第273話 反竹子派の襲来①
大坂は晩秋から冬になっていた。大抵の地域で稲刈も終わり、これからが忙しい。米を軸にした経済であり、作況具合は景気に直結する。幕府は米以外に潤沢な収益や金・銀・銅を保有しているが、作況具合を見て予算を組み立てるのだ。
凶作の兆候が顕著であれば台湾へ早船が出される。そして、秋と春に大量の米が送られてくる仕組みだ。米の足りない農民に対しては幕府より借し米が長期割賦払いで行われる。実際は凶作になった地域へ、幕府は普請を行い、農民は駆り出され、賃金で清算出来てしまう。
何れにしろ、米の収穫時期以降、予算関係の評定や折衝は忙しくなる。それらは実際のところ幸田広之の判断次第だが、幕府の官僚制度完成のため、あえてプロセスを重視していた。
毎年、この時期になると五徳たちも忙しい。織田家重臣、織田家一門(連枝衆はこの中で兄弟を指す)、大名などの正室が連日のように現れたりする。茶々もこの時期は毎日幸田家に居て、対応するのが常だ。
幸田広之は鎌倉幕府御家人ならば執権であり、その妻にして将軍織田信孝の妹という立場の五徳は竹子を凌ぎつつあった。そもそも竹子が将軍の御台所だとしても影響力はさておき政治の実権は無い。
五徳は織田信長の娘であり、母は正室的な立場の生駒吉乃だ。亡くなった織田信忠と父母が同じであり、時期将軍の織田信之(元三法師)は血筋的にも近い。沢山居る織田家の一門や重臣に対しても竹子より顔が効く。無論、商人に対しても同様だ。
決定的なのは五徳の場合、ほぼ自由に金を動かせる。大商人でもある幸田家の豊かさは尋常でない。五徳は妹たちの面倒も見ており、主催する申の刻茶(アフタヌーンティー)のメンツも豪華だ。そこへ呼ばれる事は大変なステータスとなる。
しかし、茶会に呼ばれない一派も居た。信孝の母妙静院、孝之の母姫路御前、信之の母塩川殿の3人だ。妙静院は大坂の郊外で隠居。姫路御前は普段、文字通り孝之の本拠である姫路に居た。塩川殿は以前大坂城の奥御殿に居たが、現在は二の丸内に屋敷を与えられている。
この日、広之は信孝より、本日母上が姫路御前と塩川殿を連れて行くから、もてなせと告げられた。姫路御前は信孝の乳母なので、妙静院とは顔見知りだ。しかし、塩川殿は意外な取り合わせである。また、広之個人として姫路御前は少し気まずい。
当初、孝之の従兄弟という触れ込みだったが、途中から異母兄弟になっている。未亡人の姫路御前からすれば驚きでしかない。自分が幸田家へ嫁ぐ前、預かり知らぬところで庶子が居たというのだ。
昔から幸田家へ仕える者も知らぬ以上、公に出来ない程、母の素性が卑しいと考えるのは当然であろう。既に母も他界してるというが疑わしい。しかし、突如として現れ、今や押しも押されぬ存在だ。五徳を正室に迎え、さらに初を側室とするあたり、尋常ではない。
広之の子を養子に迎える事となっており、庶子なのは間違いないのだろう。それどころか、広之の勲功によって孝之が大出世したという風評である。武家にとって養育の差とは埋め難きものだ。
庶子が嫡子より高い教養を身に付けるだけでも不思議だが、乳兄弟として子供時分から兄弟同然の孝之を差し置いて、権大納言へ登りつめたのは紛れもなき事実である。その半生含めて謎でしかない。
広之は気まずいだけだが、姫路御前はそれ以上に複雑な感情であろう事は間違いなかろう。広之の機嫌を損じれば家の大事。日頃は五徳の耳に入っても良いように右幸田家と強調していた。
孝之からは、此方が幸田の本家で問題ないとは聞いてる。されど立場は間違いなく広之が上だ。上様の御嫡嗣にしても烏帽子親は広之である。何れ広之の嫡男仙丸が二代将軍の側近になるのも確実だと、もっぱらの評判。
そもそも五徳や浅井家の姫たちを考えれば、広之の幸田家は実質的に織田家でしかない。姫路御前が幸田広之と五徳への対応に神経を尖らせるのは当然であった。本当は出来る限り幸田広之邸には近づきたくない。
しかし、乳母時代から従えていた妙静院の誘いとあって断れなかった。それも、竹子から嫌われているはずの塩川殿まで一緒なのは問題だ。何事も起きないよう祈ったのはいうまでもない。
広之は慌てて早めに帰宅支度をしているところへ信之がやってきた。
「左衛門殿(自分の臣下ではあるが、学問の師である上、父の重臣という事で呼びつけにはしていない)、母上の事、上様より聞き申した。この三郎も是非ご同席を」
「殿、申し上げ難い事ですが、御台様の……」
「心配無用。上様のお許しは得ております。それに、若輩なれど元服した身」
「畏まりました。御三方とも右幸田家で申の刻茶を行っているとの由(昔は季節によって時刻が異なる。冬場は申の刻だと、もう暗い。つまり、時刻は一律でなく変動する。しかし、現代でいえば昼食後から夕食までの間に飲む茶は季節関係なく申の刻茶と呼ばれていた)。それが終わる頃、我が屋敷へお越し下さいませ」
さらに、ややこしい事になり、頭を抱える広之であった。そそくさと本丸を出て、二の丸内の屋敷へ帰る。
「五徳殿、今宵の夕餉で妙静院様、姫路の母上(建前上は母として立てている)、塩川殿、さらに殿(信之)が参られる」
「それは誠でごさいましょうか。上様と御台様は……」
「無論、上様と御台様は来られませぬ。御台様は席を同じくする事無いのは五徳殿も十分存じておられるはず。殿の同席は上様が直々にお認めになられました。殿が元服された祝儀のひとつか、と。ただ、妙静院様と姫路の母上の仲は知っての通り。されど、塩川殿と如何なる繋がりか知れませぬ。兎にも角にも細かい事は分からぬ次第」
「左衛門殿はご存知無いかも知れませぬが、妙静院殿は妾をあまりよく思ってはおらぬという話。亡き父上(織田信長)の実質的な正室は生駒の母上でございました。それ故、上様が亡き北畠の兄上(織田信雄)より先に生まれながら三男とされたことへ少なからず不満を抱いておられだったとか……」
そういうと鬼の形相で茶々を呼びに行き、現在子供を身籠っている初を除き、江の他に福、登久、久麻も加わり、何やら作戦会議を行っている。妙静院と姫路殿はそれなりの歳なので、突飛なものは出せない。広之も色々準備する必要があり、慌てて台所へ向かった。
何事も無ければ良いが、と祈る広之であった。
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