第385話 イタリア人、トマトソースに驚愕す

 朝食を済ませたマリア・デ・メディチはトスカーナ大公国の重臣やメディチ銀行の幹部と打ち合わせを行なった。マリアはトスカーナ大公フェルディナンド1世の姪であり、前大公フランチェスコ1世の娘だ。


 マリアが子供の頃、両親はマラリアで急逝(毒殺説あり)。その結果、父の弟で枢機卿だった現大公が跡を継いでいる。ちなみに枢機卿はローマを本山とするカトリック教会で教皇の最高顧問だ。


 現トスカーナ大公妃クリスティーナ・ディ・ロレーナ(フランス語:クリスティーヌ・ド・ロレーヌ)はフランス人のため両国は密接な関係にある。


 メディチ家は過去に何人もローマ教皇を輩出しており、カトリック教会の大パトロン的な立場だ。フランスはプロテスタント系のユグノーが盛んではある。


 それでもイスパニアが敗北して以降、信仰の自由を標榜する幕府の方針へ従い、国内で過度なユグノーの優遇とカトリックの弾圧は行っていない。


 しかし、有形無形の圧力は強まりつつある。特にイングランド女王エリザベス1世(この時代に1世を付ける必要は無いが、ややこしいのであえて付ける)はお構い無しにローマへの侵攻、メディチ家の処分、イエズス会の処分、ハプスブルク家との全面対決を主張していた。


 このため、メディチ家とローマ教皇率いるカトリック教会やイエズス会は比較的穏健な幕府へ何らかの確約を得たい。その一方、フランスが鍵を握っているという認識でカトリック陣営の見解は一致していた。


 橋頭堡となっているのはトスカーナ大公国である。トスカーナ大公妃の存在が大きい。なんといってもロレーヌ家出身のフランス人だ。また、メディチ家といえばハプスブルク家との関係も深い。


 マリアの母親は神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント1世の娘だ。いわゆるオーストリア・ハプスブルク家の出身ということになる。フェルディナント1世の甥がイスパニア国王(元)フェリペ2世に他ならない。


 つまり、マリアはフェリペ2世の従兄弟だ。マリアは史実においてハプスブルクへアンリ4世との子を政略結婚させている。フランス国王ルイ13世(アンリ2世とマリアの子)の王妃はフェリペ2世の孫だ。


 ルイ13世王妃の弟であるフェリペ3世、最初の王妃もアンリ2世とマリアの子だったりする。マリア視点でいえば自分の息子嫁の弟にも娘を嫁がせていた。


 さらに、マリアは敬虔なカトリックであるが、娘をチャールズ1世 (イングランド王、スコットランド王)へ嫁がせたりもしている。しかし、メディチ家は政略結婚の甲斐なく、やがて没落の道を進んだ。


 原因はメディチ銀行の貸し付けにある。最大の貸し付け先がローマ教皇庁であり、その他は王侯貴族が主だ。現代風の感覚でいえば国債を大量に購入していたところ、発行元が債務不履行するような感じだろうか。挙げ句にフィレンツェのメディチ家は断絶してしまう。


 改変された歴史においては、フェリペ2世が完全失脚。しかし、膨大な債務は幕府が引き継いだ。メディチ家にとっては九死に一生わ得た。だが、同時に幕府から生殺与奪の件を握られたようなものである。


 現在、イタリア、フランス、イベリア半島、イングランド、ネーデルラント(オランダ)では巨額の幕府資金が流れ込み好景気に湧いていた。しかし、メディチ家はほぼ無視された形であり、先行きが暗い。


 そうはいっても、貸し付け先の大半はカトリック勢力のため、表立った行動は控えていた。ローマ教皇庁とオーストリア・ハプスブルク家を敵に回す事は出来ない。


 結果、苦肉の策として若くて頭の切れるマリアに白羽の矢が立った。幸い幕府の重鎮である丹羽長秀の計らいにより、織田信孝への拝謁と幕府政権を取り仕切る幸田広之との会談も確実だ。


 今回、各国の使節団は来日するにあたり、豪華絢爛な贈答品を用意していた。しかし、マリアの発案で豪華絢爛な品物は持参していない。叔父のトスカーナ大公には反対されたが押し切った。


 代わりに、様々な書籍の目録(実物は脇坂安治へ送っている)、メディチ銀行の顧客リストと帳簿、欧州王侯貴族の姻戚情報、欧州の地図と各種産地の一覧、欧州各地の種子、そして優れた学者、芸術家、建築家を多数同行させている。


「アデリーナ……。それにしても頭の悪い人ばかりで困ってしまいますね。交渉というのは相手が何を欲し、何が足りているのか。日本は使い切れないほどの金や銀を保有しているのですから、他の欧州王侯貴族の如くメディチ家に金銭は期待しておりません。知りたいのは顧客の情報と金銭の流れでしょ」


「マリア様、世の中頭の良い者ばかりでは成り立たないではございませぬか。すべてが勝者には成れず、また敗者もしかり」


「そうですね。将軍とは簡単な挨拶だけという話です。幸田広之という人物が摂政のような立場だとか」


「聞いた話ではイングランド語が話せ、昨日はイエズス会の者たちが手酷くやり込められてたとか。また、晩餐会の食事を考えたのも幸田殿らしいとの噂……」


「あの料理ひとつ見ても普通ではありません。あれは、もはや芸術や自然哲学の領域。いや食の錬金術というべきか。いずれにしろ只者ではないでしょう。やはり、下手な装飾品など持参しなくて良かったわ」


 そこへ他の侍女が近寄ってきた。昼食が運ばれてくるという。しばらくして、クローシュが被せられたトレーが次々と並ぶ。給仕がクローシュを取ると、湯気とチーズの香りが立ち込める。流石にマリアと侍従たちも度肝を抜かれた。


 運ばれてきたのは、各種のピザ(マルゲリータ風、ゴルゴンゾーラ、生ハム、スモークチキン、シーフード)、タリアテッレ(生タイプのパスタ)、ミネストローネ、ワインなどだ。


 ピザやタリアテッレの中には赤いものもあって、戸惑う。そもそも、どうやって食べていいのか分からない。そこへ同じイタリア人であるアブラギータ・フトッテーラが現れた。


「お困りのようでございますね」


「困るとわかっているものをマリア様にお出しするとは失礼な」


「アデリーナ、まあ良いでしょう。これは何で、どのように食べるのかしら」


「はい、赤いのはトマトでございます」


「トマトが食べれるとは聞いておりますが、問題はありませんか」


「問題どころか、とても美味しい上、肌にも良いですよ。南蛮焼きと申します。ナイフで切って、フォークで食べても結構ですし、手で食べても大丈夫。パスタは南蛮うどんでして、フォークとスプーンで食べます」


「わかりました。もう下がって良いですよ」


 侍女に色目を使いながら去って行くアブラギータであった。


「アデリーナ……。遠慮しなくても良いから、あなたからお食べなさい。その薄いパンのようなものから」


「かしこまりました。う、これは……」


「いかがいたしましたか」


「いや、失礼いたしました。あまりに熱かったもので。それにしても、これは美味。トマトにはほどよい酸味がある上、豊かな味わい。チーズと相まって実によろしいか、と」


 その後、マリアもひと口食べるなりに、美味しさの虜となった。小さな容器に入った自家製タバスコもどきを掛けて食べたが、これもほどよい辛味が食欲を増進する。トルコのトマトペーストであるサルチャを使ったピザソースは薄く塗られており、小麦粉の全粒粉殿相性は抜群だ。


「このパスタも何という事でしょう。トマトのソースと実に合う事。これも辛いのを少し入れても美味しいわね」


「マリア様、このスープもトマトが入っております。しかし、なかなかの味わい」


「一体、何処の誰でしょうかね。トマトは綺麗だけど毒があるとか、魔女の好物などと聞いておりましたが、こんなに美味なものだとは……」


 そういうとマリアはワインを飲み干すのであった。


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