残されていない。まさに四面楚歌の状態だった。

 このような時期に、虎千代は齢七歳にして、為景の命で林泉寺に入れられ、六世住持である天室光育和尚から薫育を受けることになる。




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