第284話  蜂屋頼隆死す

 クリスマス(イヴ)の翌日、訃報がもたらされた。蜂屋頼隆が早朝、厠から出た直後倒れ、そのまま急死してしまったのである。ここ数年体力の衰えは隠せなかったが、大きな病気も無かっただけに織田信孝や幸田広之のショックは大きい。


 倒れたという蜂屋家からの報せで広之が直ちに幸田家臣、医師の田代養仙(越前真柄氏の一族)を伴い駆けつけた。瞳孔が開いており、脳溢血と思われ、為すすべもなく、その日の内に亡くなったのである。


 数えで64歳という事もあり、当時なら普通に寿命だ。しかし、突然の出来事であり、信孝と広之は嘆いた。葬儀は盛大に行われ、生前の遺言通り、東美濃の所領は織田家へ返される事で頼隆の遺臣も了承。


 家中の者は全て織田家直臣となることが通達。ただ、当面は東美濃衆として蜂屋家中はそのままである。柴田勝家の乱後、岐阜城は一次的に稲葉家預かりだったが、その後蜂屋家の居城となっており、東美濃衆の拠点は岐阜となる。

  

 頼隆は土岐氏に連なる一族で(諸説あり)、織田信長の馬廻りを務めていた古参家臣でもあった。信長が西暦1559年(永禄2年)、初めて上洛した際の遂行者80名の1人だ。


 西暦1568年(永禄11年)、本格的な上洛を果たすと、柴田勝家、坂井政尚、森可成、佐久間信盛、和田惟政たちに名前を連ねる程であり、織田家の有力武将だった。


 ある意味では、丹羽長秀や池田恒興より出世は早い。織田家の主要な戦いに参戦。西暦1581年2月28日(天正9年)、御馬揃えでは、丹羽長秀に次ぐ2番手という地位へ上り詰めた。


 本能寺の変当時は岸和田城主であり、雑賀や根来、あるいは長宗我部への抑えとして信長の絶大な信頼を受けていた。本能寺の変事に岸和田城を守りつつ、紀伊方面、伊賀方面、四国方面、堺などにも睨みを利かせ地味ながらも功績は大きい。


 信孝政権に置いても温厚かつ気骨のある人柄で人望があり、貴重な人材だった。それだけに信孝と広之の失望は計り知れない。


 一方、幸田家恒例の忘年会は頼隆を偲ぶ会へ変更され、余興などは無しとなり、新年会に回す。葬儀が終わった晩、大坂城開かずの間で、信孝、信之(元三法師)、広之、岡本良勝の4人が集まって、思い出話に花を咲かせていた。


 白州のお湯割りを飲みながら、信孝が語る。


「憎めない爺であったな。あれぞ武士の鑑じゃ。功を誇らず、他人を立て、ひとたび戦わば誠に勇敢」 


「兵庫頭殿は本来の歴史とやらでは太閤検地に反対し、筑前守殿をたしなめたとか。しかし、左衛門殿の説得で検地と刀狩りは必ずせねばならぬと諭され、考えを改めておりましたな。民思いの領主でござった」


 良勝も頼隆とタイプ的には似ているためか、色々と思うところあるようで、しみじみと語る。良勝も己の領分を知り、信孝の叔父でありながら、広之や孝之(幸田)を後から支えていた。


 こうして、丹羽長秀のさらに上をいく地味な名将蜂屋頼隆は静かに、この世を去ったのである。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る