第205話 小西行長のカンボジア征伐
シャムは現在、乾季であり暑いながらも日陰に入れば心地良い風が吹き、過ごしやすい。現在、シャムに住む日本人の数はおよそ4万人で。また、バンコクの住民は明国人3万、クメール人4万、シャム人1万5千、琉球人5千、インド人5千で日本人を含めれば13万5千という東南アジア随一の都市となっている。
貿易については、従来王室が権限を握っており、ほぼ物々交換であった。現在では織田幕府が管理するバンコクの貿易については独立している。しかし、シャム最大の貿易品は圧倒的に米であり、これを王室が独占するのだから、事実上あまり関係ない。
要するに幕府がバンコクで貿易を管理しようが米さえ王室から仕入れさえすれば良いのだ。他に王室の倉庫にある物は優先的に買う。そもそも銀貨などあるにはあるが、貨幣取引は活発といえない。日本でいえば奈良・飛鳥時代レベルといえる。
奈良時代の西暦760年に日本で最初の金貨幣である開基勝宝を始め、銀貨や銅貨が鋳造されたという。アユタヤ王室は米を産物を物納させ、貴重な渡来品や銀などを蓄積し、諸侯への優劣を付けるという程度であり、史実において脱するのはチャクリー王朝からだといえる。
しかし、バンコクでは幕府鋳造の天正銭や金銀貨幣が流通しており、手形決済なども行われている。住民の多くは建築や運河開削の他、製糖、製塩、魚醤、酒造、油、味の友、煙草、鍛冶、造船、薬、磁器、陶器、絹織物、綿織物、麻織物などに従事していた。
バンコクで生産されたものは東南アジアからインド方面へ流通する。一昨年に脇坂安治がインド航路を拓いて以降は、日本や台湾からの商品と一緒に昭南島へ送られた。
当初、ポルトガルのマラッカを牽制する役割であったが、インドのにより中継貿易港として格別の存在となっている。周辺の島々も抑え城塞や砲門を完備し、多数の軍船が常駐していた。
さらに、マラッカの北方にあるクアランプールの一帯も開発している。マラッカ正面の島へも常駐しており、もはや完全包囲していた。中継貿易しか出来ないポルトガルは日本の圧倒的な産物、現地生産能力、資金力、動員力、武力、船舶数に為す術ない上、とうとうマカオを失ったのは致命的だ。
もはやハッタリが通用しない。さらに、ホルムズ、ジブチ(既にオスマン朝から奪回されている)、ゴア、マラッカなどの武力占領や強引なキリスト教化を各地で言いふらされ、警戒されている。
イエズス会宣教師が得意気に贈答品としていた、時計、地球儀、鉄砲などは日本も作っており、ガレオン船でやってくるのだ。そして、豊富な商品や金と銀を携えている。
現在、ジョホール王国領内で大量のガレー船も続々と造船されている他、マラッカ近辺の村へ幕府の役人が入っており、いつでも侵攻可能な状態だ。南方情勢は大きく動きつつある。
そんな最中、バンコクの小西行長は天正20年(西暦1592年)に日本を出た船団がシャムへ到着するやカンボジア侵攻へ向けて着々と準備していたの。既にナーレスワン大王との間でカンボジア分領の取り決めも出来ている。
日本はカンボジア南部、現代でいうところのプノンペン、メコン川の西、カンプチア・クロム(ホーチミンを含むベトナム最南部)を制圧し、そのまま領土とする。
カンボジア制圧後はラーンサーン王国(現ラオス)への侵攻も合意済みだ。行長はナーレスワン大王へラーンサーン王国南部のチャンパサックを欲し、ヴィエンチャンとルアンパバーンはシャムへ譲ると提案していた。ラーンサーン王国は現在ミャンマーのタウングー朝へ帰属している。
これは幕府の策定した案に沿ったもので、シャムは出来る限りラーンナー王国やラーンサーン王国へ目を向けさせ、当分はミャンマー本土とマレー半島へ本格的な侵攻をさせないというものだ。
こうして、小西行長はおよ2万の兵でカンボジアへ出兵した。現代でいうシアヌークビルから上陸して北上する小西行景軍とカンプチア・クロムから艦隊でメコン川を登る小西行長軍だ。
先に上陸した行景は瞬く間に周辺を制圧。これに対してカンボジアの王都ロンヴェクでは、まったく対応出来なかった。そして行長はカンプチア・クロムのプレイノコール(現ホーチミン)を経由してチャット・ムック(プノンペン)へ破竹の侵攻。
チャット・ムックも難なく陥落させ、カンボジアの王都ロンヴェクまで、僅か9里(約36km)程だ。行長は弟の行景と合流し、ロンヴェクへ降伏の使者を送った。そして、使者と一緒にイエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来訪。行長へ面会を申し入れたのである。
「アウグスティヌス殿(小西行長)、何故カンボジアをお攻めになるのでしょうか。神の教えや正義に背く行為ですぞ」
「宗麟殿の署名を偽造したり、ポルトガルがゴアやマラッカを武力で占領したことは神の教えに叶い、正義の行いとでもいわれるか」
「カンボジア国王は既にフィリピン総督へ属領となる旨、決意されておりました。これはイスパニアに対する攻撃と同じ」
「我らはナーレスワン大王からの要請を受けたまで。カンボジアを攻めることは明国からも承諾を得ている。そなたはイスパニアを頼りにするが、今や日本は明、シャム、ジョホール、バンテンなどと条約を結び、懇意な間柄じゃ」
「……」
「それと、丁度聞きたい事があっての。ポルトガルがペルシャのホルムズというところを奪い取ってるであろう。かつて羽柴筑前殿へ仕えていた脇坂安治がホルムズを訪れ、捕まって酷い拷問を受けた挙げ句、荷物を奪い取られたそうじゃ。そなたたちの国で、かような行為は戦争と見做すそうじゃな」
ヴァリニャーノは驚愕せずにはいられなかった。日本の船がインド方面へ航路を切り拓いている事は知っている。しかし、ペルシャ湾にまで到達しているのは初耳だ。その上、捕まって荷物を奪い取ったのが事実なら事態は最悪といえよう。
「私には知らぬ事です」
「まあ良い。しかし、そなたがカンボジア国王へ、フィリピン総督領の属領となり保護を受けるよう脅しておったのも戦争に等しき行為じゃな」
「待たれよ。私は脅してなどおりませぬぞ」
「それではカンボジア国王の使者が嘘をいっておるというのだな。使者によれば、国王は全てお主に脅された事でおり、騙されたといってるそうじゃが」
この後、ヴァリニャーノは行長にロンヴェクの王朝側へ引き渡されるか、日本の保護を受けるか迫られた。このまま戻れば、命の保証はなく、日本の保護を受け入れる。
それから数日して、トンレサップ湖沿いで凄まじい略奪を重ねながらシャム軍がロンヴェク方面へ侵攻。観念したカンボジア国王は行長へ降伏した。西暦1593年4月の事である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます