第279話 丹羽長秀とカイロ会談

 モスクワ陥落以降、丹羽長秀率いる幕府連合軍はドン川流域(現ロシア国ロストフ州、現ウクライナ国ルハンスク州・ドネツク州)やドネツ川流域、ドニエプル川下流域などで徹底的にコサック(カザーク)を征伐。次々に武装解除した。


 コサックから馬と家畜を全て没収し、現代でいうところのドンバス地域へ集めている。17世紀後半まで不毛な荒野同然の地だ。


 しかし、現代の知識により、この地域は大規模な石炭と塩の鉱山がある事を知っている以上、コサックに採掘させるためであった。これにより、幕府同盟軍が西方で必要とすべき石炭と塩は全て足りる。


 幕府では奴隷を禁じているため、充分な賃金と食料が配給されていた。また、反乱を防ぐため集団を全て分解し、地縁と血縁が機能しないようにしている。

  

 また、コサック絡みでニジニ・ノヴゴロドの大商人ストロガノフ家を逮捕し、流刑(事実上の死刑)とした。罪状はコサックの犯罪者イェルマークを私兵として、1579~1581年(詳細な年次は不明)頃、シベリアへ侵攻させた事だ(540名)。


 これは通常の正規戦でなく、民間人による私兵が略奪や犯罪行為を行ったと断定された。そして、イェルマークが攻めたシビル・ハン国の王統は元を辿ればチンギス・カンへ行き着く。


 幕府はチャハル部のブヤン・セチェン・ハーンをモンゴル帝国の正統な後継者と認定している。シビル・ハン国への行為はチャハル部や日本への敵対である、という見解が示された(完全な言い掛かりではあるが)。


 ストロガノフ家を潰す事によってシベリア方面へコサックが進む可能性は減る。何れにせよオビ川流域のノボシビルスクとウラル山脈南東のアスタナ(現カザフスタンの首都)へ頑強な城塞都市を築くため、既に着工していた。

 

 そして、天正22年12月中旬(西暦1595年1月下旬)、長秀は2万の兵で北アフリカへ向かっていた。羽柴秀吉、前田利家、前田利益(慶次)、最上義光、脇坂安治、立花宗茂などが従っている。


 立花宗茂は昨年遼東へ上陸し、冬の間も草原を走り抜け長秀たちに合流した。宗茂以外は補給中心の部隊で遅れてカスピ海付近へ到着する予定だ。


 幕府同盟軍は兵数こそ少ないが、前装式のフリントロック式ライフルマスケット(天正零式小銃)を標準装備していた。紙製薬莢ミニエー弾を使う。ライフリングされたゲベール銃に近い銃だ。


 有効射程の目安は300m程で、1分間に2~3発程度撃てる。当たれば、死ぬか手足が吹き飛ぶ程の破壊力だ。これまでの実戦使用だと、最初に一斉斉射すれば、千切れた手足や血まみれの兵を見るや皆戦意喪失し、逃げ出す。


 他にもカロネード砲を大量携行しており、奇襲されなければほぼ無敵に近い。トルコやフランスなどの観戦武官も幕府同盟軍による圧倒的火力を目撃し、圧倒された。


 トルコやフランスへ供与する事で合意が成立している。但し、日本の特許法に準じた20年間の特許を認める事が無償譲渡の条件だ。日本では既に特許法や種子法が成立していた。主にフリントロック、紙製薬莢ミニエー弾、銃剣、ライフリングが特許となる。


 ライフリングについては西暦1498年、ウィーンのガスパール・ゾラーが発明していた。しかし、日本では知らぬ存ぜぬで特許申請されており、トルコやフランスにも押し通す。


 特許については、西暦1474年イタリアのヴェネツィア共和国で、世界初の近代的な特許法が制定された。新しい発明に対して10年間の独占権を発明者に与えるというものだ。


 トルコやフランスが天正零式小銃や専用弾を製造すれば特許料が入ってくる。さらに欧州各地へ日本が先んじて売りまくってしまう。その際、日本の特許を認めさせるのが条件だ。


 トルコやフランスに無償供与してもお釣りが来る。さらに幕府は阿片も生産しており、天正零式小銃と対で広める予定だ。欧州の戦争は桁違いに凄惨なものとなる。手足の千切れた兵士へ痛みを和らげる薬として阿片が使われるのだ。


 当然、中毒者が続出し、そのうち誤った目的で販売されるのは時間の問題だろう。煙草も一緒に売りまくる。無論、アジアや新亜大陸(アメリカ大陸)では厳禁だ。

 

 さて、長秀はコスタンティニイェ(イスタンブール)でトルコのスルタン、ムラト3世へ謁見。ほとんどハレーム(ハレム)に引き籠もり、生涯で119人の子供を作り出している人物だ。


 元々は勃起不全(ED)に悩まされていたが、インポテンツの手術を行なった。成功したものの反動なのか、性欲が大爆発。その後、子供が続々と生まれる。


 長秀が謁見して間もなくムラト3世は崩御。膀胱の病気が原因ともされている。その後、メフメト3世がスルタンに即位。即位した時、メフメト3世含めて19人の男兄弟が居た。


 習わしにより他の男兄弟は全て殺されている。しかし、流石に18人もの兄弟殺しは前代未聞であり、波紋を呼んだ。これが原因となり、メフメト3世の次代から新スルタン誕生時に兄弟殺しは行われなくなった。


 トルコを後にした長秀たちはパレスチナあたりを経由し、エジプトへ入る。無論、一行は生まれて初めてのピラミッドを見物した。カイロで、フランス、ネーデルラント(オランダ)、イングランド、トルコ、モロッコのサアド朝の使節を集め作戦会議が開かれたのである。


 問題はイスパニア傘下となっているイタリアの各地域であった。フェリペ2世はナポリ王、シチリア王、サルディーニャ王、ミラノ公でもあるのだ。


 それら以外にもジェノヴァ国との関係が深い。16世紀、ジェノヴァの銀行家がイスパニアへ融資を重ねる。イスパニアのセビーリャにあるジェノヴァ系銀行の支店からイスパニアのへの融資が行われた、大いに繁栄した。


 しかし、トルコにより地中海航路の支配が弱体化。そんな最中、西暦1557年にイスパニアが最初の破産宣告(国庫支払いの停止宣言)をする。この事態により、イスパニア・ハプスブルク家の財政担当を務めるドイツのフッガー家は衰退。


 ジェノヴァの銀行家たちもポトシ銀山の扱いなど色々振り回されていく。度重なるイスパニアの破産でジェノヴァの貿易商社は次々と破綻へ追い込まれた。


 仏蘭英はジェノヴァを潰すべきと強く提案。特にネーデルラントは独立戦争でイスパニアを手助けしたジェノヴァへの恨みは凄まじい。


 フランスもイタリアを巡るイスパニアとの戦争(イタリア戦争)での恨みは忘れてないが、どちらかといえば北イタリアへの色気が先に立つ。


 イングランドは宗教的な対立で、とりあえず多少国が傾いてもイスパニアへ致命傷を与えたい。それ以前に日本より軍費として大量の金が贈られるため、資金の心配もなく、これまでの遺恨を晴らすつもりだ。


 また、イングランドは日本への私掠は一切行わない事とアイルランドにおける寄港地の租借を条件としてイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドへの莫大な投資が約束されていた。


 結局、イスパニアとポルトガルの両海軍を殲滅した後、セビーリャ、マドリード、バルセロナ、リスボンは占領し、その後イタリアへ侵攻することで決す。


 後世で、この時の会議はカイロ会談と呼ばれる。正式に連合軍が結成されイスパニア・ハプスブル家領の分割や戦後の経済など重要事項が取り決められた。


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