第349話 脇坂安治と欧州外交③

 ロートシルト商会の幹部が帰った後、脇坂安治は色々考えていた。先ずはエルサレムの件だ。トルコはハプスブルク家やポルトガルとは激しく戦ってきた。


 しかし、異教徒との宗教戦争かといえばそうでもない。フランスとは盟友関係であるし、領内のユダヤ教徒、エジプトのコプト(正教会)、ギリシャ正教会などには自治を認めている。


 つまり、オスマン朝トルコ時代はイスラム教を是とする国であっても、支配領域においては宗教に極めて寛容な国家だ。領内でキリスト教徒やユダヤ人も比較的平穏に暮らしている。


 一方、イスパニアやポルガルでは異端審問が吹き荒れ、ユダヤ教徒やイスラム教徒は弾圧され、改宗しない者は追放という過酷さだ。現代のイメージとは全く異なる。


 近代におけるパレスチナ問題も原因を作ったのは主犯がイギリスで遠因はフランスといえるだろう。よくある誤解だが、パレスチナ地域でユダヤ人は住んでいなかったのに、イギリスのせいで各地から雪崩込んだという認識は根強い。


 元からユダヤ人どころか、キリスト教徒(ギリシャ正教徒や他の東方キリスト教の各派)なども問題なく住んでいた。イスラム教徒との間で軋轢が増したのはイギリスの統治下においてである。


 決してシオニズム運動で雪崩込んだため、先住者のアラブ系住民(パレスチナ人)が圧迫されたのではなく、基本的には共存していた。


 安治はバウアー商会の幹部へキリスト教内部の確執でパレスチナにおけるキリスト教徒自治区の扱いが拗れているような説明をしたが、実際は違う。


 幕府はパレスチナへ本格的な援助と進出を意図していたのだ。これも幕府からの指示である。キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒たちによる聖地エルサレム巡礼で確執や衝突が起きないよう配慮しつつ、土地を潤さなけれはならない。


 史実における確執は、ユダヤ資本家などにより麦栽培の増産が行われた事も主要原因だ。しかし、現在のパレスチナ地域はエルサレムやヤッファ(現テルアビブ)、ガザ、アッコ(アッカ)にはそれなりに住んではいる。


 しかし、砂漠や半乾燥地帯には殆ど居らず、牧畜や遊牧民が細々と行われている程度だ。農業はガリラヤ湖やヨルダン川の周辺、沿岸部など限られており、大半はアラブ系によるものである。


 つまりは、小規模の農業、牧畜・遊牧、貿易、巡礼などによって、パレスチナ地域は成り立っていた。安治たちがエジプトを拠点として以降、パレスチナの港湾、特にエルサレムの外港であるヤッファの躍進は目覚ましい。


 この港から現代でいうところのヨルダン、シリア、イラク、サウジアラビアなどへ東方の産物が雪崩込んでいる。そのため各地からキャラバンが集まり、大変な賑わいを見せている。


 商業的には繁盛しているが、補給などの需要増加のため、食料の価格が高騰。そのため、幕府御用船はエジプトより大量の農産物を運搬するなど、価格安定に留意していた。


 ラマダン期間中に幕府御用船がパレスチナ地域へ入港する場合、日本人、キリスト教徒、ユダヤ教徒などは日中の食事も気を使う。基本、匂いのする食事はしない。


 そのため、オートミール、乳製品、デーツなどが中心だ。夜になればムスリムの港湾荷役夫やキャラバンへ食事を振る舞ったり、そのへんは余念がない。


 さらに、乾燥地帯での農業を推進する準備を整えていた。麦、オリーブ、葡萄、オレンジなどが同地域における主要作物だが、豆なども窒素固定しやすい作物であり、栽培を促し、土地の疲弊に繋がる小麦栽培は控えさせたい。


 そのため、幕府はエジプト産の麦を安値で流し、オリーブ・葡萄・オレンジなどを買い付けている。また、幕府はこの地にトマト栽培も持ち込む予定であった。


 この日の夕食に安治はトマトの料理を作らせた。日本より送られてきたトマト料理に関する書籍を参考にさせている。


「さて、今宵は当地にあったトマトの馳走じゃな」


「ヴィーノ(ワイン)と合いそうな馳走が揃っております」


 この日出されたのは、ナイル川で取れた海老やナイルパーチを使ったトムヤムクン風スープ、トマトソースのドリア、トマトソースのピザ、ナイルパーチのトマト煮、ルビア(モロッコ豆煮込料理)、焼きトマトのオリーブオイル和えなどだ。


「何れも肉は使っておらぬから。ユダヤ人やムスリムであっても食せるのぉ。この汁はいささか辛いが、味付けはアラビア人やキリシタンも好みそうじゃ。豆の飯も実に美味である」 


「実に香りが良いですなぁ」


 安治が豆の飯の呼んでいるのは肉を使わず豆使ったドリアの事である。とろとろになるまで煮込んだものと、軽く茹でたものを使い、バランスがいい。


「然様、慣れたらトマトを煮込んだ香りは堪らぬ。味わいも実に奥行きが深い。肉、魚、菜物(野菜)、パンなど何にでも合う」


「日本より送られてきた『トマト百珍』によればハヤシアロス(アロスはスペイン語やポルトガル語で米の事)なる馳走もござります(ハヤシライスです)。トマトで肉を煮込むのですが……」


「それも良いな。ハヤシアロスか、覚えておこう」


 安治はピザを口へ放り込むとワインで流し込んだ。



◆聖地エルサレム

西洋の価値観で三大宗教(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教)などといわれる。その聖地がエルサレムだ。先ずキリスト教にとってはイエス・キリストが過ごし、十字架に掛けられ、そして復活した場所である。イエス・キリストが磔刑に処され、埋葬された後、復活した聖墳墓教会(復活教会)、ペテロが3度否認した鶏鳴教会、イエス・キリストが生まれた降誕教会、イエス・キリストが昇天した昇天教会などがある。無論、何れも、そのような伝承の残る地に教会が建てられた。続いてイスラム教においてはメッカとメディナに続く第三の聖地だ。預言者ムハンマドがエルサレムで神からの言葉を授かったり、天に昇ったとされているのだ。アル=アクサー・モスクや岩のドームがある。最後にユダヤ教だが、かつてソロモン神殿や第二神殿があった。有名な嘆きの壁は、紀元前20年頃にヘロデ大王が改築した神殿の西壁の残骸である。


◆キャラバン

ペルシア語のカールヴァーンが由来とされる。日本語では隊商とも言う。アラビア語由来の単語としてはカーフィラなどと呼ばれる。駱駝は起伏の激しい地形に弱く、平坦な砂漠などは強い。いざとなれば速い上、何日も水を飲まなくても耐えられる。砂漠における運搬用の動物として馬より上だ。無論、単独で平地を商品満載で移動してれば盗賊などの標的となる。そのため集団化するのは必然。常に臨戦態勢であり、移動中や宿営は軍隊並みの規律が必要となる。人が多い程、安全性は高まるが、運搬出来る量は減ってしまう。また駱駝ではなく、起伏の激しい地形に強いラバのキャラバンも存在する。



駱駝→第203話参照


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