第392話 幸田広之とマリアの晩餐

 マリア・デ・メディチは幸田広之との会談が終わるとトスカーナ大公国高官とメディチ銀行幹部を自室へ呼びつけた。マリアの豪胆な交渉力により窮地を救われたが、高官や幹部たちの面目は丸潰れである。


「あれでは交渉になりません。雄弁であれば良いというものではなく、沈黙は時に大きな利益をもたらします。そうはいっても、相手は内乱状態の日本を統一させ、10余年で世界帝国を築きあげた宰相。あのような場合は先に手の内を見せたら負けます。冷静に考えれば、当家へ敵対心があるのならば、すでにフィレンツェは陥落しており、フェリペ2世陛下絡みの膨大な債権は紙屑になっておりましょう。しかるに、あれほど当家の姻戚関係を知り尽くしており、オーストリア・ハプスブルク家やカトリック教会、フランスのギーズ家など含めて当家がどう出るか、様子を見ているからに他なりません」


 うなだれてマリアの意見を拝聴していたトスカーナ大公国高官が暗い表情で口を開く。


「総裁閣下が求めているのは中立を保てという事でしょうか」


「必ずしもそうではありません。まずはオーストリア・ハプスブルク家がカトリック教国の盟主ではなく単なる大国の君主一族だという形が望ましいのです。それもカトリックやプロテスタントを問わず農奴を使役し、民衆を抑圧する強権的な支配者……。もはや神聖ローマ帝国のプロテスタント諸侯が臣下の列から離れるのは時間の問題。その時にカトリック対プロテスタントという図式にはしたくないはず。圧政に苦しむ民衆の解放とオーストリア・ハプスブルクへ信仰の自由を含む改革を求める事を大義とするのが上策。ローマ教皇庁やイエズス会に対しても存在や信仰自体についてはおおよそ認めているではありませんか。ならば、当家やローマ教皇庁がカトリックというだけで敵扱いされる懸念は無用。むしろ相応に評価さていると見るべきでしょう。少なくともライン川付近のプロテスタント諸侯が神聖ローマ帝国へ反旗を翻すまでは商売に専念し、政治的な動きは控えて欲しいという事です」


 マリアの独壇場と化し、ほどなく散会となった。昼食は抜きにしてクロワッサンをカフェオレで流し込む。晩餐に際して考えを巡らすマリアへアデリアが不安気な表情で尋ねた。


「マリア様、私たちも同行するよう要望したということは、場合によって……」


「そうね1人あたり3人くらいの殿方から慰み者になるやも知れませんよ。覚悟しておくのですね」


「は、はい……。マリア様をお守りするためなら私が身代わりに……」


「アデリアさん、その時は私が……」


「いや、私が……」


 ここで黙っていたら名が廃れるとばかりに次々と侍女が名乗りでた。


「実に頼もしいこと。なら、お言葉に甘えて最後に名乗りでたロレッタにおまかせするわ。朝まで逞しい殿方に可愛いがってもらいなさい」


「えっ……私ひとりでございますか」


「あら嫌だ、冗談ですよ。総裁閣下はとても紳士的な方ですから、安心なさい。それから、服装は地味にしてくださいね。私たちの服装、この国では明らかに浮いてるでしょう」


 こうして、夕方となり、外が暗くなり始めた頃、使いが訪れ、幸田広之の控えている部屋へ案内した。そこには、幸田広之、五徳、アブラギータ・フトッテーラ、サンジェルマン、イルハ、ナムダリ、アブタイ、ムンフゲレルなどが揃っている。


 広之はマリアたちに五徳を始めとする面々を細やかに紹介していく。広之の妻が将軍織田信孝の妹である事は丹羽長秀から聞いていた。他にマリアが気になったのはムンフゲレルである。


 ムンフゲレルはチャハル部の部族長(北元皇帝)であるブヤン・セチェン・ハーンの娘だ。次期将軍織田信之(元三法師)の弟と婚約関係にあった。

  

 マリアはかつてロシアやイスラム諸国を支配したモンゴル帝国の王女だと知る。すでに将軍家が国際的な政略結婚へ動いていると認識し、いずれ欧州へ及ぶだろうと確信を深めたのである。


 食事前にマリアは広之へ様々な書籍の目録(実物は脇坂安治へ送っている)、メディチ銀行の顧客リストと帳簿、欧州王侯貴族の姻戚情報、欧州の地図と各種産地の一覧、欧州各地の種子や図絵、来日させた学者、芸術家、建築家のプロフィールなどを手渡した。


「さあ、皆さん。今日は晩餐会のような制約も少ないので、気軽にお楽しみください」

  

 プロシュート(生ハム)、作りたてのハム、サラミ、鰯のマリネ、パタタス・ブラバス、ガンバス・アル・アヒージョ、プルポ・ア・ラ・ガジェガなどが並ぶ。


 パタタス・ブラバスは、ひと口大のじゃが芋を揚げてトマトケチャップがベースのブラバソースで味わうスペイン・バル定番料理だ。まず低温で揚げ、そのあと軽く高温の油へ通し、少し置いてからオーブンで仕上げるという手間がかかっていた。


 軽く胡椒が振りかけられており、これを別皿の特製ブラバソースやマヨネーズに付けて食べる。ブラバソースはトルコのトマトペーストであるサルチャ、赤いパプリカのペースト、にんにく、タバスコどき、バルサミコ酢、オリーブオイル、味の友(台湾で作られている旨味調味料)、水飴などで作られていた。マヨネーズはマスタード、にんにく、ピクルス、蜂蜜などが加えられている。


 ガンバス・アル・アヒージョは海老のアヒージョである。沢山の海老、浅蜊、マッシュルーム、干したトマト、ブロッコリー、にんにく、じゃが芋などが入っており、付け合わせにタンドリーで焼いた日本式のナンも添えられた。


 プルポ・ア・ラ・ガジェガもパタタス・ブラバスやガンバス・アル・アヒージョと同じく代表的なスペイン料理だ。柔らかく茹でた蛸にオリーブオイル、パプリカパウダーをかけている。


 これが本場スタイルだが幸田家風のアレンジとして魚醤、にんにく、難波葱、唐辛子を漬けた酢、ジェノヴァソース、シラチャソースなど3種類のソースが添えられていた。


「マリア様、じゃが芋など植えた農民が食べるものと侮っておりました。しかし、遼東や日本で食すじゃが芋の美味しさは私の想像を超えております」


「アデリーナ、偏見というのは怖いものですね。トマトも最近では少し食べる者がおりますが、以前はトマトを食べ過ぎると魔女になるなどと囁かれていたそうな。じゃが芋とトマトの美味しさを知っていた者は食わず嫌いの者たちが愚かに見えたはず。それにしても、このオーリオ(油)で煮た海老も実に美味。しかも、お酒に合いますこと」


「マリア様、あの穢らわしいアブラギータが、そのオーリオに薄くて長いパンを浸して食べております」


「食べ物は下賤な食べ方が美味しい事もあります。試してみましょう」


 この後、ナンを千切ってアヒージョに浸し、口へ運んだマリアの動きが止まった。しばらくして、ナンだけ食べて、また動きが止まる。


「マリア様、やはりお口に合いませぬか……」


「アデリーナ、逆ですよ。このようなパンを食べたことがございません。この世に存在するパンの中でも最上級といえましょう」  


 そのあと、アデリーナたち侍女もナンを味わい驚くのであった。さらにプルポ・ア・ラ・ガジェガのソースにも驚き、飲食のピッチは上がる一方だ。


 時折、広之は「教皇庁改革とトレト公会議は評価する」などとマリアへ伝えるのであった。プロテスタントとの融和を望む意思表明に他ならない。友好ムードながら、それとなく政治的な側面も垣間みせた。


 マリアから見る広之は最高レベルの権力者でありながら、髭もなく、髪型も普通。服装も地味だが洗練さされている。しかし、すべてを見通したようなところがあり、これまでの見てきた権力者とは醸し出す雰囲気がまったく違う。


 世界有数の美食家であり、東の最果てに位置する島国から船で2年もかかるような地への侵攻、統治、政策、外交などを完璧に計画・指導するという信じ難い人物だが、およそフェリペ2世やルドルフ2世(神聖ローマ帝国皇帝)とは真逆だろうと感じた。


 様々な思惑が交錯するなか、このあともアクアパッツァやローストポークなど次々と登場。飾り気は無いものの抜群に美味なる料理へ舌鼓を打つマリアと侍従たちであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る