第368話 夏の洋風料理とアブラギータ
普段、淡路島にある幸田家のファームでは3人ほど欧州人が働いていた。主にハム類の生産を行なうアブラギータ・フトッテーラ(ミラノ公国出身)、チーズ職人(トスカーナ大公国出身)、さらにソーセージ職人のドイツ人(神聖ローマ帝国領内出身)たちである。
この他にも豚の品種改良やワインの生産を行っている河内のファームにはフランス人とイスパニア人、さらには幸田家が経営するパン屋で働くイスパニア人なども居た。6人ともイスパニアへ依頼し、送ってもらった者たちである。
ファームの職人たちを取りまとめてるのはアブラギータだ。元々、ミラノの南にあるパビア大学の哲学部出身であり、インテリという側面を持ち合わせている。
食品の発酵や熟成に興味を抱きハム・チーズ・パンなどの職人へ弟子入りした。その後、独自の研究をしていたが、何事にも金が必要だ。一時、メディチ家の援助を受けていた事もある。
大の女好きのためメディチ家の女性奉公人へちょっかいを出し、援助は打ち切り。そして妻にも逃げられ、途方に暮れていた時、イスパニアの商船から思いがけない話が持ちかけられた。
遥か東の果てにあるジパングへ行く話だ。提示された条件に魅せられたアブラギータは一大決心で日本行きを決意。チーズ職人はフィレンツェに居る時、縁のあった者で、アブラギータが呼び掛け、連れてきた。
ソーセージ職人のドイツ人は神聖ローマ帝国領内出身だが、母親はミラノ公国出身のため、イタリア語も話せる。さらに、インテリであるアブラギータは長い船旅において、スペイン語やフランス語も日常会話程度、習得していた。
幸田家にはラテン語の書籍も沢山あるため、大坂へ行った時、いつも何冊か借りてくる。アブラギータの想像を遥かに超えて幸田家は裕福かつ絶大な権力を有していた。
思うまま研究の予算も出してくれる。アブラギータにとっては天国だ。ある日、大坂から屋敷へ来るようお達しがあった。アブラギータは女中の顔を思い浮かべながら浮かれ気分で大坂へ向かう。無事、幸田家に到着し、お茶を飲んでいると幸田広之が現れた。
「そなたに話しておきたい事があってのぉ」
「殿様、何でございましょうか」
「幕府が欧州にも進出した事は知っておろう。下々には伏せていたが、イスパニア・ハプスブルク家と幕府軍は戦争を行なった。フランス、イングランド、ネーデルラント(オランダ)、トルコ、モロッコなどの六ヶ国による同盟軍は戦争に勝利し、フェリペ2世は捉えられ、イスパニアは幕府占領下となっている」
「おお〜なんてこった。殿様、ミラノ公国はどうなったてござ〜るか」
「独立させ、共和国となった。無体な事はしておらぬ。ナポリやシチリアも同様であるそうじゃ。さて、そなたは日本へ来る前、トスカーナ大公国に住んでおり、メディチ家と縁があったな」
「さようでござ〜る」
「実は秋頃、メディチ家のマリア姫が訪れる。それだけではない。ローマ教皇、イエズス会、フランス、イングランド、スコットランド、ネーデルラント、スウェーデン、ミラノ、ジェノヴァ、シチリア、ナポリ、トルコ、モロッコ、ロシア(シュイスキー派)などから公式な使節団が来る。さらに、デンマーク・ノルウェー、ブランデンブルク、プファルツ、ザクセン、ヘッセン=カッセル、ヴュルテンベルク、スイス、ヴェネツィア、トスカーナなどは非公式の使節団を送ってくるそうじゃ。恐らく、遼西州あたりを瀋陽へ向かっているところであろう」
「大変な量のハム、ソーセージ、チーズ、ワイン、ビールが必要という事でござ〜る」
「察しが良いのぉ。まあ、まだ急ぐ話でもない。こたびは、午餐や晩餐、あるいは申の刻茶でトマトを出す所存。そこで、試してみたい」
「あれは夏が旬では……」
「まあ、そうであるな。ただし、寒いところならば晩秋くらいまでは間に合う。摂津の有馬で作らせているトマトがあってのぉ。それを使ってみようと思うのじゃ」
いつもは陽気なアブラギータであったが、まだ出回って間もないというのに品種や産地の違い、食べ方などの進行具合へ少なからず驚くのだった。
普通はあれを見て食べようとは思わない。どう見ても観賞用だ。しかし、ソースやケチャップを始め加工や利用方法がほぼ完成の域へ達している。
イタリアの気候を考えれば春夏は南部、秋は北部などに収穫出来るはずだ。夏は主にソース、冬はスープなどにすれば、流行るかも知れないと感じるのだった。
そして、この日の夕餉にはアブラギータも同席を許されたのである。以前にもトマト料理ばかり食べさせられた事があるため、心の用意は万全だ。
この日、広之はある物を用意していた。それはトルコのサルチャだ。簡単にいえばトマトで作った味噌󠄀である。まず切って袋に入れ数日かけて水分を出す。
それを潰し、ペースト状になるまで煮詰める。煮詰めた後、数日間天日干しや、袋に入れて放置すると発酵が進む。結果、冬場でも保存が効く。
無論、昔は味より保存性を優先させたはずなので、硬くて、塩分も強かったはずだ。広之はハードとソフトの両タイプ用意している。
さて、今回用意した料理はソリャンカ、豚肉のカスレ、ズッキーニのサンドイッチ、豚脛肉のトマト煮、揚げたラビオリのトマトソース添えなどが並ぶ。
ソリャンカはドイツ料理でソーセージや肉の切れ端などをコンソメスープで煮込み、トマトペーストと胡瓜の酢漬けを入れたものだ。ボルシチに似た料理である。
カスレはフランスの煮込み料理。ズッキーニのサンドイッチにはマヨネーズでなく、ソフトなサルチャを使っている。基本、どの料理もトマトを使い、なおかつサルチャが隠し味となっていた。
まず、ワインを軽く飲むアブラギータであったが、年々レベルアップしている。今回飲んだものはイタリアより明らかに美味い。軽く衝撃を受ける。
五徳や浅井三姉妹なども揃っているが、やはり食い慣れないトマト料理……。少し警戒気味だが、サルチャで旨味を増している。味の骨格もくっきりしていた。
「左衛門殿、赤いのはなかなか慣れませぬが、これまでと違いますな」
「流石は五徳殿。トマトで作った味噌を加えております」
「トマトで味噌が作れるとは……。それにしても美味でごさいますなぁ」
「それは実に結構。さて、アブラギータよ、味の方はいかがじゃ」
「前より、さらに美味しいで〜す。味が深くなっており、トマトの味噌素晴らしいでござ〜る」
「さようか。ならば、メディチ家の姫にも出すとしよう。もし、口に合わなかったら、そなたの咎となるが良いな」
「おお、私国へ帰れませ〜ん」
「何をいうておる。国へ帰るつもりなどもとより無かろうが」
この後も普通のチーズや生ハムなどが出され、皆してワインを飲み干すのであった。
アブラギータ→第219話、第218話、第198話、第124話、第102話、第96話参照
マリア・デ・メディチ→第352話、第342話、第327話、第312話参照
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