第347話 脇坂安治と欧州外交①

 西暦1596年5月。織田幕府欧州全権代表の脇坂安治は強い陽射しに晒されている。エジプトのカイロを拠点とする安治は普請の視察に追われていた。


 そうはいっても西暦では5月だが、ヒジュラ暦(イスラム暦)においては9月、つまりラマダン月のため、ムスリム(イスラム教徒)たちは日の出から日没は断食を行っている。今年は西暦だと4月29日から5月28日までラマダンの期間だ。


 ラマダン期間中のため、荷役運搬や重労働は控えさせている(必要な場合はコプトなどキリスト教徒主体)。そのため、普請の多くは止まっており、安治はラマダン明けの再開後に向けた確認を行なっていた。


 ラマダン期間前に1ヶ月間暮らせるだけの手当をボーナス的な形で支給している。それでも働きたい者には屋内で簡単な作業をさせていた。


 日没後の食事を雇っている者とその家族へ振る舞うなど余念がない。関係のない困窮者へも振施す。また、ラマダンとは関係ないが、メッカへの巡礼(ハッジ。ヒジュラ暦12月)を行う雇用者に特別な便宜がなされたりしている。


 在地主義の安治も日中の屋外行動時などは最低限水や茶などは飲んでいるが、大使館や商館、あるいは公邸に居る時は断食していた。


 農家の収入を増やし、労働者を好待遇で雇い、施しや寄附も十分行っているため、安治の人気は凄まじい。もはやカイロで安治の名を知らないエジプト人は皆無といっても差し支えない程だ。


 そんな安治だが、目下最も注力しているのはカイロとスエズを結ぶ運河の開通である。無論、現代のスエズ運河みたいに大きな船は運航出来ない。


 この運河が完成すれば、紅海から運ばれる荷物の大量運搬も容易となる。そして、ナイル川の水を運河沿いの用水路へ引き込み、オアシスも作ってしまう。広大な土地を緑地化するという壮大な計画だ。


 また、運河が開通すればメッカ巡礼の旅路は格段に楽である。あまりに楽すぎても本来の意義を失うが、自前の駱駝でメッカまで行ける富裕層以外にも、運河やスエズから船を使えば庶民や体力の無い者も幾分容易だ。


 ただ、メッカ巡礼は江戸時代のお伊勢参りどころの規模ではないため、巡礼ルートには莫大な利益がもたらされる。通行税・通行料なども発生するため、既得権益を侵しかねない。


 大規模なキャラバン隊なども組まれるわけで、道中の安全を図るため、土地の部族への謝礼、警護や諸々、経費は必要となろう。また、お伊勢参りや大名行列同様、宿場は潤う。つまりは、基幹産業のひとつである。



 メッカへの主要中継地はカイロ、バグダッド、ダマスカスなどだ。カイロは巡礼の時期ともなれば人で溢れる。それらの多くは、スエズ方面からシナイ半島を横断。アカバ辺りからメディナを経由してメッカへ向かうのが一般的だ。


 そうなると、カイロからシナイ半島横断のルートにおける権益保持者は打撃を受ける。なので、運河労働者をそのまま緑地化へ回し、農民にしてしまう。こうして、足場を十分固めた後、徐々にメッカ巡礼へ食い込む予定だ。


 無論、これらは幕府からの指示であり、アラブ系ムスリムへ可能な限り便宜を図る方針による。また、エジプトの農民、運河沿いの住民、雇用している労働者を潜在的な予備軍とするためでもあった。


 オスマン朝トルコの目が届きにくいナイル川中上流域にも着々と展開している。既にビクトリア湖へ達しており、コンゴ、ウガンダへも浸透するなど、アフリカ内陸方面の開拓も進めていた。ちなみに現在、安治がエジプトやナイル川流域で推し進めている開発は以下の通りである。



カイロ・スエズ運河

カイロ・スエズ運河流域緑地化

砂糖黍プランテーション開発と製糖

珈琲豆プランテーション開発

珈琲用の麻織フィルターの製造

珈琲豆の砂糖を使った焙煎製造

エチオピア高地で茶の木を植える

とうもろこしプランテーション開発

とうもろこしを使った酒の製造(南米のチチャ)

水稲のプランテーション開発

じゃがいものプランテーション開発

キャッサバのプランテーション開発

綿花のプランテーション開発と綿糸製造

養鶏場の運営

練乳の製造



 これらを推し進めているが、プランテーション開発において自前の土地は殆どなく、農民へ農機具や種を与え収穫させる。それを独占的に買い付けており、奴隷などを前提としていない。


 開削している運河を眺めていた安治は張られた幕に入った。砂漠では日陰が無いため、日光を遮らないと体力は消耗していく。


「運河も掘り始めて8ヶ月近い。されど、まだ半分にも満たぬ。急がば回れ、というが、回ってばかりじゃ。ラマダンが明けても、しばらくすれば巡礼。そしてナイル川から水が流れ込む……」


「まあ何れは出来ましょう。ところで殿、近頃マムルーク(トルコ系軍人)たちは、ワーリー(総督)を益々軽んじており、いつ大きな反乱が起きるやも知れませぬな」


「その件は、知らぬ振りして、マムルークを増長させよと幕府よりお達しじゃ。されど、近頃増長も甚だしい……。我らにも横柄であるな。未だに、重装騎兵と弓だしのぉ。我らと戦えば、直ぐにあの世行きじゃろ。そこを我慢しつつ、トルコへ恨みを抱かせねばならぬ。勝負どころはその時であろう。トルコに鎮圧する余力は無い。我らがマムルークを叩き、奴らを恨むエジプトの民へくれてやる。エチオピアのポルトガル人同様嬲り殺しにされるじゃろ。その後、マムルークの治める土地は頂く。それまで大量の馬は隠しておかねばならぬぞ」


「はっ、馬について抜かりはございませぬ。エチオピアでオロモ族から、大量の馬を奪い取り、フンジやダルフールで育てております」


「フンジの西にある国中草むらというダルフールじゃが、あれもムスリムなれば、トルコと結びつかれると面倒というもの。幸いフンジも形だけのムスリム。それに隠れ、ダルフールの主要な族長は皆潰した」


「逆らう者は大方消えましたので、恭順した部族は相応に遇しております。また、駱駝も買い集めておりますゆえ、首尾は抜かり無し」


「馬や駱駝はいくらあってもよい。しかし、馬といえば丹羽殿たちは、既にサマルカンドは越えておるはずじゃな」


「里数からすれば然様か、と。秋頃、丹羽殿たちが内地へ戻れば、また動きあるやも知れませぬな」


「まあ、そうなろう。我らはこの地で指示された事を全て抜かりなく果たすまでじゃ」


 そういうと安治はにこやかに笑った。



◆ラマダン

ムスリムの断食で知られるが、本来はヒジュラ暦(太陰暦)で9月を指す。アラビア語で猛暑といった意味合いだ。この月は日の出から日没までの間、断食(サウム)を行うのがムスリムの義務となっている。食事だけでなく水も絶たねばならない。預言者ムハンマドへコーランが啓示されたのがヒジュラ暦9月であり、ムスリムにとっては重要な月だ。旅行者や重労働者が免除。しかし、後でやりなおす事が求められる。


◆ヒジュラ暦

ヒジュラとは預言者ムハンマドとムスリムがマッカからマディーナへ移住した出来事を指す。ラマダンは苦難に満ちたヒジュラの追体験である。1年12ヵ月であり、大の月(30日)と小の月(29日)を交互に繰り返す。30年に11回の閏年がある。


◆スーダンの歴史

古代にはヌビアと呼ばれ、エジプトの版図であった。しかし、エジプト諸王朝の衰退期を突いたのか南部より北上した黒人たちがクシュ王国を建国する。クシュ王国は1回滅亡するが、再興した後、エジプトへ攻め入り、第25王朝を興す。アッシリアに敗れた後、ヌビアへ撤退。南部に都を移し、メロエ王国となる。4世紀頃、エチオピアのアクスム王国に滅ぼされ、かつてのメロエ王国領域はノバティア王国、マクリア王国、アルワ王国に分裂。何れもキリスト教国であった。その後、16~17世紀にフンジ族がフンジ・スルタン国を建国する。しかし、厳格なイスラム教国とはいえず、比較的緩やか。


◆フンジ・スルタン国

ナイル川中流域、現代でいえば、スーダン、エチオピア西部、エリトリア北西部にあたる地域を支配。西暦1504年、フンジ族によって建国されイスラム教国家。


◆エチオピア・ソロモン朝

古くからキリスト正教国であり。16世紀、オスマン・トルコの支援を受けたアダル・スルタン国からジハードを受ける。キリスト教国という事もありポルトガルが支援し、アダル・スルタン国を撃退。しかし、ポルトガルはこの勝利に便乗し、カトリック伝道団を派遣。エチオピア人をカトリックに改宗させようと企む。このため宗派対立による内戦が勃発。史実では、西暦1596年、後継者争いのため王族・貴族の対立が激化。先帝の甥であるカトリック教徒が後継者となる。しかし、脇坂安治が介入。ポルトガル勢力を壊滅させ、捕虜や投降者全員をエリトリア地域のムスリムへ引き渡した。全員、凄惨な方法で虐殺された事はいうまでもない。さらに、安治は南部から侵入してくるオロモ族を撃退。エチオピアで影響力を増している。



カイロ→第281話、第280話、第279話参照

脇坂安治→第301話、第260話、第244話、第204話、第163話、第162話、第161話、第129話参照


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