『青い空の下、涼風に夢をのせる。』

岩永麁鹿火

『青い空の下、涼風に夢をのせる。』


 白く濁った、バケツの中の水。真っ白なキャンバス。僕のような白。見る者すべてが唸るような、そんな白。誰も気づけない、そんな白。思い出したかのように、僕は後ろの青いチューブを取り出す。チューブの口を開け、慎重に指先に力を込め、青い絵の具を出す。真っ白だったパレットの上で光る、夏空のような深く鮮やかな青。その区画を青いっぱいに染め上げる。筆についた青を、キャンバスに塗りたくる。夢のような青。海に灯る月のような青。夜。カタ、と音を立てて筆をおく。キャンバスの前にて一人絵を描く僕は、ただじっと、手についた青色を眺めている。

 世界が橙色に染まっている。がらがらと扇風機が回る。ねぇ、聞いてるの、と涼風のような爽やかな声が響く。「聞いてるよ。キリンの話でしょ。」と、適当に返す。目を見張った眼前の少女は、すごいなぁ、よくわかったねぇ、なんて言った。どうせこの女はキリンの話しかしない、と少し関わってよくわかったのだ。

 僕と彼女が話し始めたのは、今から一か月前のこと。彼女が僕に、一枚の絵を描いてほしいと頼んだことに起因する。美術の授業で出された課題、自画像だった。ふつうに描く分には問題ない。しかし、彼女は壊滅的な絵心以外は完璧だったのだ。一列に揃った前髪、よく手入れされた綺麗な黒髪、整った目鼻立ち、しわのないワイシャツ、綺麗な制服、夏らしい匂い。凛とした鈴の音色のような美しい声。カバンに大量のキリンのストラップを付けた彼女は、完璧な容姿を持ち、頭脳明晰で運動もできる。あまりの完璧さに、ゴキブリですら卒倒するだろう。そして彼女には、青木涼という清涼感たっぷりの名前があった。まさに、名は体を表す、というやつだ。その顔、声、雰囲気の破壊力ときたら、スリーアウトでゴキブリホイホイといったところだ。その分みんなからの期待も大きい。そこで、教室の隅、いつもひとりで絵を描いている僕に白羽の矢が立った、ということだ。

 僕、千葉盧生は、人と話すことに慣れていない。いつも家では、僕のお嫁さんのイラストを探している。そんな僕に、彼女は開口一番、キリンは好き?と聞いてきた。僕の手は、絵を描き続ける。しかし、キリン?話したこともない、クラスで一番綺麗で、夏の似合う彼女が、名前よりも要件よりも先に、キリンが好きかどうか聞いてきたのだ。目が泳ぐ。手が動く。口がパクパクしながら、「え、えぇ、え、えぇぇ」なんて言ってしまった。彼女はボソッと騒がしいな、と呟いた。誰のせいなのだろう、と思う暇もなく、思考がキリンに汚染されていく。僕の思考が巡り続け、結論にたどり着けないでいると、その絵、すごく良いね。けど、なんだか不気味ぃ。なんて笑いながら言った。僕の手元には、人の頭をしたキリンの絵があった。いつの間にか、僕のお嫁さんの首から下はキリンになってしまっていた。あぁぁ、なんてことをしてしまったのだろうか、とお嫁さんへの申し訳なさと、自分のヘタレ具合とでひどく嫌な気分になってしまう。しかし彼女は、かわいいじゃない。とっても。と言った。僕は、「キリンはどうでも良かったのか」と、ボソッとつぶやいたが、彼女は小さく言葉を続けた。絵、上手なのね。羨ましいわ。そう言った彼女の目には、悲しげな光が灯っていた。

 そんな初対面ではあったが、今では自然と話せるようになった。そんな中、わかったことは、この女は、キリンの話で一か月も持たせられるほどのエピソードと、豆知識と、愛があることだ。ちなみに、僕が描いているこの絵の背景、透き通った青い空よく見るとをキリン柄に見えるようにしてある。この絵はもう、彼女に色を付けるだけ、という段階である。この関係が終わってしまう、というのは少し寂しいような気もするが、僕も無駄にキリンの知識を教えられても仕方ない。僕の記憶の容量のために、彼女が納得するような完璧な絵を、迅速に描き上げるとしよう。自分自身の感情に気づいた僕は、途端に虚しさを覚えた。

 橙色に染まった世界。僕の目の前には、キャンバス、整然と並んだ机、黒板、そして君がいる。あ、そうだ、という、美しさに塗りつぶされた世界に、間の抜けた声が反響する。彼女は、カバンからサイダーを取り出した。これ、あげるよ。いつも頑張ってくれてるお礼。私だと思って大切にしてね。なんて言いながら、僕に手渡した。ペットボトル越しに伝わらない、その冷たさ。いや、ぬるい。それがわかった瞬間、僕は言いたいことをポロっと吐き出してしまった。「ぬるいサイダーは最早サイダーじゃ」そこまで言うと、元の机に戻ろうとしていた彼女は踵を返す。そして、ちょっと、サイダーに、っていうか私に失礼でしょ。全く。と真っ赤な顔で叫び、はぁ、と溜息をついた。本当に、何なのだろうか。「そんなに赤いとキリンにはなれないよ。僕の絵が描き終わるまで、その机の上で首を長くして待ってて。」どうだ。上手いこと言ってやった。しかし彼女は、そ、と呟いて元の机に座った。地味に傷ついた僕は、ぬるい炭酸を一口飲んだ。口元から零れ落ちた一滴は、まるで誰かの涙のように、儚く、切なかった。

 彼女には、青がふさわしい。僕たちは、橙色にまみれた中、時をすごしている。しかし、それでも消えることのない、強烈な青色。僕の網膜の裏側にまでこびりついた、強烈な青色。僕のモノトーンな世界を真っ青な夏の色に染め上げた、強烈な彼女の青色。光にまみれた半身、その橙色は、僕の目には留まらない。彼女の青が、世界になだれ込み、やがて青く光る新世界を築いた。彼女と世界が交じり合い、まるでサイダーのような、爽やかさのみの存在する世界。僕の中に湧き続けるインスピレーションは、まるで延々と浮き上がる泡沫のようだった。ここに居るのは、君と青に輝く世界。そして僕という異物。足をぶらぶらと揺らし、君は鼻歌を歌う。ひぐらしの音が響く。扇風機がからからと鳴る。僕の筆がさっと走る。それは、青く光り輝いている。君の怪訝そうな顔。僕の背を通る涼風。光が、音が、匂いが、味が、痛みが、僕の全身を走り、やがて一つになっていく。僕の筆の先で、一枚の絵画になっていく。それは美しく、儚く、爽やかだった。そんな僕とは違い、君はキリンの鳴きまねをしていた。心なしか、顔も似せている。しかし、それすらも今はただただ美しい。世界がただただ美しい。

 突然。突然の事だった。僕の顔を、美しい少女がのぞき込む。ねぇ?もう、終わろっか。なんて、つぶやいたのだ。すると、青く、青く、君に染まった世界は色を失う。放課後の教室。まるで白と黒しかないかのような、孤独の世界。ここには、キャンバスを前に座る僕だけがいた。

夕日が伸びる午後の教室。数本の鉛筆をキリンのストラップを付けた筆箱にしまう。キャンバスの上には、彼女が描いてあった。しかし、そこにいたのは、ぎりぎり人に見えない何かであった。それは、どこかキリンのようだった。彼女なら、何それ。キリン?もしかして興味あるの?なんて、そう言って笑ってくれるのだろう。少し感傷的になった僕の心を振り払う。そのキリンのような何かから目を逸らすと、不意に笑ってしまった。この掠れた笑いは誰にも、君にさえも届かないだろう。カバンからサイダーを取り出した。サイダーのペットボトルは、まだ少し冷たい水にぬれている。はぁ、と溜息を吐く。そして、冷たいサイダーをのどの奥に流し込んだ。僕は、ずっとわかっていた。君はまだ、僕だけがいない僕の世界、僕の夢の内側にいるのだろう。

君と僕は、この放課後の教室で初めて会ったのではない。初めて君に会った日、それは夢の中だった。夢の中で、僕は自分の部屋に一人きりでいた。絵を描いて過ごしていた。しかし、なぜか君は現れた。僕はそれが夢とわかっていた。だからいくら話したって無駄だと思った。だというのに君は、ひどく鬱屈とした毎日に、生きることだって悪くないよ、と教えてくれた。涼風が、一人じゃないよと僕の背中を押し、いっぱいの夢をくれた。僕だって、夢を見てもいいんだって気づかせてくれた。もっと楽しく生きてもいいんだって、もっと幸せに生きていいんだって、教えてくれたのだ。それでも、そんなの夢だ。君は僕の夢。幻想にすぎない。僕が作り出した、都合のいい人形。だから、君を、青木涼を好きになったって意味がない。

昇降口を出る。まだ少し西日が明るいが、家に帰る時はもう真っ暗、なのかな。ジリジリとセミが鳴いている。少し横を車が通る。光に照らされ、影が伸びる。呼吸の音がなんだかいつもよりも大きく聞こえる。しかし、これだけ音にあふれた世界なのにも関わらず、とても静かに感じた。つま先で小石をけりながら、のろのろと歩く。本当に、意味なんてない、のか?なんて自問を繰り返す。彼女に執着したって虚しいだけ。現実に、彼女はいないのだ。小石が斜め左へと進む。追いかけた僕は少し右側へと蹴とばす。そうだ。彼女のことは忘れよう。それが一番、幸せなことなのだ。小石は前方へ飛んでいき、側溝に沈んだ。本当に、幸せか?僕はあたりに新しい小石がないか探したが、見当たらなかった。そうだな、僕は、少なくとも僕は少し嫌かもしれない。君がいない世界は嫌かもしれない。僕は小石を諦め、歩みを進める。

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