第372話 金万福家の夕食


 幸田家の料理人金万福は来日して約6年経ち、日本語も達者である。元々は明国の福建省育ちで、富裕な商人のお抱え料理人だったが、折り合い悪い他の使用人の企みによって、濡れ衣を着せられてしまう。


 それが原因で屋敷から追い出された挙げ句、元主人の倅から貯めたお金を全て出さなければ地元県衙の衙署へ突き出すと脅迫を受けた。県衙は知県によって運営され、政治・納税・警察・裁判などを行なう組織だ。


 また、村や町には自治的な保甲という制度があり、10戸を管轄する甲と、10甲を管轄する保から成る組織で、日本の江戸時代でいえば村三役や町三役に該当した。


 つまり、県衙・州衙の下位に位置する補助組織といえよう。保甲は末端で治安管理や納税の管理にあたる。県衙・州衙も日本ならば町奉行所であり、同心に近いイメージなのは捕快(治安管理担当の役人)だ。


 その捕快も主人の倅と結託の上、金万福を脅し始めた。万事休すの金万福を救ったのは意外にも県衙の役人である。実は県衙ぐるみで台湾行きの人足を集め、紹介料を得ていたのだ。


 村などから農民を連れてくる場合は手間が掛かり、その都度仲介者へ報酬を支払うため、取り分は減る。さらに外部へ漏れるリスクもあった。しかし、お尋ね者であれば話は早い。


 地元の県衙は逮捕確実の者を密かに台湾へ流す事で大きな利益が得られるという寸法だ。金万福はわけも分からぬまま船に乗り、台湾へ渡航。


 着いて直ぐに働き口は見つかった。広東系の料理屋である。本来は福建の料理人であるが、金万福の腕前は抜群だった。見様見真似で広東料理を習得し、直ぐ様その店の厨司(料理長)を凌いでしまう。


 しかし、その店でのランクは上がらず賃金も低く抑えられていた時、店の常連である幕府の役人から日本行きの話を持ち掛けられる。ネックとなったのは、その店で働く女性と結婚寸前の間柄だった。そのため断念しかける。


 幕府の役人に相談したところ、まずは日本へ行き、十分奉公すれば、呼べるように手配出来るという事で、その言葉を信じた。こうして日本へ渡り、幸田家の料理人となったのだ。


 その後、金万福は王春華を呼び寄せる。めでたく結婚し、日本生まれの子供も誕生。さらに、福建省の故郷から両親や兄弟も日本へ呼び寄せた。 金万福と結婚した王春華も幸田家で働いてる。大坂城三ノ丸から少し離れた所に家を借りていた。


 王春華も日本で暮らす事、約4年。日本語も普通に話す。ある意味、夫の金万福より、流暢な日本語だ。子育てについては、金万福同様に故郷から呼び寄せた母親が面倒みていた。金万福もそうだが、大坂で暮らす2人の身内は幸田家が経営する店にて下働きを行なっている。


 そんな金万福と王春華は夫婦仲も良く、不自由なく暮らしていた。そんなある日、休みという事もあり、2人は新鮮な食材を仕入れ料理を作り始めている。


 夏の岩牡蠣、蛸、卵、豆腐、トマト、オクラなとだ。働きに行ってる家族の帰宅時間を見計らい、大体の下準備だけしておく。帰宅後、一気に調理する。


 こうして出来上がったのは、牡蠣の卵焼き、蛸とオクラの香味油漬け、トマトと卵の炒め物、岩海苔と素麺の餡掛けスープだ。まず牡蠣の卵焼きは低温の湯にて牡蠣を茹でる。


 レアに仕上げ、いわゆる中華鍋へ投入した後、薄く溶いた片栗粉と卵をかき混ぜ加え、半熟で完成だ。味付けは塩味だけで、好みにより黒酢で食べる。


 トマトと卵の炒め物は現代の中国で人気の定番家庭料理だ。蛸とオクラの香味油漬けは幸田家でよく作る蛸のガリシア風を中華風にアレンジしている。


 岩海苔と素麺の餡掛けスープは読んで字の如く。味付けは牡蠣油と豆鼓醤を使った。仕上げの胡麻油が食欲を刺激する単純にして飽きのこない味わいだ。具に豆腐が入っている他、これも卵が掻き玉状態で沢山使われていた。


 大人たちは、輸入された紹興酒を舐めるようにちびちびやりながら、料理へ箸が伸びていく。こうして、金万福一家の食卓は賑やかに続くのであった。

 

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