第268話 幕府軍、モスクワへ侵攻す③

 モスクワから程近い地点で野営していた幕府同盟軍の下へヴァシーリー・シュイスキーが使者として訪れた。大軍と異国の軍装に怯えているようだ。本来の歴史ならば、3代後のツァーリになるはずの人物である。


 元々は家系的にニジニ・ノヴゴロド公であったが、モスクワ大公国に吸収されて、現在はロシアの大貴族となっていた。本来の領地であるニジニ・ノヴゴロドは既に陥落している。後にロマノフ朝随一の大商人となるストロガノフ家の本拠地だ。


 ニジニ・ノヴゴロドのロシア軍は思ったより少ない幕府同盟軍を見て、十分勝てると踏んだのだ。合戦に及んだが、無数の銃兵、騎馬、大砲などによる、見た事の無い連携になすすべもなく惨敗を喫した。


 さらに、大砲で城壁を破られ、侵入を許し、降伏する以外の余地は無かったのだ。予想外に略奪や無軌道な殺戮が無かったのは幸いである。しかし、武装解除に応じない兵は容赦なく首を斬り落とされた。


 シュイスキーは丹羽長秀への前に座る。


「日本国幕府軍及び同盟軍の総大将、藤原朝臣丹羽権大納言長秀である」


「遥か東方の大国イポーニの総司令官閣下へお目にかかれ光栄の至り。それがしはヴァシーリー・シュイスキーと申します」


「シュイスキー殿は礼儀をわきまえた御方のようじゃな。さて、ここからは挨拶も程々に身のある話をしたいが、如何であろうか」


「異存はございませぬ」


「先ず、前触れも無く現れた東方より来たる軍勢に襲われ不服であろう」


「いささか、備えが足りませんでした。備えていたとしてもイポーニに勝てたとは思いませぬが……」


「何故、そう思われる」


「ロシア東南の辺境には我らへ服属する精強なタタールやカザークが居ります。これらを短期間に駆逐し、モスクワへ向かうのは戦力や補給の面でも難しい。馬を操り、銃や大砲をあれほど装備し、一糸乱れぬ統率……。勝てる道理がござらぬ」


「それでも、ロシア人が勇敢であり、郷里や国土へ愛着と誇りを持っておる事は、重々存じてるつもりだ。ロシアはロシア人の土地であるべきじゃ。我らは、かつてのキプチャク・ハン国とは異なる」


「よく、ロシアの古き歴史をご存知ですな」


「我らも聖人ではない。相手次第じゃ。ロシアの民に出来る限り、危害を加えたくないというのが本心である。ただし、タタールには容赦しておらぬ。東西を問わずタタールの類は存在自体が災いであろう。定まった家を持たず年に1頭しか子を産まぬ羊や馬で暮らしおり、生活は厳しい。それ故、隙あらば農民を襲っては奪い、犯し、焼き尽くすなど無法の限りじゃ。残念ながら、好まざる隣人に他ならない。我らが西の果てまで来たのは各地のタタールや同類を制圧するためである。痩せたり、寒冷な地でもよく育つ芋や穀物がある故、それさえあれば定住して暮らす事も叶うはず。馬と羊を捨てるなら安寧な暮らしを与えよう。拒めば多少手荒な真似も辞さない」


 シュイスキーはようやく遠い西方の地まで押し寄せてきた理由の一端が理解出来た。タタールの故郷は遥か東方にあり、キタイ(明国)と隣接していると聞く。


 ならば、キタイを始めとする東方の農耕国家も古来より、どれほど凄惨な目にあってきたか想像出来る。つまり、ロシア人に恨みは無いし、征服支配する気もさらさらない。


 ブハラ・ハン国(シャイバーニー朝)、シビル・ハン国、カザフ・ハン国を制圧し、さらに旧アストラハン・ハン国、ノガイ・オルダ、旧カザン・ハン国、ドン・カザーク(ドン川流域のコサック)への対策上、ロシアへ予防的に侵攻したという推測が成り立つ。


 シュイスキーの顔に生気が宿りつつあった。僅かながら光明が見える。フランス、ネーデルラント(オランダ)、神聖ローマ帝国の一部諸侯国とも友好関係にあるという話を確かめねばならない。


「閣下、イポーニはトルコと同盟を結び、フランスやネーデルラント、さらには神聖ローマ帝国の一部諸侯国とも友好関係にあるという話を聞いております。一方でポルトガルやイスパニアと対立しているそうですが、何故でしょうか」


「察しが良いの。そこが肝要じゃ。これまで我が国はイスパニアと友好関係にあった。しかし、イスパニアやポルトガルが修道士を兵士の如く使い、無辜の民へ魂の征服というべき仕打ちや奴隷取り引きなど見るに耐えぬ。我が国は法で信仰の自由を認め、奴隷も禁じておる。フェリペ2世やイスパニアによる新教徒への仕打ち、異端審問などは蛮行というべきもの。何処の国だろうと、従わねば殺されるという場にて結ばせた約定など無効じゃな」


「イポーニはロシアに何をお望みでしょうか」


「ボリス・ゴドゥノフ殿の刺客に襲われ殺されかけたツァーリの弟君は何処かに匿われているという。生きておれば10歳くらいと聞く。幼子にかような真似をし、簒奪を計る御仁じゃ……。病弱で床に伏せるツァーリが万一の時、取って代わるような事あらば、ロシアも立ち行くまい。ロシアを滅ぼす気など無いが、信頼に足る政府でなければ条約も結べぬ」


「条約とは如何に……」


「賠償金や献納などは一切求めぬ。逆に必要な金を貸し出す。それとは別にロシアの国家予算と同額の援助や投資を毎年行っても良い。その代わりウラルから東、あるいはドン・カザークは日本の領土とする。ただし、村や町は民による自治といたす。ロシアに求めるのは農奴に関する法を1497年法典(スヂェブニク)以前に戻して欲しい。また、ワルシャワ連盟協約(欧州初となる宗教的自由を認めた法令)並の信仰に関する法も作るべきであろう。中央政府においては官僚の権限を強化。それと、ロシアがポーランド・リトアニア共和国と戦争する際は我らも参戦する。条約と要望となろう。さて、ここまで存念を聞き、如何されるかな……」


 この後、議事録などの記録を一切残さないという条件で、シュイスキーから長秀へある提案がなされた。

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