第379話 フランシス・ベーコン対イエズス会①

 アフタヌーンティーが終わると各国の使節は自分の部屋へ戻ったり、あるいは応接や談話の間(いわゆるサロン)で文化・芸術・歴史・哲学・思想・政治などについて知的論議が行なわれていた。


 最上級の葉巻煙草、茶、珈琲、摂津・武庫川の炭酸鉱泉から汲み出した炭酸水、クッキー、ナッツ類(バターピーナッツ、アーモンド、ジャイアントコーン、胡桃)などが供されている。いくつかのグループに分かれているが、大別するとイングランド語、フランス語、イタリア語、ドイツ語だ。


 フランス語で話すグループの中心にいたのはフランシス・ベーコンであった。「知識は力なり」という言葉は有名であり、哲学者として知られる。しかし、れっきとしたイングランド貴族出身の政治家だ。


 父はエリザベス朝(西暦1558年~1603年。テューダー朝におけるエリザベス1世の治世期間を指す)の国璽尚書・庶民院議長・大法官を務め、母方の叔母は女王エリザベス1世の側近である初代バーリー男爵ウィリアム・セシルの妻だ(ただセシル親子とは政治的に対立)。


 ベーコンは36歳(数え)という円熟期である。彼がイングランド使節団へ加わったのは複合的な理由からだ。政治家として将来を嘱望されていた。しかし、対イスパニアにおける特別税で、エリザベス1世へ反対的な対応を行ない、失脚する。西暦1593年の出来事であった。


 その後、ベーコンの後楯であるエセックス伯の取り成しによって、エリザベス1世の勘気も解けつつあった時、幕府率いる六ヶ国連合(現自由欧州同盟)がイスパニア・ハプスブルク家の栄華へ終止符を打つ。


 幕府からイングランド王室の統治下となったポルトガル及びアイルランドへ莫大な融資・投資・援助が行なわれた。また、幕府がイエズス会を問題視しており、イングランドも共闘する間柄だ。

  

 幕府は政治的あるいは法的にイエズス会を追い詰めるためイングランドを抱き込みロビイストの如く使っている。そんなイングランドにあってエリザベス1世の寵臣であるエセックス伯はワイン輸入税の独占権を有していた。


 幕府軍が大量のワインをフランスから買い付けていた関係で品薄状態によって価格は高騰。そのため、産地や数量を巡り、在仏の幕府役人と接触。結果的に対幕府の取次担当者のような地位を担っていた。


 史実においてエセックス伯は晩年エリザベス1世と争う。反乱を起こすも失敗し、処刑される。幸田広之の監修した幕府の指示で現地幕府役人はエセックス伯へ支援を申し出た。


 幕府の資金で、多数派工作を行なったエセックス伯は対イスパニア戦争での活躍もあり、軍務伯となる。対イングランド対策の橋頭堡の役割を担っていた。


 かような流れで自陣営の強化を図りたいエセックス伯は後見しているベーコンの復帰へ動く。ベーコンは以前、バーリー男爵の宗教政策を痛烈に批判したイエズス会と対峙するなど、少なからぬ遺恨があった。


 これを利用しようと考えたのだ。結果、エリザベス1世の学識顧問官として復帰を果たしたベーコンは日本への使節団に選ばれた。つまり、対イエズス会やカトリックへの刺客ともいえる。

  

 ベーコンはフランスに住んでいた事もあり、イングランド語の他、フランス語も堪能だ。また、長旅の間、日本語もある程度のレベルに達っしていた。


 そして、幕府の宗教・信仰に対する法律を知り、また幕府役人が所持しているイエズス会用問答マニュアルのラテン語訳も借りて読んだ。


 日本もかつて死刑どころか権力者の気分次第で簡単に殺されたり、年季奉公の名を借りた奴隷もあったが、それらは廃された事を知った。


 モンゴル系やトルコ系の遊牧集団には戦争の名を借り、厳しい対応を行なっているにせよ、エテルニタスで見た統治は農奴など無縁の社会だ。


 人の尊厳を守りつつ、民を豊かにして、その上澄みから少し税や売買益を得る手法も洗練されている。信仰で優劣付けず平等を目指すなど、自身法廷弁護士の資格者であるベーコンの興味は尽きなかった。


 控えの間に居た幸田広之にサンジェルマン(マイケル・ロックフェラー)が入室するや近付いてきた。


「大納言様、サロンが盛り上がっておりますぞ。あのフランシス・ベーコンがイエズス会本部の者と討論しており、なかなかの見応え」


「何じゃと……。まさか、あのフランシス・ベーコンが居るとは知らなんだ」


 ベーコンとイエズス会幹部の対決など格闘技でいえば東京ドームがフルハウスになるのは確実。広之とサンジェルマンが色めき立つのも無理はない。


 広之は直ちにサンジェルマンとサロンが行なわれている間へ向かう。サロンではフランス語をでベーコンとイエズス会士が対峙していた。


 イエズス会士も相当の人物であり、実に雄弁だ。そもそもイエズス会の学校では修辞学にとりわけ力を注いでいる。修辞学とは弁論・演説・説得の技術に関する学問分野であり、官吏や法律家の養成所さながらであった。


 その結果、欧州の各国へ浸透し、それぞれの国で相応の存在となっている。信仰心に裏打ちされた法や議論のプロフェッショナルたるインテリ集団といっても過言ではない。


 フランシス・ベーコンは熱心なプロテスタントであるが、帰納法を体系づけ、神を中心とした秩序から解き放つ道標を築いた。端的にいえば、科学文明や社会が発展する上で大きな役割を果たしている。まさに知の巨人に他ならない。


 哲学や思想の系譜を辿れば、現代から順に実存主義サルトル、無意識を発見したフロイト、唯物論的弁証法マルクス、実存主義の先駆者キルケゴール、弁証法ヘーゲル、経験論と合理論の統合カント、社会契約説ジャン=ジャック・ルソー、市場経済の父アダム・スミス、三権分立モンテスキュー、自由主義ジョン・ロック、近代哲学の祖デカルト……。


 そして、経験論・帰納法フランシス・ベーコンへ辿り着く。ルネ・デカルトは西暦1596年3月31日生まれであり、現在1歳(数え)だ。「我思う、ゆえに我あり」は一般的にも知られている。


 つまり、近代への扉を開いた超重要人物である2人が同じ時代にドーバー海峡を挟んで(デカルトはフランス人)存在していたのは、まさに奇跡的という他ない。


 それまでの西欧世界における教養というのは古代ギリシャがルーツで、ラテン語の書籍を頼っていた。しかし、2人の登場は中世キリスト教的な教会ありきの真理や教義から人々を解き放つ事になる。


 大学にしても哲学の位置付けは、神学・法学・医学より低かった。デカルトはイエズス会が運営するラ・フレーシュ学院という神学校で学んだ。


 イエズス会は反宗教改革・反人文主義であり、信仰と理性は調和するという考え方だった。プロテスタントでは信仰と理性は調和しないという考えであり、デカルトはイエズス会の影響を受けている。


 帰納法と演繹法はビジネスマンにとってはお馴染みかもしれないが、念の為補足したい。最小限度でいい表すならば、帰納法は調査、演繹法は分析にあたる。


 いずれにしろベーコンとイエズス会の相性が良いとはいえない。イエズス会もフランスは一大拠点であるが、勢いに乗るフランス国王アンリ4世と距離が出来つつあった。


 フランスの有識者はイエズス会の薫陶を受けてる者が多い。アンリ4世は口では宗教的融和を掲げている。その裏ではイエズス会外しのような動きを加速しつつあった。


 そんな状況下でイエズス会も必死だ。これ以上の状況悪化を総力挙げて防ぎたい。フランス以外では最も危惧しているのはポーランド・リトアニアである。


 イエズス会と懇意なジグムント3世による体制を何としても守りたい。幕府がポーランド・リトアニアへ侵攻を侵攻しないよう翻意させるのも今回来日した目的のひとつである。


 オスマン・トルコ、デンマーク・ノルウェー、スウェーデンなどと連携した上、侵攻されればイスパニアの二の舞いになるのは必定。


 普段はあまり討論など好まず、政治家としては大衆よりで、調和を望む傾向のベーコンがイエズス会士に厳しい言葉で責め立てていた。まさに知の鉄人ならぬ哲人同士の武器を持たぬデスマッチである。


※次回へ続きます



 


 

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