第350話 脇坂安治と欧州外交④
ラマダンも終わりに近づいていた。現在、ヒジュラ暦の第9月(ラマダン)であり、それが終わると第10月(シャウワール)となる。第10月の1日はイスラム教の祝日だが、ラマダンの終了を祝うためのものだ。
イード・アル=フィトルと呼ばれ、重要な行事であり、3日間行なわれる。第12月に行なわれるイード・アル=アドハー(犠牲祭。こちらは4日間)と並ぶイスラム教徒にとって重要な行事だ。
「殿、今年のラマダン祭り(勝手にそう呼んでいる前提)ですが、昨年と同じく有力なウラマーの名で行う事、手筈整えております」
「それで良かろう。イスラム教では司祭・神官・僧侶の類いは居らぬからな。我らと昵懇なウラマーを立てる事が寛容。我らは異教徒ゆえ、良き隣人であれば良い。あまり目立つのは具合悪かろう。慎みというのは大事じゃ」
幕府の指示もあるが、安治たちはエジプトにおいて、地域共同体の一翼を担うため努力してきた。オスマン朝より独自のミレット(宗教自治体)と認定されジズヤ(人頭税)を納めつつ、ワクフへも間接的に多大な寄付など、行っている。
灌漑施設、モスク、マドラサ、病院院、浴場、孤児院など、様々な方面へ寄付・援助・協力し、異教徒ではあっても地域社会の一員として認められていた。
また、織田幕府の友好国であるジョホールやバンテンなどからの申し出により、多数の国民(主に王族や重臣の関係者)がエジプトを訪れ、マドラサで学んでいる。
「羊と牛は十分備えてあります。米、麦、豆、菜物、果実、茶、砂糖、或いは貧しき者への衣服や靴なども万端」
「我らと昵懇であるウラマーやワクフを通すのは当然として、雇っているムスリムを表にせねばならぬ。日本人、コプト、ユダヤなどは裏で力を尽くさせよ。ラマダン祭りの間も酒や煙草は禁じる旨、改めて申し伝えよ」
そうはいっても、カイロから貧しい者は急速に姿を消しつつある。仕事にあぶれた者は運河開削、キャラバン、港湾荷役、河川運搬、工房などでの仕事が与えられた。
オスマン朝軍人の領地から逃げ出してきた農民も密かにナイル川奥地の開拓団へ紛れ込ませている。体の不自由な人たちの施設や病院の運営もしているため、民衆はマムルーク軍人へ愛想を尽かしつつあった。
また、民衆はオスマン朝トルコによる度重なる軍事遠征で重い負担を強いられているため、安治たちへの評価と期待は増すばかりだ。この時代、どの国でも生産性が乏しく、維持費の膨大な馬は高価になってしまう。
安治たちが数年の間で買い集めた馬と駱駝の数は凄まじく、他には馬が出回らない状態だ。大半を安治たちが独占している。また、大量の銃や大砲で武装しており、マムルーク軍人たちにとっては逆らえない存在だ。
彼らにとってはオスマン朝トルコから課せられる軍事負担は増すばかりであり、安治たちのせいで民衆への求心力は下がる一方。エジプトにはオスマン朝トルコ版の奴隷軍人であるカプクルの精鋭イェニチェリが駐屯している。
これも安治率いる幕府軍には敵わない。不満を募らせるマムルーク軍人とオスマン朝皇帝へ忠誠を誓うイェニチェリは緊張関係にある。つまり、幕府勢力が第3極として漁夫の利を得る形だ。
さらにオスマン朝トルコへフリントロック式ライフルマスケット(紙製薬莢ミニエー弾を使う)やカルネード砲の供与が開始された。しかし、フランスの他、ヴェネツィア経由で神聖ローマ帝国へも供与されており、本年度中にはハンガリー戦線へライフルマスケットが投入されるのは確定的だ。
これにより、ただでさえ泥沼となっているトルコとオーストリア・ハプスブルク家の戦いは一層凄惨となる。ちなみに、自由欧州同盟(日本、フランス、トルコ、モロッコ、イングランド、ネーデルラント)においては特許の国際協定が結ばれていた。
日本の特許法に準じたもので期間は20年間となる。日本では既に特許法や種子法も成立していた。フリントロック、紙製薬莢ミニエー弾、銃剣、ライフリング、カロネード砲は特許となり、日本から買うかライセンス生産する他ない。
当初、フランスとトルコへ無償供与したが、一定数以上は有償供与だ。両国に加え、イングランドやネーデルラント(オランダ)も大量発注しており、それだけでも莫大な利益となる。どこの国も財政は火の車だ。
こうして、イスパニア戦争以降、落ち着きつつも、着実に第二幕へ向かいつつあった。
◆イード・アル=アドハー
イブラヒム(アブラハム)が息子イスマイル(イシュマエル)をアッラーフへの犠牲として捧げようとした事を記念する日。ヒジュラ暦の第12月(ズー・アル=ヒッジャ。巡礼月)10日から4日間に渡って行なわれる。巡礼(ハッジ)においてアラファト山を降りる翌日、つまりハッジの最終日。余裕のある者は感謝を込めて家畜を生贄として供出する。そのため、貧しい者でも宴会への参加が可能。
◆ウラマー
イスラム教ではモスクがあっても専従者は居ない。平等を旨とするからだ。それどころ奉行所にあたる機関や人物も居ない。ある意味、究極の民主主義であり共同体ともいえる。それでも指導や管理する人は必要だ。主にウラマーといわれる人たちが担う。マドラサ(神学校)で法学を修めた知識人が多い。カーディーといわれる裁判官はウラマーより選ばれ、ワクフの管理も行う。ワクフは共同体を維持すための寄付を指す。サダカ・ザカート(喜捨)に基づく寄付がワクワクとなる。現代のイスラム教国家にもワクフは存在し、実質的な地方税だが、本質的には違う。モスク、マドラサ、病院、水飲み場、公衆便所、キャラバンサライ(隊商宿)、弱者救済、ジハード従事者への支援など、これらはワクフで運営される。西洋的な価値観でイスラム教社会の異常性ばかり強調されるが、ウラマーやワクフなどは江戸時代の地域共同帯にも似ていよう。同じ長屋で助け合い行きていくとか、皆で井戸を管理したり、糞尿の売り上げを何かへあてような社会の在り方は共通項も多い。
◆マムルーク
本来はトルコ・テュルク系、スラブ系、クルド系などの奴隷。エジプトにおいては奴隷軍人を指す。エジプトのマムルーク朝は彼らによって統治化されていた。マムルーク朝がオスマン朝トルコによって滅ぼされた後も従ったマムルークは支配者層として君臨している。
マムルーク→第280話参照
自由欧州同盟→第313話参照
フリントロック式ライフルマスケット→第286話、第279話参照
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