第212話 丹羽長秀とジンギスカン

 瀋陽も昼間は大分暑くなってきた。遼東各地や明国内からも一旗挙げようというものが沢山集まっており、大変な賑わいを見せている。瀋陽以外に力を入れてるのは大連と丹東だ。この他にも清州の領域内ではあるが、割譲された長春と吉林を開拓するため日本人を相当数送り込んだ。


 そうこうしている内に日本から移民団が送り込まれてきた。2回に分けて来るため、今回は2万5千程で農民出身者が多い。大半は各地の町において、商工関係の仕事へ従事する事になっている。


 遼東半島における織田幕府絡みの沖仲士(荷役)は陳徳永が請け負っており、他にも明国内から大量の娼婦を送りこんでいた。結果、花街も陳徳永の勢力が仕切っている。遼東府(遼東州)では花街に対して様々な取り決めを定めた


 花街へ専属の医者を置く。女性に対して暴力の禁止。年季奉公の禁止。人身売買の禁止。借金による強制労働禁止。これらは公式の法度であり、役人が取り締まる。しかし、現場担当は明国人であり、厳しく禁じても賄賂の横行は防げない。


 そのため、毒を以て毒を制すではないが陳徳永の出番となる。陳徳永の代理人が花街の年寄として睨みを利かす。法度破りの他、女性の引き抜き、ボッタクリ行為、客引き行為、売り掛けの弁済など悪質な行為が露見すれば、直ぐ様強面の手下たちがやって来る。


 さらに遼東府は日本から来た商人、遼東商人、山西商人、徽州商人(安徽省)、山東商人などを集め今後の産品育成が示された。具体的には以下の通りである。絹、綿、羊毛、毛皮、煙草、甜菜、朝鮮人参、油、石炭、鉄。


 それぞれの商人について説明しておく。遼東商人は商幇としてのまとまりは弱い。常に女直や蒙古に脅かされたり朝鮮族の多い土地柄。馬、牛、皮、朝鮮人参などを扱う。


 山西商人は三国志の英傑関羽を崇拝しており、団結力があり堅実な傾向。土地に根ざした商売が得意で、権力との結びつきも強い。塩、生糸、綿、穀物、金融などで有名だ。


 徽州商人は何にでも手を出す。遠く離れた土地へ行き、行商するのが得意だ。なので、金が動く天津や遼東にも大勢押し寄せて来ている。特に塩、茶、絹、文具、穀物の取り扱いに長けている他、質屋でも有名。


 山東商人は繊維や茶を得意として、閉鎖的な傾向は薄く、開放的だ。山東人の特徴は温厚、実直、忍耐といわれるが、商人気質も似ている。


 遼東府としてはそれぞれの特徴を活かし、山西商人は統治機構に取り込む。山東商人は御用商人的な役割を担う日本の商人と組ませる。徽州商人と遼東商人は末端で幅広く活動してもらう方針だ。


 養蚕、綿花、煙草、甜菜糖には日本より膨大な資金を投入するが、他に力を入れてるのが鉄と石炭だ。鞍山の鉄と撫順の石炭。既に山東人が大勢働き、賑わいを見せている。鉄、製塩、冬場の暖など、薪を使えば、いくらあっても足りない。


 どの時代でも燃料は重要だ。これを統治機構で抑えれば収入の柱にもなる。遼東統治においては税収を軽くし、明国各地から移民を集める方針だ。その代わり、石炭、煙草、甜菜糖、塩を専売的に扱う。


 鞍山の鉄は前漢の武帝以来の歴史を持つ。清の時代に満洲で鉄採掘は禁止され、廃れる。西暦1905年の日露戦争後、日本は満鉄(南満洲鉄道)を設立。満鉄は鞍山付近で鉄の大鉱脈を発見し、鞍山の鉄と撫順の石炭を開発。


 こうして設立されたのが鞍山製鉄所だ。満洲国時代の1933年には昭和製鋼所と改称。八幡製鉄所に次ぐ生産量を誇ったという。


 また、鞍山郊外には満州三大温泉といわれる湯崗子温泉がある。遼東府は保養地として開発を進めており、幕府軍将兵が利用していた。唐の時代に発見された温泉でラドンが含まれている。天津から脱出した愛新覚羅溥儀が、満州国建国までの間逗留していた事でも知られる。


 この他にも遼東湾随一の湊である営口の熊岳城温泉。朝鮮との国境の丹東にある五龍背温泉等も開発され、やはり幕府軍将兵が利用していた。あまり知られてないが旧満州、とりわけ遼東は中国有数の温泉天国でもある。


 冬場、鞍山の鉄鉱山視察と称して湯崗子温泉へ頻繁に通ってた丹羽長秀は暖かくなると瀋陽で政務を行っていた。北方で直江兼続が暴れているほか、アル・ホルチン部(阿魯科爾沁)をウラ国やノン・ホルチン部(嫩科爾沁)が攻めている。


 そのため、隣接するハルハ部(喀爾喀)やホルチン部と関係の深いチャハル部(察哈爾)などからは度々使者が訪れていた。直江兼続については知らないといい張り、アル・ホルチン部はホルチン部内の紛争で済ますつもりだ。


 今のところハルハ部やチャハル部が加勢したり、歯向かう気配はない。蒙古系諸部と懇意にしていたイェヘ(葉赫)が事実上ウラ国へ吸収されたのを見て、相当警戒している。また、無制限に開放された馬市への参加を失いたくない。


 蒙古からは馬、牛、羊毛を大量に買い付けている。瀋陽の長秀へ蒙古の族長から春先には産まれた仔羊が届けられていた。羊肉については幸田広之が記したレシピがあり、それに基づき調理されている。


 中でも人気あるのはジンギスカン、しゃぶしゃぶ、羊肉串、ラムチョップの炭火焼、ラム肉のオイルフォンデュなどだ。そこで、ある日の食事風系を紹介しよう。


「又左よ、羊肉も食い慣れるとうまいのぉ」


「五郎左殿、老肉(マトン)と若肉(ラム)は別物でござる。まだ草を食べずに母親の乳だけ飲んだ若肉は臭みもない上、柔らかい。日本に戻ったら、なかなか食べられませぬぞ」


「それ程、若肉が好きならば、藤吉郎と一緒に残って蒙古に住んでも良いぞ。沿海府長官殿なぞ、昨年の初夏から蒙古を攻め続けており、そろそろ援軍も必要じゃろ」


「若肉も良いですが、やはり日本の食べ物も捨て難い。しかし、ウラ国からの話ではかなり派手に暴れてるようですな」


「やってる事は殺したり、犯さぬだけで、野盗とさして変わらぬから、あやつも色々心中穏やかではなかろうが、蒙古への対応は厳しくせざるを得ない。隙あらば襲ってくる。おなごは子供から老婆まで犯され、狩りでもするかの如く無抵抗の民も殺し尽くされ、家も焼かれてしまう。家畜も全て持ち去られるしの。郷里の山西省は今から50年程前に襲われ、多くの人が撫で斬りとなったそうじゃ。陳徳永の祖父も蒙古に殺されたと聞く。富裕な商家だったやつの家はそれで傾いたらしい」


「そのような連中と隣あって暮らすのは無理ですな」  


「そういう事じゃ。さて食い物が出てきたぞ。今宵はジンギスカンとしゃぶしゃぶであるな。毎日食べても飽きぬ」


 ジンギスカンは厚めに斬った上、さらに切り込みを入れている。醤油ダレではなく、味醂、酒、蜂蜜、胡麻油に軽く漬け、塩と山椒振って鉄板で焼く。肉以外に葉ニンニク、もやし、玉葱が大量に焼かれる。焼き上がったら醤油ベースのタレか味噌ダレに付けて、後は食べるだけ。


 しゃぶしゃぶは肉の他、葉物野菜、豆腐、幅広の緑豆春雨、餅などが入っている。タレは現地の味噌、豆豉醤、醤油、唐辛子粉、辣油、味醂、砂糖などが使われており、鍋の出汁には大量の酒が入っていた。


「ジンギスカンは美味いのぉ。軽く火が通った位が食い時じゃ。これは酒も進んでしまう。天下の逸品とはこのこと」


「五郎左殿、こちらのしゃぶしゃぶもとろけるようですぞ。この味噌ダレも実に美味い。遼東は海と川の魚が豊富な上、羊も格別。遼河沿いで取れる米も良い来ている。その上、温泉まであるし、冬は家に暖が整い温かい。言う事なしですな」


「それ程良いなら藤吉郎残るよう手配しておくぞ」


「いや、それとはまた話が……」


 こうしてラム肉と酒が進むのであった。




 

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