第369話 チベットとダライ・ラマ

 西暦1596年8月(天正23年7月)。丹羽長秀率いる一行は日本へ帰還するため、3月にアガルタ州都エテルニタスを出発した。大陸公路を東へ進み、古くから河西回廊、天山南路、西域南道が交わる要地、敦煌(沙州・瓜州)へ達する。


 敦煌から蒙古街道(駅があるだけで、ほぼ草原)を東にひた走った。遼西を抜け遼東へ入り、瀋陽にようやく到着。半年近く草原や砂漠などを走っての事である。


 丹羽長秀以外に、羽柴秀吉、前田利家、前田利益(慶次)、最上義光、伊達政宗、森長可、滝川一忠が従っている他、ローマ教皇、イエズス会、フランス、イングランド、スコットランド、ネーデルラント(オランダ)、スウェーデン、ミラノ、ジェノヴァ、シチリア、ナポリ、トルコ、モロッコ、ロシアのシュイスキー派、ペルシャ、ムガル、チベットのゲルク派をはじめとする各宗派など、国や団体からの正式な使節。


 デンマーク・ノルウェー、ブランデンブルク、プファルツ、ザクセン、ヘッセン=カッセル、ヴュルテンベルク、スイス、ヴェネツィア、トスカーナなども非公式ながら非公式使節が加わっている。


 まだ幕府軍占領下にあるイスパニア暫定政府からも100人以上随行していたが使節ではない。あくまで職務上の命令による移動・異動という扱いだ。


 フェリペ2世の治世下で中央集権化による王権強化が推し進められていたが、地方含めて完全な支配体制とは言い難い。地方などは、ある程度分権化され相応の独立性を維持していた。


 また、貴族も依然として影響力を保持。そのためフェリペ2世の退位後、王位は空白となり、形骸化していた国務評議会は終戦後解散させられた。


 国務評議会の解散後、新たに最高政治委員会が設立。行政官僚、フェリペ2世治世下で冷や飯を食っていた中堅貴族、大学教授、商人などが抜擢された。


 また最高政治委員会の下に評議院が設置され、各地からの代表者、貴族、知識人などが任命。将来的に選挙制となり、いずれは独立させる予定だ。


 ただし、独自の軍隊は持てず、駐留や通貨発行権など、根幹は幕府が掌握する。そんな、イスパニアの政治委員、官僚、評議員などが、いわば宗主国である日本へ表敬訪問するため訪れるのだ。一部はそのまま残る。


 無論、約百年に渡って、異民族の王国を攻め滅ぼすなどしてきたイスパニアからすれば屈辱以外の何ものでもない。フランスやイングランドの使節団から離れ、肩身の狭い思いをしている。


 これ以外にも敦煌でチベットの主要宗派や有力地主からほぼ強引に加えさせられた使節団も加わった。現在、チベットは幕府軍と清州や遼西の軍などが駐留しており、拠点と町や駅の整備が行なわれている。


 広大なチベット地域の各地方は各宗派や領主に委ねられていた。農奴が存在しており、幕府軍は将来的に解放する予定だ。チベットの各宗派も政治権力を弱める方針である。


 チベットの有力支配者であったツァン地方のシガツェ (シーガ・サムトゥン・ドゥッペー・ツェモの略)を本拠とするツァントェ王(事実上のチベット王)ニャクパ(西暦1563年即位)は幕府連合軍の侵攻に際して、抵抗するも討死。


 幕府連合軍はさらにラサへ侵攻し、ゲルク派を降伏させた。ゲルク派の権威ダライ・ラマ3世(事実上の初代)は約8年前の西暦1588年に亡くなっている。


 ダライ・ラマ3世が亡くなった後、高僧2人による神託で、転生者は蒙古へ生まれるとされた。その結果、捜索によって見つかったのがユンテン・ギャツォなる人物である。


 この人物はかつて蒙古を支配したトメト部アルタン・ハーンの曾孫だ。両親ともに蒙古人のため、チベット人ではない。ダライ・ラマ3世の転生だと認定された後も蒙古の地で教育されている。


 両親がダライ・ラマ3世の弟子であり、有力な後ろ盾だった事を考えれば極めて政治的な産物といえよう。そもそもダライ・ラマという称号はアルタン・ハーンがダライ・ラマ3世ことスーナム・ギャツォへ贈ったものだ。ダライはモンゴル語で大海を意味する。


 史実において、ユンテン・ギャツォがダライ・ラマ4世として認定されたのは西暦1592年でチベットへ立ったのは1599年。つまり、1596年時点において、蒙古で居住していた。


 しかし、改変された歴史では丹羽長秀率いる幕府軍がトメト部を攻めている。この時、トメト部は壊滅し、ユンテン・ギャツォの父セチュン・チュークルは戦死。


 ユンテン・ギャツォは囚われの身となり、母親共々行方不明となった。実際のところ母親は山西商人によって連れ去られ、妓婦として遊郭へ売られている。また、ユンテン・ギャツォは漢人農家に引き取られた(売られた)。


 こうしてダライ・ラマ4世は幻の存在となってしまう。チベットへ侵攻した幕府連合軍はゲルク派のラサにおける三大寺院であるデンプン寺、ガンデン寺、セラ寺の座主を屈服させた。


 実のところ、この時代はまだダライ・ラマはチベット仏教の最高権威ではない。最高権威となるのは西暦1642年以降の事だ。そのため、1596年時点では先に挙げた三大寺院座主の方が格上である。


 さらに、シガツェを陥落させた際、当地にあるタシルンポ寺座主のパンチェン・ラマ4世(事実上の初代)ことロサン・チューギェルも屈服させていた。


 ようするにチベットにおいて古代から転生が一般的であったというわけではない。1596年時点ではダライ・ラマとパンチェン・ラマの双方、始まったばかりだ。


 チベットには四大宗派とされるゲルク派、カギュ派、ニンマ派、サキャ派がある。このうち、カギュ派が14世紀に転生(化身ラマ)を取り入れた。ゲルク派が取り入れたのは16世紀中頃だ。


 背景としては、資質より有力者による世襲などが行なわれた結果とされている(そのための対策)。しかし、ダライ・ラマ3世を見ても蒙古の軍事的後ろ盾で成立したが、亡くなった途端、乗っ取られたような形にしか見えない。


 なんとも皮肉な話だ。ダライ・ラマ4世は、シガツェの勢力(ゲルク派も含む)に攻められて亡くなっている。作中においても、ゲルク派がトメト部の力で勢力を拡大したため、大変な混乱となっていた。


 カギュ派は幕府連合軍に最も協力的であり、ゲルク派の徹底殲滅を申し出ている。無論、受け入れはしないが、ゲルク派は失墜。これまで抑え込まれていたカギュ派が勢いを増していた。実際、幕府連合軍もカギュ派へ援助などを行ない、あえて増長させている。


 まだまだ、チベットの混迷は続きそうであった。

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