第348話 脇坂安治と欧州外交②

 ラマダンの続く中、脇坂安治は大使公邸でロートシルト商会の幹部と面会していた。ロートシルト商会を安治の援助で設立したバウアーは名をロートシルトに改めており、昨年以来飛ぶ鳥を落とす勢いである。


 現在、ロートシルトはフランス、イングランド、神聖ローマ帝国を往来しており、代理人が参上していた。ロートシルトは英語読みでロスチャイルド。つまり、有名な一族の先祖が歴史とは違う形で表舞台へ登場している。


 改変された歴史において、ロートシルトは安治の経済顧問となり、金融方面を担当していた。幕府のお墨付きがあるためユダヤ人差別の強い地域でも自由に出入り出来る。


 ロートシルトは羽根が生えたかのような勢いで各地を巡り、支店や代理店、提携など、縦横無尽に事業拡大へ邁進していた。安治は幕府からの指示により、直接的な投資や融資は控え、ロートシルトや他の幕府御用銀行や商人を経由させている。


 神聖ローマ帝国内の諸侯などはオーストリア・ハプスブルク家の目を気にしつつ出所が何処か十分知りながら巨額の資金へ群がっていた。


 また、イスパニア王国の各国銀行や商人からの巨額負債は全て幕府が肩代わりしている。債権者にとっては破綻寸前から救われた上、幕府から資金援助がなされた。


 この結果、イスパニアに対して、幕府が最大の債権者となっている。決して、イスパニアを助けるため金を恵んだわけではない。助かったのは銀行や商人であり、イスパニアは世界最強国家へ負債者として対峙する羽目となった。


 企業でいえば巨額負債を抱え倒産したに等しい。現在の状況は会社更生法を適用されたような形だ。イスパニアの負債は免除されておらず、国家予算は幕府の承認が必要となり、非常に厳しい。


 撃沈されず所有していた艦船、銃、大砲、軍馬、城、要塞、美術品などは全て差し押さえられた。ただし、海外の資産は事実上の賠償金扱いで、負債の代償とはならない。


 その上、幕府と安全保障条約を締結させられ、軍隊も解散している。さらに、税収の大半は負債への金利として消えるわけで、もはや国家の体をなしていない。


 また、イベリカ(イベリアのイスパニア語読み)国際軍事裁判が行われており、フェリペ2世はA級戦犯として被告人となっている。初めから有罪ありきの茶番劇に過ぎないが、イスパニア再建へ向け、フェリペ2世は犯罪者として、国民から怨嗟されなければならない。


 責めるめるばかりではなく、実体経済の立ち遅れたイスパニアをある程度発展させるため、幕府は迂回しつつ、資金を投入しており、景気はさほど悪くもなく、唯一の救いだ。


 隣国のポルトガルはイングランドが支配しており、イスパニアより苛烈な対応となっている。これも計算の内であり、イスパニア国民は惨めなポルトガルと見比べ、自国はまだましであり、幕府の戦後統治へ逆らう意識は低い。


 今年も冬の間、貿易風や海流に乗り、幕御用船が膨大な黄金と商品を満載し、チェンナイ(マドラス)経由でスエズへ来航した。


「脇坂様、今年の積み荷も欧州各国へ出荷されましたが、あまりに膨大な香辛料は市場でだぶつき、下落の一途を辿っております。価格の調整はせぬとの仰せですが、今や日本の独占状態なれば、如何様にもなりましょう」


「最もだ。されど、幕府は商人の如くただ儲かれば良いとは考えておらぬ。東方では何処へ行っても香辛料は安い。幕府は公定価格を定め、買取価格を大幅に引き上げた。高く買取る代わりに、幕府の独占となる契約も結んでおる。現在、市場への流通量が増えた結果、欧州における市場価格は大幅に下落。つまり香辛料は儲けが薄く、割の合わない商品となりつつある」


「仰る通りでございます。供給を減らして価格を倍にすれば、運ぶ量も少なくなりましょう」


「無論、承知しておる。欧州の船をあまり東方に入れたくはないのじゃ。そのため、香料貿易の旨味を少なくせねばなるまい。東方へ来ても茶・砂糖・煙草も好きに買えぬ。磁器や生糸も然り。そもそも、我らの与えた金で買う他あるまい。欧州から買うべき商品は実に少ない。今は船、弾薬、衣服、靴、馬など買い取っておるが、時期に必要無くなる。欧州は永遠に貿易赤字を出し続ける事となろう。今は景気が良い。しかし、そのうち不景気となり、賃金や物の値は下が。全て見越しての事」


「つまりは欧州各国や商人が計算上の見込み違いとなるような行動を極力省きながら、景気の推移含め、幕府の掌中としたいという事ですな」


「流石はロートシルト商会の大番頭じゃ。察しが良い。景気や市場というのは常に動く。逆に申せば動かす事も出来よう。されど、匙加減を誤れば命取りとなろう。そうならぬためには情報が大事でな。欧州の貴族に金を貸し付けているのも、そのためじゃ。領地の収穫量を担保にするという名目で、検地も出来る。領民が担保だといえば人数や戸数も調べ、報告してくるしのぉ。麦を買い占めて値を上げるといった程度の話ではない」


「承知しました。それから、エルサレムの件は進んでおりますでしょうか」


「フランスがローマ教皇へ配慮する形でカトリックやプロテスタントの別なく聖地へ巡礼出来るよう煮詰めておるが、細かいところで揉めておる」


「トルコが何か……」


「いやトルコでなくカトリック、プロテスタント、正教会によるものだ。簡単には収まらないであろうな。無論、これまでとおりエルサレムにおける、ミッレト(宗教自治体)はそのままじゃ。キリスト教徒のエルサレムへの巡礼についても色々決め直さなければなるまい。幕府の船でエジプトを経由して運べば儲かるのは目に見えている。それこそメッカ巡礼以上であろう。そのへんの綱引きが厄介じゃ」


 そういうと安治は地球儀を回しながら溜め息をつくのであった。



◆ロスチャイルド

ロスチャイルドは英語読みであり、発祥地の言語であるドイツ語読みはロートシルト。また関係の深いフランス語読みならばロチルドとなる。現在、作中ではロートシルトだが、恐らく世界的にロスチャイルドとなる事は無さそうだ。ロスチャイルドといえば陰謀論でお馴染みだが、基本的には銀行業を家業としており、現代ではワインの醸造でも知られる。資産1京円で世界一の大富豪などと揶揄されるが、実情はロスチャイルド一族が経営支配している金融グループは名門というだけで、さしたる規模ではない。そもそも会社の株式時価総額や資産がだれだけあろうと法を超えて自由に動かせるはずもなく、ましてや一族が株の所有や議決権を無視する形で、投資家や司法の目を掻い潜り経営陣を完全に支配出来るというのは非現実的といえる。渋沢栄一や岩崎弥太郎の子孫が日本を支配しているというくらい実態に乏しく、陰謀論の典型であろう。さて、このロスチャイルドであるが、神聖ローマ帝国ヘッセン=カッセル方伯領フランクフルト自由都市の出身で、いわゆる宮廷ユダヤ人だったマイアー・アムシェル・ロートシルトが銀行業で一族興隆の祖を築く。マイアーは息子をウィーン、パリ、ロンドン、ナポリなどに派遣。やがて貴族階級に達し、一族は栄華を極めた。マイアーは18世紀生まれの人物だが、ロスチャイルド=赤い盾の由来は、西暦1567年にイサク・エルチャナン・バカラックが建てた家に発する。作中に登場するバウアー・ロートシルトはイサク・エルチャナン・バカラックの子息か血族である可能性が高い。


◆エルサレムの管理権

エルサレムは西暦1535年にフランスとトルコが対ハプスブルク帝国の同盟を結んだ際、フランスがキリスト教徒地区の管理権を得た。しかし、フランス革命の際、管理権者であるルイ16世が処刑された事により、ギリシア正教徒がロシアの支持を得て管理権を得る。その後、フランスは1852年、トルコ政府に対し、管理権をギリシア正教徒からカトリックの司祭に与えるよう要求し、トルコは承服。これがクリミア戦争の発端となる。



ロートシルト(バウアー)→第258話参照

ユダヤ人→第203話参照


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