新時代の幕開け編

第325話 天正最後の新年①

 天正23年1月2日(西暦1596年1月31日)。激動の年も明けて正月2日目を迎えていた。本来の歴史であれば天正は1592年にて終わっており、現在は文禄5年となる。


 しかし、文禄も1596年12月15日(文禄6年10月26日)で終わってしまう。文禄の次は慶長だ。この慶長は1615年まで続く。本来の文禄5年は慶長伏見地震が発生する。 


 答えを先にいってしまったが、実は文禄の出来事だ。それなのに慶長伏見地震なのかといえば、10月27日に改元して慶長となったので、慶長年間扱いらしい(個人的推測であり、文禄伏見地震という呼称もあります)。 


 天正13年(西暦1586年)にも大きな地震が発生しており、これは天正地震と呼ばれている。黄金伝説で有名な帰雲城が消えたのも(埋まった)この時だ。天正地震が重なるのもおかしいので、やはり慶長地震と呼ばれるのであろう。


 なおかつ、ややこしいのは文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)に発生している。つまり、この年は和暦だと7月の後に8月でなく閏7月となるのだ。


 7月が2回という事は、1年12ヵ月ではなく13ヵ月だったりする。旧暦(太陰太陽暦)においては、暦と季節がずれるため、閏月で調整していた。


 現代では1年365日だが、太陰太陽暦の場合は354日。これを放置すれば大変な事になるので、大体2~3年に1回程度の調整がなされる。無論、ややこしい話という事もあり、時代劇などで閏月が登場する事はまず無い。


 ちなみに日本の暦は明治5年、太陰太陽暦(天保暦)から太陽暦(グレゴリオ暦)へ変更されている。明治3年が最後の閏月で、10月は2回あった。


 西暦1870年なので、戦前・戦後も辛うじて最後の閏月生まれの人は居たのかも知れない。しかし、現代において、昔の事績はほぼ西暦に置き換えられている。明治3年も同様だ。



 それはともかく、これまで天正を引き延ばしてきたが、慶長伏見地震を契機に改元する予定となっている。既に慶長で決まっていた。朝廷側から幾つか案が出され、織田幕府は迷わず慶長を推奨した結果だ。


 これを契機に元号は天皇の代へ固定させる方向で調整が進んでいる。それが実現すれば後陽成天皇という追号は慶長天皇へ変わるであろう。正親町上皇などは、在位中に弘治 ・永禄 ・元亀 ・天正と変遷したが、流石に現代の感覚では分かりづらい。


 地震と改元以外にも今年は丹羽長秀や徳川家康が大陸より帰還する。盛大な馬揃えや労いの宴なども予定されており、間違いなく後世の歴史において慶長時代は織田幕府や日本にとって黄金の17世紀へ向かう端緒となろう。


 後陽成天皇の母は勧修寺晴子であり、義父は近衛前久だ。これを契機に朝廷の改革もある程度は期待出来る。


 さて、幸田広之は元旦の織田家や幕府絡みの行事に追われ、2日目は少し落ち着いた。広之は五徳たちたちを連れて早朝に恵方詣りを行う。


 この時代は恵方に参拝するためだ。今年は丙申年であり、恵方は南南東のため、その方角へ参拝した。五徳、茶々、初、江、末、お菊、登久、久麻、福(春日局)の他、ムンフゲレル、ナムダリ、アブタイ、イルハを引き連れると大人数になる。


 警備も物々しくなり、幸田家だけでは足りず、織田家の家臣も動員するため、大変だ。籠の担ぎ手だけでも相当の人数である。国内な平穏であり、幸田家の馬廻りにとっては年に一度の見せ場なだけに気合も入ろうというもの。


 そして夕方頃、嶋子、梶(英勝院)、松姫、菊姫、貞姫、小督姫、香具姫たちが来訪した。まだ大坂に滞在しつつ、有馬・淡路島・京の都・和歌山など各地を訪れている。今日は駄目元で呼んだら普通に来たのだ。


 こうして、年明けそうそう嶋子たちを交えた宴が始まるのであった。


 

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