まで三キロ

野々宮友祐

まで三キロ



 岩水寺を出て三六二号をバイクで北上する。二俣川の手前で左折、また北上。

 静岡県浜松市天竜区、この先の地区が話題になったのはもうずいぶんと前の事。


「月まで三キロ」


 山あいにある「月」という地域へと向かう道路にあるその標識は、小説のタイトルになりそしてフォトジェニックなのだとSNSでも少しバズった。


 同じ市に住んでいながら今まで行ったことはなかったけれど、今日はそこに程近い岩水寺という寺に用事があり、せっかくここまで来たのだからとそこまで足を伸ばしてみることにした。


 バイクを路肩に停め、地図を確認する。


 バイクに乗るのが趣味でありながら、方向音痴の気がある私はたびたびこうして地図を確認しなければ目的地にたどり着けない。今日はかなり単純な道のりであるけれど、用心するに越したことはないから。


 ええと、この先のY字路を……


「どうかしましたか」

「わ、っ――すみません、地図を見ていました」


 突然真横から声をかけられ、驚いて顔を上げる。いつの間にすぐ隣にいたのだろう、若い女性がそこに立っていた。


 赤、いや、朱色だろうか。

 赤にオレンジを混ぜた色。


 そんな目にも眩しい鮮やかな色のワンピースの女性。どうして気づかなかったのだろう。


「どちらへ?」

「月の標識を見にいきたくて」

「ああ、それなら……」


 地元の人なのだろう、口頭ですらすらと説明をしてくれた。やはりこの先の山東というY字路を左折してあとは真っ直ぐ。


「トンネルがあるので、入らないで左に逸れる道へ行ってください。その道に入ってすぐに標識がありますよ」

「トンネルに入らないで左」


 おっと、それは知らなかった。方向音痴の私の事だ、きっと教えてもらわなければ道なりにトンネルに入ってしまっていただろう。


「あの辺りはダム湖なんですよ。景色が綺麗で……月の地名の碑や丹橋という橋もあるので、もしお時間あればその先まで行ってみたらいいんじゃないかしら」

「月橋ですか。ロマンチックですね」

「ええ、そうでしょう」


 親切にも教えてくれた女性に手を振り、バイクのエンジンをかける。一回、二回、三回、あれ。おかしいな。四回、五回、六回目でやっとかかったエンジンが少し恥ずかしくて、苦笑いで振り返る。


「あれ、」


 そこには誰もいなかった。




「わぁ、本当に月」


 あの女性の教えてくれた通りに道を進み、トンネルの横道に逸れたらすぐ。目的の標識にたどり着いた。


 月まで三キロ。


 方向を示す矢印はまっすぐ、つまり上を向いている。ここから上に飛べば、たった三キロで月に到着できるような道路標識は確かにフォトジェニックで、私もバイクをいい感じの位置に停めて写真に納めた。

 まるで今からバイクで月まで行くみたい。



 納得のいく写真がとれたところで、辺りを見渡す。

 さぁ、と風が気持ちいい。真横を流れる天竜川は穏やかで、ゆったりと流れるエメラルドグリーンの水面がキラキラと輝いている。

 

 普段は海沿いばかりを走っているけれど、山の方もいいものね。


 塩気の含まれない風が新鮮だ。木と土の爽やかな香りに包まれて、ついでと思って来て正解だったと何とはなしに思う。


 今日は岩水寺に用があったのだ。

 あそこは安産と、それから子授けにご利益があると聞いたから。


 結婚して三年。当初は子供はもう少し先でと話していたけれど、そろそろ欲しいよねと今年の頭に夫婦で決めてからもう半年以上が過ぎてしまった。

 一年は自然にまかせて。一年たってもできなかったら一度病院にいってみよう。そう決めたのは夏の初め頃。もう秋の風が吹き始めたというのに、まだ。


「あーあ」


 憂鬱。考えれば考えるほど。たかが半年で何をといわれるかもしれないけれど、それでも不安はじわりと心に滲んで染みをつくっていく。

 バイクのハンドルを撫でる。この趣味だって、子供ができたら封印するという覚悟はとうの昔にしたというのに。


「……あれ」


 シートの上に花が乗っている。

 真横は崖だ。上を見上げる。頭上に、


「あれか」


 濃い橙色、いや、朱色の花があった。

 あれが落ちてシートにちょうど乗ったのか。花を手に取り、くるりと回す。なんだっけ、これ。見たことはあるのだけれど、思い出せない。花弁のうしろにぷくりと小さく膨らんでいるところがある。もしかして、ここに実ができるのだろうか。


 なんとなくその花をジャケットのポケットにいれて、シートをまたぐ。あと三キロでいけるというのなら、ちょっと月まで行ってみよう。


 ガウン、とエンジンをふかして、丹の標識の下を潜り抜けた。




 天竜川に沿ってゆるやかにカーブする道を走る。雲がでてきたのだろうか、さっきよりも辺りが暗い気がする。それでも雨は降っていないし、目的地はすぐそこだ。

 ああ、あそこ。きっとあれだ。


 ゆるりとバイクを停めて、ヘルメットを脱ぐ。

 さっきまで吹いていた風はやんでいて、泥と湿気のこもったにおい。木の影が濃い。


 赤い欄干の太鼓橋。きっとこれが月橋だろう、ああほら、やっぱり。橋名板に書かれた丹橋の文字。月に行くのに太鼓橋をわたるとは、風流なことだ。


 木製の橋に足をのせるとぎぃ、と木が泣いた。

 ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ、

 まるで悲鳴のような音は積もった落ち葉に吸い込まれては消えていく。


 橋を渡りきり、地面に足をつける。


 橋から伸びる狭い道、その両側を埋め尽くす一面の彼岸花。その向こうにあるのは椿だろうか、赤い花が深く暗い葉を覆い尽くそうとしているようで、ぼとり、ああ、花がひとつ落ちた。


 あか、あか、あか。


 月というのはこんなにも赤いんだなぁ。どこもかしこも真っ紅で、空だってもうあんなに朱く染まっている。ぐしゅり、ぐしゅり、路につもった枯れ葉が水を含んだ音を立てる。歩くたびにぐしゅり、ぐしゅりと靴の下から緋い泥水が滲み出てくる。


 狭い小道のその向こう。一抱えしかないような小さな小さな祠がある。赤く、いやこの場合は朱塗り、丹塗りというのだっけ、とにかく赤くて、そこにオレンジを混ぜたような色の祠。格子の扉の向こうには何がまつられているのか。


 あの扉を、あけなくちゃ。

 だってあれを開けるために、はるばる丹まで来たのだから。


 ぐじゅりと踏み出す。手を伸ばす。あとすこし、


 

 ――――ちりん


 

 音がした。

 小さな、でもはっきりとした音。

 あの音は、そうだ、鈴の音。でもどこから。鈴なんてどこに、


「……お守り、」


 バイクに置いた、荷物の中。

 岩水寺で購入した、子授けの、


「――――な、に……ここ……」


 あかあかあかあか―――――― あか


 ぼとりと椿の首が堕ちる。

 ぼとり、ぼとり、ぼとり、

 堕ちては地面を丹く塗りつぶしていく。


 丹い彼岸の花が、風もないのに揺れている。


 きぃ、


 なんで、どうして。どうして祠からそんな音が。扉が開く音が。扉に隙間が開いている。なんで、どうして、


 内側から、 なにか、 あれは、 髪 、


 そんなはずないのに、あんな小さな祠から人間なんて出てくるはずがないのに、内側からこじ開けられた扉から頭が、まるであれはそう、赤子が胎から出てくるように、


 ずるり、頭がすべて出る。

 ゆっくりと頸をもたげたその顔は、



 ―――― あのときの、



 ずるり、肩が。丹いワンピースが、腕が、丹い、上半身が出てそれで、丹い手が伸ばされて、

 

「 ちょうだい 」


 私の腹に、


「――――やめて!!!!」


 女の手が触れる寸前、我に返ってとっさに身を引く。ずるりと足が滑ったけれど、なんとか手をついて。

 戻らなくては。

 あの橋まで、あの橋を越えなくては、


「ひッ」


 祠から全身を出した女がべしゃりと音を立てて地面におちる。それでもなお、ずるずると這ってこちらに来る。

 

「いや、嫌ぁあ!!」


 地面を蹴る。湿ったぐずぐずの枯れ葉が飛び散るけれど、女はそれを浴びながら近づいてくる。

 丹いワンピースが、さらに丹く丹く。


「来ないでよ!!!」


 咄嗟に手に掴んだそれは、ポケットから飛び出た花だった。

 女に向かって投げつけたそれは


 

 ――――あ、思い出した。柘榴だ。



 昔、祖父の家に植えてあった柘榴の木。

 朱色の花が散ったあとの形がおもしろくて、よく見ていた柘榴の花だ。あの花のうしろ、ぷくりと丸いところ。柘榴の実のできるところ。

 あそこにあるのが、小さな小さな、できたばかりの柘榴の赤子。



 ああ、だから。


 

 女が柘榴を拾い上げる。嬉しそうに、がぱりと開けた口へとそれを放り込む。

 

 私はそれを最後まで見届けないまま背を向けて走り出した。小道を駆け抜け、太鼓橋へ。靴底にこびりついた泥で滑るけれど、転ぶわけにはいかない。

 橋を渡りきり、停めてあったバイクへと飛び乗った。




 

 方向音痴の私が、地図もなしに岩水寺まで迷わずに戻れたのは奇跡なんじゃないかと思う。

 駐車場にバイクを停めて、申し訳ないとは思ったけれど手水で手足の泥を落とさせてもらった。


 荷物の中から取り出したのは、お守り。

 あそこに行く前に購入した子授け守りは、ずっと鞄の中に入っていたはずなのに紐が切れてしまっていた。


 それを返納して、手を合わせる。

 

 そうして、新たに購入した安産祈願のお守りを鞄にいれて岩水寺をあとにした。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まで三キロ 野々宮友祐 @i4tel8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ