第396話 慶長伊達騒動①

 伊達家は当主である伊達政宗帰国後混乱をきたしていた。江戸時代、お家騒動は多々あるが、現在の伊達家はその初期段階を超えている。幕府の介入も時間の問題で、自力による修復は不可能な状態だ。


 ことの発端は茶々である。茶々は伊達家へ嫁いで以降、一度も国許の羽前へ足を踏み入れてない。それ自体は珍しくもない(織田幕府では人質を禁じており、妻子の大坂在住は義務付けてない)。茶々が伊達家へ嫁いだことで大坂と羽前で家臣団は二分されてしまった。


 大坂の伊達屋敷は畿内で登用された者たちで、その大半は浅井家旧臣を始めとする近江出身者だ。それらが政宗不在の数年間で門閥化を強めたのがひとつ。


 さらに伊達家内部の事情が絡む。まず国許を抑えている先代の伊達輝宗はまだ53歳(数え)である。そして、伊達家の家中は一門衆が支配的地位にあり、いずれも数万石の知行を受けていた。


 それ以外の家臣は片倉景綱(小十郎)など一部を除けば、数千石程度であり、序列や待遇差が極端だ。ここまで一族支配が徹底している大名は他に例はない。独自色の強い体制といえよう。


 留守政景、石川昭光、伊達成実、亘理重宗、小梁川宗清、岩城常隆などの伊達家一門は大名級の扱いで、伊達家臣団の頂点だ。さらに一家、準一家、一族と続き、例え宿老であっても一族以下の扱いとなる。


 なぜ、そうなるのかといえば、奥羽は戦国乱世による下剋上の嵐があまり吹き荒れなかった。旧来の勢力が家臣にとって代わられることも少なく、旧態依然のまま戦乱が終結した結果でもある。


 能力主義でなく、縁故優先だ。地方の一族によるオーナー企業と大差ない。元々、このように歪な体制であったが、大坂採用組の台頭は問題を露呈させた。


 若い政宗がまだ健在の父を始め、叔父などの一門衆を手足のごとく扱うのは難しい。しかし、信孝の従弟で、形式上養女となった茶々を正室(本来であれば継室。本来正室であった愛姫は婚約中に破棄した扱い)へ迎え、にわかに政宗は態度が大きくなった。


 その上、茶々が集めた浅井家旧臣を始めとする畿内出身の大坂詰め家臣があまりに優秀だ。政宗は家中をまとめるため、古参の家臣たちにも槍働きする場を与えたかったが、これも裏目となる。


 政宗不在の約3年半で伊達家の財政力は天井知らずとなっていた。まず酒田湊の開発。さらに酒田が位置する庄内平野での米増産。また酒田湊から最上川流域一帯の開発が進み、米・蕎麦・紅花の生産力は圧倒的だ。


 他にも食用菊(乾燥)、菊芋(主に乾燥)、センキュウ・トウキ・トリカブト・ウコンなどの漢方生薬、養蜂、甜菜糖、酒、煙草、和紙、養蚕、蝋燭などの生産量も増えている。


 最上川は庄内地方から新庄、山形、米沢と羽前を南北に縦断しており、開発は比較的容易だ。しかし、伊達家に十分な産業育成能力があるはずもなく宝の持ち腐れ状態であった。


 茶々は幸田広之の協力により、現代の種子なども使いつつ、綿密な開発計画を策定し、実行を試みている。最上川流域の開発だけではなく羽後南部を流れる雄物川、陸中南部を流れる北上川流域(主に江合川)を結ぶ陸上輸送も行なっていた。


 この陸上輸送網と河川輸送を融合させた組織は三川衆と無づけられ、大坂伊達家の直轄となっている。舟小屋や馬借宿などによる輸送網を通じ、各地の産物が流通していた。


 とりわけ大きいのは煙草、砂糖、塩、茶、薬、鮭、鰊、鱈、鰹節、昆布などである。三川衆の末端輸送は各地の受け子が担っており、現代でいえば代理店だ。


 受け子たちとは原則現金取りである。現金だと通常価格で卸してもらえる反面、後払いは割高となり、支払い期日が長くなれば延滞金も発生するという販売方式だ。


 また、受け子たちは自身の販売において売り掛け精算するまで債権を担保に三川衆から金を借りる事が出来た。つまり、三川衆は商社、物流、金融が融合したコングロマリットだ。


 丹羽家や幸田家の薬種、徳川家の茶、幕府の煙草・北方海産物(俵物)・砂糖など茶々がトップセールスで商品の買い付けを行なっていた。伊達家の本拠地米沢では年貢と酒田湊の運上金で潤っていたが、大坂伊達家の利益はそれらを遥かに上回る。


 大坂伊達家には大坂詰め家老、留守居役、惣奉行の上位三役が居る。この内、家老と留守居役は羽前よりの出向組だが、惣奉行は幸田家家臣堀江新三郎正成の従弟にあたる堀江正兵衛長泰が務めていた(架空の人物)。


 堀江家は元々越前の有力国人であった。藤原北家利仁流斎藤氏の系譜であり、美濃斎藤氏と同じルーツだ。かつては越前守護斯波家、その後は朝倉家へ仕えていたが越前一向一揆へ与して朝倉家と対峙(朝倉家時代の堀江家は傍流だという)。


 堀江家当主の堀江景忠は能登へ逃れた。その後、朝倉家が滅亡すると織田家に与して一向一揆勢と戦い、武功を立てる。正成の父は堀江家(朝倉家時代の)の傍流であり、一族が治める三国湊の実務を担っていた。


 正成は次男ということもあり、能力ほどの仕事は与えられなかったが、朝倉家の家臣として近江の浅井家へ与力的な立場で従う。客分的な扱いではあるが永禄9年(ユリウス暦1566年)の撰銭令にも関与した。


 越前の父や兄は朝倉家から堀江家が征伐されたさい、討死している。浅井長政は正成が連座によるお咎を受けないよう朝倉家へ根回しの上、浅井家へ正式な家臣として迎え入れた。


 一方、長泰は若狭を経て近江坂本で明智家家老斎藤利三の家臣となる。ほどなくして浅井家は滅亡。正成は、主君浅井長政の命でお市と浅井三姉妹を守り、織田家へ届け、そのまま世話をしていた。


 そして、長泰は明智家滅亡後、丹羽長秀に召し出される。長秀が越前を領地にしたさい、三国湊の代官となった。さらに、茶々が伊達家へ嫁いだあと、長秀は祝儀代わりとして長泰を譲り渡す。


 長泰の嫡男はそのまま丹羽家へ残り、知行を引き継いだ。次男は長泰に付き従い、伊達家で働いている。長泰は浅井、京極、六角、明智、朝倉などの旧臣を使い、惣奉行として存分に活躍。


 長泰の下で働く与力たちはいずれも数字に強く、相応の教養を修めていた。やがて伊達家の羽前衆とは埋めがたい溝となる。また、政宗が帰国後に羽柴家から譲り受けた片桐且元を大坂詰めの新たな家老へ据えようとしたことで論功行賞へ不満を抱く出征家臣や一門衆は反発。


 曲がりなりにも共存していた両勢力の対立は決定的となった。これが、後世に伝わる慶長伊達騒動の始りである。



 

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