第210話 直江兼続の蒙古征伐

 西暦1593年5月。先頃、沿海府には日本から3万の民間人と1万の兵が来た。このため丹羽長秀が連れて来た兵の内、およそ1万4千程が帰国するため、沿海州を去ったのである。


 民間人3万の内、北河国と栄河へそれぞれ1万が向かった。さらに新しく来た兵の内、5千が栄河へ向う。昨年から滞在していた約1万5千の内、1万も栄河に向うので、栄河行きは兵と民含め計2万5千。沿海府と角倉に残るのは計2万となる。


 沿海府と角倉は目覚ましく発展しており、新しく来た者たちは驚きを隠せない。煉瓦作りの家屋、銭湯、倉庫、養豚場、養鶏場が建ち並び、トナカイの馬車や黒龍江を無数の船が行き交う。家屋も暖房が完備され実に暖かい。


 周辺には小舟の造船所、煉瓦工場、瓦工場、泥炭の採掘と干し場、木炭の炭焼小屋、暖房設備のある養豚場と養鶏場、沿海酒の酒蔵(ウオッカ。白樺の炭で濾過する)、木材加工場、金属類の製錬場、風車製粉小屋、皮の加工所、革製品の工場、魚の加工場、醤油蔵、味噌蔵、油蔵、塩田、甜菜糖加工場、銭湯、養生所、各種問屋、穀物倉、寺などある。


 茶店、蕎麦屋、うどん屋、拉麺屋、焼鳥屋、温寿司屋、奈良茶飯屋、肉饅屋、餃子屋、豚焼肉屋、釜飯屋、定食屋、居酒屋、和菓子屋などもあった。日本の寒い地方と比べてさえ快適そうで、拍子抜けしてしまう程だ。


 角倉では塩を作っているが、海水をひたすら煮詰めている。地形的に入浜式塩田や揚浜式塩田が難しいからだ。ローテクの極みだが仕方ない。燃料は木材ではなく泥炭を使っているのが救いだ。


 入浜式塩田や揚浜式塩田より効率の良い流下式はポンプが必要となる。転生・転移系の小説で流下式の場合もあるが、実際はほぼ不可能だ。浅井戸のポンプ程度なら作れたとしても、7~8mもある高さまで送り込めない。


 そもそも大気圧の関係で10m位が限界なのだ。しかし、実際は良くて8m、せいぜい6mといわれている。多段式にしてポンプで送れるかも知れないが、やはり現実的とはいえない。


 海に岸壁みたいなものを作り銅合金鋳物管のポンプを使う。これを木製の水路で浜へ傾斜により流す。貯水槽に入った海水を2回程ポンプで汲み上げれば理論上は可能だ。合計3回のポンプ使用となる。


 ポンプでなく古代ギリシャの数学者ヘロンが考えた『ヘロンの噴水』と水車みたいなものや人力を組み合わせれば可能性は若干ある。それでも水圧が弱い。金沢城における『伏越の理』は逆サイフォンの定義だが、問題外。普通にサイフォンの原理にしても同じだ。


 何れにしろ流下式は綺麗な海水を使うため沖合数十mくらいから引く、となれば厳しい。仮に海中4m、地上8mの計12mとしたら、ポンプ1回で海水を汲み上げられないのは、これまでの説明でご理解頂けるだろう。


 技術云々でなく無理なのだ。井戸の手動ポンプはハンドルの上下によって、ポンプ内を真空にしようとするため、圧力差で水が上昇する。ならば、完全人力で流下式を行うとしよう。これなら可能ではある。ほら、やれば出来るだろう、という声もあろう。


 しかし、手間を省くための流下式なのに逆方向だ。先ずは天秤棒で海水を担いでくる。これを8m上に運ぶ。マンションでいえば3階から4階の途中くらいだろう。


 桶をリレーするのに8人必要なら、奴隷を使わない限り、普通に入浜式塩田や揚浜式塩田の方が効率的なはず。1杯15kgだとして、こんなもの、仮に1日1500個移動させたら、いくら鍛えられている戦国時代でも無理だろう。


 1日で手、手首、肘、腕、肩、胸、背、腰、脚に大ダメージ負ってパンクするのは確実だ。恐らく奴隷時代の珈琲農園や砂糖黍農園より重労働なはず。港湾荷役夫より負担大きい可能性もある。よほど高賃金でなければ離職率高くて当然。高賃金なら普通に揚浜式塩田や入浜式塩田の方が良いだろう。


 他にもアルキメデスが考案したとされるアルキメディアン・スクリューといわれる螺旋式のポンプもある。ただ人力で動かすのは無理がある上、海に突き刺して利用する場合、海流や砂の動きなどで、仕掛けが流されてしまいかねない。ようするに不安定な代物だ。


 どうしても流下式でやるとしよう。汲み上げた海水は、よしずを伝わって下に流れる。濃度が増した海水を集めて、また上から落とす。濃縮された鹹水になるまで約1週間。無論、屋外でやる場合は天候に左右される。そこから、さらに煮詰めるわけで、ほぼ自動化されない限り、むしろコストが増えてもおかしくない。


 さて、塩の話はさておき、兼続の冬季蒙古遠征に触れたい。昨年、兼続はバイカル湖方面へ向けてトナカイの部隊で向かい、ブリヤート人と遭遇した。有力族長たちと交流し、貿易する事で合意。とりあえずは馬と皮を買い付けて帰還。


 そして冬場になるとトナカイにソリを付けて数千の大部隊で黒龍江の北側を大興安嶺山脈と小興安嶺山脈の間にある平原地帯を目指した。蒙古系部族は夏場は草原地帯を移動し、冬場の越冬地に草を残しておく。


 つまり、広い地域に分散している。そこで、身動きがあまり取れない極寒の時期に、孤立した集団を片っ端から潰すのだ。身軽な斥候が冬営地を見つけ、襲撃して制圧する。


 全ての武器を取り上げ、羊は持ち運べる分だけ解体し、他の羊は全て殺してしまう。馬は1匹残らず取り上げる。硬いチーズなども同様だ。複数のゲルがあれば、ひとつのゲルに押し込み、残りのゲルは没収。


 本来、幕府では略奪を厳しく禁じているが、蒙古諸部族に対しては戦闘員と民間人の区別は困難なため、戦闘後に処刑、強姦、奴隷とする以外、ある程度の事は認められてた。


 そうはいっても馬が無ければ移動も出来ないし、家畜が処分されては、糞で煮炊きや暖も取れない。死ねといってるようなものだし、実際そのつもりである。蒙古部族に力を付けられても百害あって一理もないからだ。対策に莫大なコストを掛けたくない。


 こうしてオンリウト部 (泰寧衛)系統の部族とウリヤンハイ部(兀良哈)は大きな深傷を負った。そして、雪解けとなり、またもやトナカイで遠征。ソリは無いが、食料はほぼ相手から調達可能だ。大量の馬も手に入る。


 越冬した遊牧民は春になり、家畜の出産が落ち着くと移動を開始。しかし、草原のあちこちで異変に気付いた部族は騒然となっていた。謎の部族による襲撃だが、見当もつかない。


 そうこうしているうちに兼続たちが襲ってくる。銃武装した戦国の兵士に勝てるはずもない。ましてや全て奇襲だ。先に気づいてもゲルや家畜を簡単に移動出来るはずもなく、戦わなければ降伏する以外、選択肢が残されてないのである。


 降伏しても、やはり冬場の遠征と同じ目に遭う。馬、ゲル、チーズ、運べる分だけの羊肉は取り上げられ、あとの羊は全て殺される。これを繰り返している内、何度か大集団が現れたが、全て撃滅。


 蒙古部族とはあまりに異質かつ執拗な攻撃を受け、耐えかねたオンリウト (泰寧衛)部族系統の部族は続々と降伏するか、逃げるという2派に分かれた。降伏の条件は馬と羊を没収の上、沿海州へ強制移住し、農民か雑役夫になる事だった。


 ここに至って、彼らは敵の狙いが略奪や土地でなく、草原からの駆逐だと悟ったのである。各族長たちが集まって話したが結論は出なかった。遊牧民へ生活様式を改めさせるのは不可能に近い。多くの部族は西北の方へ逃げ去った。


 ウリヤンハイ部(兀良哈)の一部も東南へ逃げ、ハルハ部(喀爾喀)やアル・ホルチン部(阿魯科爾沁)へ助けを求めたのだ。しかし、アル・ホルチン部も春先からウラ国と北河国、さらに栄河城の幕府軍による連合軍から攻められ滅亡の危機に瀕していた。


 アル・ホルチン部はチャハル部に服属を余儀なくされており、弱い立場だ。そもそも同族のノン・ホルチン部(嫩科爾沁)は昔、オイラトに攻められ逃避したが、離脱したジャライト、ドルベト、ゴルロスの下位部族はチャハル部へ服属している。


 ノン・ホルチン部の首長ウンガダイ(恍惚太)は丹羽長秀へ事実上の服属を誓っており、広寧の馬市へ勅書無しで参加可能という提示に目の色変えていた。日本や女直の手を借り、一気にアル・ホルチン部制圧さえ狙っている。


 一方のチャハル部(察哈爾)もウンガダイ同様、広寧の馬市は千載一遇であり、出来れば日本や女直を敵に回したくない。結果、瀋陽の長秀へ和睦仲介の使者を送ったが、ホルチン部の内部紛争なので介入すべきでないと回答され、何も出来なかった。


 早い話、チャハル部に服属するホルチン部系は見捨てられたも同様だ。そんな最悪の状況下でウリヤンハイ部からチャハル部へ謎の部族が狂ったように襲ってくるという話がもたらされ、ウラ国へ探りを入れる使者を送ったところだ。ハルハ部も北東から押し寄せる謎の部族については詳細な情報もなく頭を抱えているという。


 現代における内蒙古の東部は騒乱状態に陥る他なかったのである。





 



 

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