第291話 反竹子派のラスボス濃姫登場①

 大坂では日増しに温度や湿度が増しているのが実感出来るような気候となっていた。幸田広之のささやかな楽しみは、まだ陽の明るいうちに風呂(蒸し風呂)へ入る事だ。


 風呂上がり、井戸から汲み上げた冷たい水をかぶるのは実に爽快である。風呂場から出た広之はお菊が産んだ男児(松丸)をあやし、夕食へ臨んだ。


 今日の夕食は天ぷらがメインである。お初や哲普がその場で揚げて食べさせるのだ。揚がるのを待つ間、五徳が広之へ話掛けてきた。


「左衛門殿、昼に塩川殿がお見えなりましてな」


 昨年、織田信孝と小島兵部の母妙静院、織田信之(元三法師)の母塩川殿、幸田孝之の母姫路御前たち3人で幸田家を訪ねてきたばかりだ。


「塩川殿が如何なる用向きで」 


「それが、帰蝶様(織田信長の正室濃姫)の事で」


 広之は意表を突かれた思いであった。濃姫は信長に嫁いでから歴史の表舞台にはほとんど出て来ない。斎藤道三が敗死して以降、利用価値が無くなったという見方もある。


 その時々で何と呼ばれていたのかさえ確証は薄い。推察する他ないのだ。五徳の母である生駒吉乃が継室のような扱いにしても、濃姫は相応の扱いをされていた節がある。そして、生存説では慶長17年(西暦1612年)に他界したという(当作では生存説採用)。


 広之が関知する限り、濃姫は本能寺の変に際して、安土城に居た。濃姫は明智光秀と従兄弟(小見の方が光秀叔母説採用)であり、家老斎藤利三は義兄弟と近い関係にある。


 そのため、当然ながら濃姫は疑われてしまった。万一、明智方に与して、美濃斎藤家縁の諸将を糾合されては厄介だ。本能寺の変は、京の都に信長と織田家当主信忠双方が揃っている事で起きた偶発的事件のため、光秀は事前に根回しを行った形跡はない。


 濃姫にとっては濡れ衣以外の何ものでないが、緊急事態のため、当然の結果といえよう。だが、同じく無実であった津田信澄を光秀謀反に加担として討ち取っている。

  

 さらに、長宗我部盛親の叔母は斎藤利三の姪であり、これも関与していたと断じ、四国征伐を行う上での大義名分だった。そうである以上、濃姫の立場は極めて分が悪い。


 五徳も安土時代には濃姫と親密な関係だったという。しかし、信長や兄の信忠(母は生駒吉乃)が討たれた事により関係はぎくしゃくする他なかった。


 結局、濃姫は大坂には来ず、京の都へ移り、不自由ない生活を送っている。広之は信長の法要で会うくらいしか接触がない。最後に会ったのは、信長の十三回忌であり、3年程前だ。現在、数えで61歳のため、それなりの歳であるが、衰えは緩やかである。


 織田家にとっては妙静院や塩川殿と並び取り扱いの難しい人物だ。妙静院や塩川殿も信長の法要には来るため、その度、濃姫とは顔を合わせている。塩川殿が濃姫の件で来宅するとしても、あり得ない話ではない。

  

 織田信孝正室の竹子と何か因縁あるわけでもないが、妙静院や塩川殿を抑え、反竹子派の三大人物筆頭と目されていた。決して引き籠もりの隠居生活というわけでなく、京の都では公家などとも盛んに交流しており、人脈は相当なものだ。


「五徳殿、帰蝶様に何か……」


「於福(春日局)の兄(斎藤利宗)について、おり入って相談されたいとの事でございますな」


 福の兄である斎藤利宗は山崎にも参加し、細川忠興預かりとなった後、仏門に帰依。およその検討はつく。


「還俗して斎藤家を復興とかでしょうか」


「詳細は分かりかねますが、然様でございましょう」


「一両日中に上様と話をいたします。それで良いかな於福」


「兄上とは書状を重ねてましたが、恐らくは帰蝶様のご配慮かと存じます。母上(五徳)には申し上げ難き事でございますが、ご寛容に賜りたく……」


「親子とて時に敵となるのが戦乱の世というもの。父上の十三回忌も済み、過去の事は水に流すべきでしょう。仮に此度の用向きが、於福の兄とは異なる話であっても、還俗の件は左衛門殿へお願いいたします」


「父上、母上、誠にかたじけなく存じます」

 

 そんな話をしている間、鱧・穴子・真鯛の天ぷらが揚がった。時期的に鯵や鰯も美味いが、輸送や保存の問題で夕方は難しい。広之は鱧を口にしつつ涙を流す福を見ていた。




 

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