第315話 直江兼続と沿海府

 黒龍江の河口が凍り始めていた。対岸まで15km以上もある川が日本では考えられないし、それが凍りつくのだ。直江兼続はその光景を眺めながら、今年が見納めかと思うと、感慨深いものがある。

  

 沿海府長官として任務にあたってきたが、来年は瀋陽へ異動するよう辞令を受けていた。沿海府は沿海州の国府のような扱いで、行政の中心地ではあるが、沿海州において第4の都市となっている。


 沿海府から約1千km離れた栄河(現ハバロフスク)が最大の規模であり、さらに日本海に面した栄寧がそれに続く。また、沿海府と栄河の中間地点にある北栄が第3の都市だ。


 区分上、沿海州は外地扱いで、樺太は内地となっている。内地は朝廷が律令を改めて国と定めた地域を指す。既に出羽は羽前・羽後に、陸奥は岩城・磐城・陸前・陸中・陸奥へ分割。


 さらに、北海道地方は松前・石狩・上川・釧路となり、千島列島は千島国、樺太は豊原国、敷香国しすか、海北国などが創設。


 ◯◯守のような武家官位は本来国司が名乗るものだ。しかし、国司が存在せず、武家の専売特許となりつつある。勝手名乗りでなく、正式な場合は朝廷の認可が必要となり、それなりの金銭を支払う。 

 

 朝廷にすれば守が12も増えれば収入的に潤うから、悪い話ではない。朝廷の勢威を示す事にもなる。さて、樺太だが、3ヶ国は区分上沿海州と関係ない。しかし、3ヶ国の奉行は沿海府が管轄下に置かれていた。


 さらに、カムチャツカ半島やバイカル湖方面まで担当区域となっているため、人口は少ないが抱える仕事の量は極めて多い。最低限の食料生産と資源確保、先住民の宣撫、あるいは蒙古の討伐が主な仕事だ。


 財政的には赤字前提だが、沿海州沿岸や樺太周辺などで漁獲される鰊、真鱈、スケトウダラなどが大きな収益を生み出す他、皮や甜菜糖も大きい。


 そして、有力な金鉱も採掘されている上、北河国の北方に広がる黒龍江流域の肥沃な地帯は穀物が豊富に収穫可能だ。今や樺太アイヌ、スメレンクル、ホジェン、エヴェンキ、ヴェイェニンなどの生活も様変わりした。


 冬でも石炭ストーブで暖をとり、麦茶やとうもろこし茶を飲む。大麦の甘酒や沿海酒(ウオッカ)も大人気だ。暖房設備の整った養豚場や養鶏場があるおかげで年中肉や海の魚も食べれる。 

 

 日本人と同じ地域で暮らすメリットはあまりに大きい。皮を取るための狩猟や僅かな採集以外は町や日本人集落へ隣接して暮らす事を選択している。


 そのへんは北河国の女直も同じだ。各族長などに下賜される茶・砂糖・煙草の威力たるや凄まじい。このまま時が経てば、人も増え、さらに栄えるだろう。兼続は確かな手応えを感じていた。


 さて、史実だと直江兼続に嫡男が誕生するのは西暦1594年である。兼続が34歳の時だ。しかし、問題なのは唯一の妻船の出産年齢で、何と38歳(数え)。


 当時では高齢出産の部類といえよう。それなりの地位にある武将が1人の女性から産ませる子供はせいぜい3人くらいだ。さらに、30歳を越えるというのはほぼない。


 医療、衛生、栄養状態に問題がある時代なれば、子供を産むだけでも相当のリスクだ。38歳で子供を産むというのはハイリスクどころの話ではない。側室を持たなかったので美談として語り継がれるが、いささか矛盾する。


 長女は1585年生まれといわれているが、次女は何年生れかも不明。しかし、娘二人が亡くなったのは1605年だ。そもそも、1585年の時点で船は29歳(数え)であり、これも地位のある家の正室としては通常あり得ない出産年齢……。


 世継ぎが欲しくて、妻を思うのであれば、側室を入れたほうが良さそうなものである。妻を大事にするがゆえ側室を設けず、されど世継ぎを得るため、生命の危険へさらすというのは違和感しかない。それでも1594年(1598年齢説もある)に待望の男子が誕生。


 ようやく生まれた待望の嫡男だが病弱のため22歳(数え)で亡くなる。兼続と船の子は3人全て早死しており、高齢出産の弊害かもしれない。


 長女に本多正信の次男を婿養子としている。しかし、結婚1年足らずで亡くなってしまう。勝手な推測だが、やはり体は弱かったのかもしれない。


 それを無理やり結婚させて、子供が誕生すれば儲けものみたいな発想にも感じる(現代の価値観では)。長女が他界後も何とか正信の次男を家に残す。そして、弟の娘を養子にした上、再婚させる。 


 こうなると正信の次男も人間的な感情として、あまりいい気はしないだろう。家名を残すため、あからさまに利用されているようにしか思えない。


 それ以外に、もうひとり養子が居た。本庄繁長の三男だ。しかし、兼続に嫡男が誕生すると縁を切られ、直江家を追い出され、実家へ戻る。


 ちなみに正信の次男と繁長の三男は共に加賀前田家へ仕えた(正信の次男は家老で禄高数万石)。結局、直江家は無嗣断絶。このような歴史を知っている広之は当初から兼続の能力はともかく警戒していた。


 以上、世継ぎを巡る兼続の所業を見る限り、世間一般のイメージとは大きく異なってしまう。繁長の三男は直江家の家臣も引き連れて前田家へ移っており、口減らしのための一策とも考えられるが、妻の数度に渡る高齢出産は説明不能だ。


 尾張の種馬こと前田利家より、ある意味人間性を疑問視したが、東京開拓の実績は高く評価。結果、史実通り、現在蒲生氏郷の家老となっている繁長の三男を養子とさせている。


 後は、兼続を遠い地へ単身赴任させれば嫡男誕生も無いと考えた。来年からは瀋陽で徳川家康の後任とさせ、船と繁長の三男はこのまま東京に住まわせるつもりだ。兼続に対しては禄高を増額の上、高額な役高も約束している。


 屋敷に戻ると兼続は家臣を集め酒を飲んでいた。


「さて、儂は瀋陽に行くゆえ、ここで冬を過ごすのも最後じゃ。そう思うと名残り惜しいのぉ」


「北の果てではございますが、住めば都」


「然様じゃ。さあ遠慮のう食え」


 囲炉裏には干し鱈、豚肉、大根、人参、じゃが芋などの汁が入った鍋、その周りに雑穀とじゃが芋で作られた餅が焼かれていた。各自の前には燻製にされた豚肉や茹で卵、そして栄河で作られた遼東漬け(キムチ)も置かれている。


「殿、伝え聞くところによれば、遼陽でも羊はよう食すそうでございますな」


「そのようじゃな。蒙古の民より奪い取りし、羊の味は苦きもの。されど山賊の如き輩たちなれば、いたし方なかろう。蒙古がひとたびまとまれば数万の兵に無法の限りを尽くし、数十万の農民や町人が犯され、殺される。山賊とは一緒に暮らせぬ。蒙古の与党(チャハル部やホルチン部など)以外は馬と羊を捨ててもらう。それしか共に暮らせる道は無い。そのため丹羽殿たちは二千里(約8千km)彼方まで行っておられるのじゃ。そこまで蒙古や類するものが居る。まだ見たことは無いが、遼東の南から西の果てまで城壁があるという。江戸城の城壁より高いそうでな。そんな物を作らなければならぬ程、農民や町人にとって蒙古は災いだったのじゃ」


「降った蒙古は数万……。慣れぬ暮らしに戸惑いつつも今では溶け込んでおりますな」


「岩塩や金を掘ったり、水路を作るなどいくらでも食う道はある。牧地を巡って争ったり、羊を取った取らないとか、かような事を案じるまでもない」


 そういうや兼続は餅を食べる。瀋陽での新たな任務に思いを馳せるのであった。

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