第387話 ローマ教皇の使者とイエズス会

 この日、ローマ教皇クレメンス8世の使者ピエトロ・アルドブランディーニ助祭枢機卿、さらにイエズス会総長クラウディウス・アクアヴィヴァの使者ムティオ・ヴィテッレスキが征夷大将軍織田信孝と相次いで正式な拝謁を許された。


 それまで何度か信孝を見掛ける機会はあったが正式に個別面会するのは初めての事だ。迎賓館で行なわれたが、ほぼ形式的な挨拶だけで数分ほどにて終了した。


 素っ気ない拝謁が終わり、幕府総裁幸田広之はピエトロ・アルドブランディーニならびにムティオ・ヴィテッレスキとの三者会談へ臨んだ。


 両者の通訳はイエズス会のグネッキ・ソルディ・オルガンティノが務める。オルガンティノは西暦1556年に司祭へ叙階されており、来日して26年という人物だ。


 現在、日本で活動するイエズス会士の中ではイエズス会東インド管区巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが立場上、最も高位といえる。


 また日本準管区長のペドロ・ゴメスやルイス・フロイスなども居るがヴァリニャーノは一度追放されていた。そのためイタリア語が母国語である点などを考慮してオルガンティノが選ばれている。


 ローマ教皇の使者アルドブランディーニはまだ26歳(数え)と若いがクレメンス8世の甥だ。1593年に枢機卿へ任命されている。この時代、カトリック教会の枢機卿は70名おり、大半は資産家や名家の出身だ。


 そして、イエズス会総長クラウディウス・アクアヴィヴァの使者ヴィテッレスキはローマのイングリッシュ・カレッジ学長を務めていた人物である。


 このイングリッシュ・カレッジはイングランドとウェールズの司祭を養成するための神学校だ。ヴィテッレスキは史実だと1615年にイエズス会の総長へ選出されている。


 2人の存在は、かなり早くから伝馬により広之は周知していた。前回、現代へ行った際、調べている。また、ベーコンとフランス語の話せるイエズス会士がサロンで応戦した場にヴィテッレスキは居合わせた。その時、広之が英語でベーコンと会話するのを聞いている。当然、警戒心が顔に表れていた。


「遠路、ご苦労でした。さて、まずはカトリック教会についてですが、日本における活動はこれまで通り認めます。されど、新たな教会、コレジオ(聖職者育成のための高等学校)、セミナリヨ(聖職者育成のための初等学校)、ノビシャド(修道会員の養成機関)の設立は認めません。先の地震において、九州でイエズス会士が神の裁きなどと吹聴した結果、大きな騒動へ発展しました。容疑者のイタリア人司祭はいまだに逃亡しております。我が国の刑法で最も厳しい部類となる外患誘致罪・内乱罪・民衆扇動罪の容疑です。ちなみに民衆扇動罪とは特定の民族や宗教などの集団に対する憎悪をかき立てて、暴力を誘発するような行為が対象であり、残念ながらイエズス会を破壊活動防止法の調査対象団体へ認定せざるを得ません。1492年にイスパニアで行なわれたユダヤ教徒の追放という名の迫害とは全く異なりますのでご理解ください。また東西各地でもポルトガルやイスパニアの侵略とカトリックの伝道・布教が対になってきた事は明白。不幸な歴史に鑑み欧州以外での新たな布教・伝道は謹んで頂ければ幸いです」


 アルドブランディーニは平静を保ちながら返答した。


「総裁閣下、日本や自由欧州同盟は信仰の自由を標榜しておられる。いささか矛盾されるのではありませぬか」


「信仰の自由が国や体制を根本から脅かすのならば本末転倒でしょう。イスパニアでは1499年にカトリック教会トレド大司教ヒメネス・シスネロスがグラナダ条約を無視し、グラナダのイスラム教徒を強制集団改宗させております。その後、宗教裁判による差別と弾圧も行われていますが、我々はそのような事を一切意図せず、むしろ回避すべく善処している点に留意願いたい。これまで、キリスト教徒が謂れなき迫害や圧倒的多数の仏教徒から暴力的弾圧を受けないように法の遵守や信仰の自由への啓蒙が行われてきました。先ほど、イエズス会を破壊活動防止法の調査対象団体へ認定と述べましたが、同時に警護対象団体でもあります。これまで同様、イエズス会やキリスト教系団体へ危害を加えようとする者には法に基づいた処罰が下されるでしょう」


 通訳のオルガンティノは幸田広之なら、このくらいの事は普通に述べるだろうと予測したので、さほどの驚きもない。アルドブランディーニやヴィテッレスキは驚愕する他なかった。それでも両者共に優秀なエリートのため、動揺は顔へ出さない。アルドブランディーニが続けて口を開く。


「閣下、日本の法において公平かつ厳正な対応が行われる事を改めて願います。しかるに、カトリック教会がアジアや新世界で新たな活動を自粛するにあたり、どのような形でなされるべきでしょうか」


「正式な条約は求めません。私は貴方がたの神への信仰や信念というべきものには敬服しており、否定する者ではない事をご理解願います。同様に私を信頼して頂けるならば、いわゆる紳士協定という形で良いでしょう。互いに信ずるところの神仏へ誓い書面へ署名し、後は互いの良心と誠意に委ねられるべきか、と」


 アルドブランディーニは事前に日本在住のイエズス会士たちからレクチャーを受けていたが、確かに隙が無く、ここまで押されている。


 紳士協定といえば聞こえはいいが、何の保障や制約もない。つまり、同意しなければ、勝手な事をした場合、何が起きても責任は取らないという警告だ。


「ある程度はご要望に添えるか、と存じます。しかし、当面は良いとして、いかなる方向へ向かうべきでおるか、存念あれば、お聞かせ願いたい」


「宗教や民族による差別を極力無くしたいと思っております。カトリックとプロテスタントの対立も望むところではありません。互いの尊重が大事だと考えております。日本の外地にはおよそ80万人の日本人が進出しておりますが、各地の信仰は極力尊重し、配慮するよう尽くしている次第。日本の宗教勢力が進出するにも様々な制約を設けており、ましてや土地の民へ強要などしません。貴方がたに強要は致しませぬが、我々の勢力圏においては、ある程度留意していだける事を願います」


「プロテスタント勢力、とりわけイングランドの動きについては、いかなる方針でしょうか」


「ご懸念はもっとも。その件はご安心ください。イングランドがカトリックへの攻撃を意図しても我々は同意いたしません。確か、ヴィテッレスキ殿はローマでイングランドやスコットランドへ会士を送り出すための学校で学長だったと聞いております。すでに亡くなれたウェールズ人のモーリス・クレノック殿が学長を務められている頃はイングランド人とウェールズ人の対立が激しかったそうですが、今はどうなのでしょうか」


 アルドブランディーニ、ヴィテッレスキ、オルガンティノは激しいショックを受けた。これも日本人が絶対に知らないはずの話だ。同時に英語をイングランド人から教わったという話と繋がる。


 3人ともローマのイングリッシュ・カレッジで教育を受けた者が広之へ知識を与えたと確信した。ベーコンへ語ったマゼラン艦隊では年代的に無理がある。


 いかなる経路か不明だが、イエズス会の関知しない形で商船に紛れ込み日本へ辿り着いたのであろう。内心、あれこれ考えてるところへ広之が追い討ちをかける。


「ひとつ善処して欲しい事があります。内政干渉するつもりは無いので無理にとはいいません。ドミニコ会の司祭ジョルダーノ・ブルーノの件です」


 アルドブランディーニとヴィテッレスキはあまりの衝撃で愕然とした。ジョルダーノ・ブルーノは1593年に異端の疑いで逮捕され、現在も獄中生活を強いられている。


 地球や太陽どころか宇宙に中心など存在しないという考え、マリアの処女性を否定、輪廻説の支持など主張しており、史実ではクレメンス8世下の1600年に処刑された人物だ。ガリレオと同時代である。


「ジョルダーノ・ブルーノは存じております。それが、いかがいたしましたか」


「アルドブランディーニ殿、カトリックでは異端に相当する人物だというのは十分承知しております。政治的意図はまったくありません。ジョルダーノ・ブルーノが日本への亡命を希望すれば身柄をお引き渡し願えないでしょうか」


 ジョルダーノ・ブルーノが1592年にヴェネツィアで逮捕され、ローマへ移送されたのは1593年である。カトリック教皇庁の意向としては裁判は行わず、自説の完全撤回を求めるつもりだった。


 しかし、ジョルダーノ・ブルーノは一部撤回まではともかく全面撤回は拒否しているため、長期にわたって裁判は開廷せず、獄中での拘禁が続いている。


 ローマ教会の暗部ともいえる事情をなぜ知っているのか。イングリッシュ・カレッジで教育を受けた云々では、これまた時間的に説明がつかない。ローマに協力者が居る可能性すらある。


「ジョルダーノ・ブルーノについては私の一存では決められません。猶予を頂きたい」


「一旦保釈されたという形で国外へ脱出するのを黙認という事でも良い。いずれにしろクレメンス8世陛下の寛大で賢明な御聖慮を期待します」


 その後、広之はヴィテッレスキと幕府が制圧した地域でのイエズス会士の安否などについて色々話しあい、交渉は紳士協定への署名をもって終了した。


 会談終了後、ローマ教皇やイエズス会の使節団、日本のイエズス会幹部たちは部屋に集まり、話し合ったが、まるでお通夜のような状態だった事はいうまでもない。

 








 


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