第270話 長秀とフサノヴィッチ

 モスクワを陥落させた丹羽長秀率いる幕府同盟軍は本格的な冬となる前に、ドン川下流域へ移動した。この辺ならトルコやイランより補給も受けやすく、本格的に寒くなるまで、時間的余裕がある。


 カザークが住む地域で暴れている脇坂安治の加勢という事になる。この地域はクリミア・ハン国同様にテュルク系民族が多く、いわばオスマン・トルコ、ヒヴァ・ハン国、カザフ・ハン国、旧アストラハン国、ノガイ・オルダとは近縁といえよう。


 一方、ブハラ・ハン国(シャイバーニー朝)、シビル・ハン国、旧カザン・ハン国などは、未だにチンギス・カンの血統が権威として存在している。かような地域では元朝皇帝に伝わる玉璽を保持し、モンゴル帝国第39代(ハーン。北元としては第25代皇帝)ブヤン・セチェン・ハーン(チャハル部)の威厳がものをいう。


 大国であるブハラ・ハン国の占領統治が容易なのはチャハル部による協力あればこそだ。シビル・ハン国や旧カザン・ハン国も同様に順調であった。


 しかし、ドン・カザークたちはタタール(本来はテュルク系を指すが、広義において蒙古も含む)特有の乗馬術と勇敢さをベースにオスマン・トルコ、ロシア、ポーランド・リトアニアなどの軍事技術も取り入れ、その名を轟かせている。


 彼らの領域は大国の辺境であり、未開発だ。入り組んだ河川流域に阻まれ、大軍の侵攻は難しい。本来の歴史ではロシア帝国を支えた軍事集団だけあって、制圧は困難といえよう。だが、幕府はドン・カザークには壊滅的な打撃を与える方針だ。


 隣接するクリミア・ハン国はオスマン・トルコの属国なだけに、色々と気を使う。羊や毛皮の購入を始め、軍資金の援助も行っていた。現在、同国はトルコの要請でハンガリー方面を転戦している。


 昨年、ハンガリーの帰属をめぐり、神聖ローマ帝国(主体はオーストリア)とオスマン・トルコが交戦状態へ突入。史実では13年に及ぶ長期戦の幕開けだ。これまでにもクリミア・ハン国はトルコの要請を受け、ペルシャ、アストラハン、ロシアなどへの尖兵となっている。


 歴史上、大国が最大版図に達してから衰退を辿るパターンは多い。オスマン・トルコはまさに、その兆しを見せていた。現代の企業と同じで、採算性の低い事業へ過剰投資を行ったり、不採算店が増えれば業績は悪化する。


 幸田広之の構想において、オスマン・トルコは欧州を疲弊させるための噛ませ犬でしかない。史実だと17世紀後半に大トルコ戦争が行われる。


 オーストリア、ポーランド・リトアニア、ロシア、ヴェネツィアの神聖同盟とオスマン・トルコ、クリミア・ハン、トランシルヴァニアが戦う。勝利したオーストリアは復興し、敗北したオスマン・トルコは衰退していく。


 ただ、ロシアが日本の影響下となれば、参戦は見送られるかもしれない。いずれ、長期化してもらえれば、中欧(フランスやネーデルラントを迂回して)とオスマン・トルコへの貸付けや復興需要で儲かる。


 噛ませ犬に襲われる愚は犯したくない。少なくとも向う百年はオスマン・トルコと友好関係を維持する必要がある。旧アストラ・ハン国を日本が領有する事へ不満も強いだろう。


 ただ、軍人を幕府同盟軍へ随行させ、勢力、装備、補給網の構築、強さは十分理解したはず。オスマン・トルコにとって日本は最大の貿易相手国へ成りつつあり、無尽蔵の資金力を有しているため、後は衝突する要素さえ省けばいい。


 さて、各地にて掃討戦が進むなか要塞で長秀は指示を出していた。各地にカザークの小部隊が点在しており、初めから降伏すれば、馬や武器を買い取っている。


 一度でも歯向かった場合、降伏の際に態度が良ければカスピ海方面の農場送りか、シベリア送り。態度が悪ければ身包み剥がして、アキレス腱やあらやる靭帯を切断の上、野ざらしだ。


 初めから降伏した場合、部隊や集落の人別帳を作り、提出させる。それらを安治が雇っているトルコ人が整理していた。そんなある日、逃亡した農奴上がりの自称料理人が売り込みに来た。


「殿、腕の良さそうな料理人を見つけましたぞ」


「左近よ、直ぐに連れて参れ」


 一旦、下がった島左近(島清興)は料理人を連れてきた。


「面を上げよ。名を申せ」


「はっ、ハエール・フサノヴィッチと申します……」


「好きな物を作って直ぐに出すがよい。美味なれば褒美の上、雇ってやろう。ただし、不味ければシベリア送りじゃ」


 こうして、頭が薄いわけでないフサノヴィッチは必死に料理を作る。およそ1時間後に出来上がった料理が長秀の前へ並べられた。


「ほお……。飯の上に炒めた肉を置いておるな」


 それは、投降した農民から取り上げた牛だ。薄く切って、牛脂とバターで塩胡椒した牛肉を炒める。玉葱も加え、ワインを投入し、煮込んだ後、サワークリームがたっぷり入っていた。


「何と、これは……。羊の若肉(ラム)と異なり硬い。されど、この味わいは言葉に出せぬ。左衛門のところでもかような物は見た事無い。ただ、牛の肉である事はわかる」


「殿、不味いようでしたシベリア送りに……」


「左近よ、早合点するでない。これは、実に美味じゃ」


 これは、本来の歴史ではビーフ・ストロガノフと呼ばれる料理であった。ロシア語でベフ・ストロガノフ(ベフはビーフのロシア風発音)。大富豪ストロガノフ家発祥とされる料理だ。改変された世界ではベフ・カザークと呼ばれる。


 フサノヴィッチは渾身の料理で丹羽家の家来に取り立てられたのだ。有り難くも長秀直々に布佐野八重太郎という名前を賜った。

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