第262話 ミャンマー侵攻
マラッカを攻略した小島兵部(織田信孝の異父兄で織田家家老)率いる幕府軍は、続いてアチェ王国へ侵攻。これを降伏させ、服属国とした。そして、ミャンマーのタウングー朝を侵攻するべく、幕府の艦隊はマレー半島沿いを北上し、モン族が住む地域へ到達。
モン族は古代より現在のタイあたりで生活していた民族である。紀元前300年頃、スワンナプーム王国を建国したとされるが、これは記紀における神武東征の類であり、伝説といえよう。
ドヴァーラヴァティー王国やハリプンチャイ王国などを建て栄えたが、9世紀頃に現在のミャンマーでタトン王国、さらにペグー王朝(ハンターワディー)と続く。ペグー王朝は実質的にモン族国家ではあるが、建国者はカレン族だったりする。
カレン族はペグー王朝と同時期にミャンマー北部へアヴァ王朝を築くなど旺盛だった。ペグー朝の滅亡が西暦1539年、アヴァ王朝の滅亡は1555年であり、何れもミャンマー族のタウングー王朝に滅ぼされている。
また、ミャンマーの場合、古くはエーヤワディー川沿いにピュー族の都市国家群が栄えていたが南下したミャンマー族に滅ぼされた可能性が高い(吸収という形容もある。平和裏の内にピュー族が望んでミャンマー族へ同化したとは思えない)。
ちなみに、ここで取り上げたモン族は現代のタイやベトナムで山岳民族として知られるモン族とは別民族である。こちらのモン族は三苗系統の民族(ミャオ族=苗族も三苗にルーツがあるとされるが確実ではない)と見られ、移動しながら焼畑耕作をしてきた。
織田幕府はかねてよりシャムとミャンマーの国境地帯に住むモン族と接触。シャム語経由で意思の疎通をはかりながら、通訳として保護していた。小島兵部はシャムとの国境に近いマレー半島の付け根部分へ上陸。
土地のモン族首長へ大量の贈り物を渡し、タウングー王朝侵攻の協力が取り付けられた。史実では西暦1593年に兵部が上陸した地域はアユタヤ王朝の軍から侵攻されている。
しかし、小西行長に連動する形でカンボジアやラーンサーンを攻めた結果、遠征は行われてない。今年に入り、小西行長は幕府からの指示で、ナーレスワン大王へラーンナーに大量の金脈があるかも知れないとそそのかしていた。
そのため、ナーレスワン大王はラーンナー侵攻に躍起となっている。気付いた時には手遅れであろう。タウングー王朝は一気に解体し、モン族を中心にしたミャンマー族、カレン族、チン族などの連邦制にする。そこに、日本人や明国人、またはベンガル人やインド人なども加える、というのが幕府の方針だ。
ほどなくして、幕府軍はタウングーへ侵攻を開始。銃と大砲を装備した無数の兵にとって制圧は造作も無い事である。タウングー朝に雇われていたポルトガル人の部隊は降伏を認めず射殺した。
幕府軍は制圧したミャンマー族の居住地域で徹底的に刀狩りを行い、支配者階級は島流しとされ、村単位での自治制へ移行。つまり、ミャンマー族支配地域はそのまま幕府直轄地となり、村や町レベルでは彼らの自治を認めた。
ペグーの再興もモン族へ認めたが、王朝ではなく、自由都市として合議制になる案を提示。ミャンマー族に奪われた土地の収容は手続き過程を取り決めた上で認める。
幕府軍は現代におけるヤンゴン(旧ラングーン)へ首都を置いた。この時代ではダゴンという小さな漁村である。その上で、あらたなる国名をシャンバラと定めた。
仏教におけるシャンバラとは国を治めるヴイシュヌ神10番目の化身カルキが王であり、ひとつのカースト(金剛のカースト)へ統一し、カースト制度の解消が説かれたという。
ようするにヒンドゥー教のプラーナ文献におけるカルキ伝説を利用した、時輪タントラ(インド仏教における後期密教最後の教典)によるヒンドゥー教の否定である。
シャンバラはサンスクリット語で“幸福を維持する”といった意味合いだという。余談だが、大阪にある強力なパワースポットとして知られるサムハラ神社はシャンバラが転化、などという説もある。
こうして、タウングー朝は滅亡し、東アフリカ以東におけるポルトガル人の活動拠点は完全消滅した。
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