第204話 地中海の風雲児脇坂安治
短期間で一躍エジプトの有名人となった脇坂安治はカイロの外れにある古い住宅を買い取って改修。そこを日本大使館と商館にした。さらに、隣接する土地へ大使公邸と安治一行の宿泊施設を建設。
安治の住む大使公邸は風呂やサウナも整っている。エジプト人、またはクリミア・ハン国によってモスクワ大公国領内から連れてこられた奴隷(ロシア人やウクライナ人)の女性たちが女中をしていた。
奴隷は買い取っており、解放した上で個人の意志により働いてもらっているという形式だ。他にも各国・各地域から連れてきた奴隷は結構いる。何故なら異国人と貿易を行う場合、対価として最も手っ取り早いのは奴隷なのだ。
そのへんは史実における南蛮貿易も似たようなものであろう。九州から日本人女性が売られていたという。舶来品は欲しいけど金や銀を持っていなければ、奴隷が対価となるのは自然だ。
ポルトガル人やイスパニア人が一方的に悪いという話ではない。無論、倫理的に問題がある。しかし、そういう現実があったのも歴史の事実なのだろう。
貧しい地域で碇泊すれば、現地人が小舟で娘を連れて来たりする。そして、僅かな食料と引き換えに売り渡す。日本でも昔は飢饉の時や作物が十分取れない山村において口減らしなどあったはず。昭和や大正の時代でも年季奉公という事実上の人身売買はあった。
安治たちは戦国時代を生きた人間なので、当然現代人と常識や人権感覚は異なる。場合によって人が売り買いされるという現実を理解しており、対応も心得ていた。
問題になるのは幕府の法度だ。国外においては直接的な奴隷狩りを禁じている。しかし、買い取る事については条件付きで認められていた。相手の境遇と意志が第一で、働かせる場合は相応の対価を支払う。
また、日本人と同じ扱いが前提だ。日本人同様、意味もなく殺したりすれば犯罪となる。決して安治が独裁的権限を有しているわけではなく、法的な問題がないか、事あるごとに協議されていた。判断が割れる時は多数決だ。
あちらこちらで奴隷を受け入れた結果、多国籍集団となっている。安治のもとには、日本人、明国人、琉球人、呂宋人、クメール人、シャム人、ジョホール人、バンテン人、インド人、エジプト人、スーダン人、エチオピア人、ペルシャ人、ソマリ人、イエメン人(スンニ派)、ロシア人、ウクライナ人、ギリシャ人などが居る。
オスマン朝が滅ぼしたマムルーク朝は奴隷軍人たちの反乱によって出来た国だ。マムルーク朝に倒されたアイユーブ朝はマムルークという主にカフカスや中央アジア方面の奴隷を軍人として使っていた。
言葉は悪いが奴隷先進国ともいえよう。安治が居住しているエジプトでもマムルーク朝名残りの奴隷軍人(の家系)は健在である。そもそもトルコ人自体が元来はアッバース朝などのマムルークだった。
捕らえられて奴隷になったり、売られるのが常識なので、無視するわけにもいかない。安治は幕府の法度に従い、合意の無い性行為は行わないことを是としている。女性たちは当初、性奴隷となる事を覚悟していた。しかし、何もされず労働時間も決められ、賃金を支給されるのだ。
服も支給され、食べ物は十分与えられる。安治の配下には医師も居て、診て貰えるなど、至れり尽くせりだ。男の元奴隷にしても扱いは同様。暴力を振るわれる事もなく、無理な重労働もない。そんな大使公邸の夕食を見てみよう。
安治は「初めてピラミッドへ登った日本人」「初めてスフィクスを見た日本人」「初めて地中海を泳いだ日本人」「初めて黒海で溺れた日本人」「初めてアクロポリスの丘へ登った日本人」「初めてナイル川を屋形船で遊覧した日本人」「初めて金髪の白人を女中にした日本人」「初めて駱駝に乗った日本人」「初めて砂漠で蜃気楼を見た日本人」「初めてエルサレムへ行った日本人」「初めてボスポラス海峡を渡った日本人」など、後世様々な異称で呼ばれる事になる。
食事については多少日本料理も食べるが大抵は現地風だ。エジプトにはコプト教といわれるキリスト教の一派がある。コプトは古代からキリスト教の伝統を担っていた。
そのため教徒たちは正教会を自認している。決してキリスト教から分派したり、ましてやエジプト土着の宗教や独特の変容を遂げたわけでもない。
コプトはイスラム教徒でないため豚肉を禁忌としておらず、口にする。弾圧され、勢力を落としているが、それなりの信徒数だ。その気になれば、豚肉を食べる事も出来る。
しかし、安治も日本で豚肉など然程口にしておらず、イスラム教徒への配慮から、食べていない。肉といえば、基本は鶏だ。他に羊、牛、家鴨などである。
この日の食事は薄焼きパン、ホンモス(ひよこ豆のペースト)、モロヘイヤスープ、野菜のタヒーナ和え(オクラ、ズッキーニ、玉葱)、シーシュ・タウーク(鶏のシシカバブ)、タアメイヤ(そら豆のコロッケ的なもの)、ティラピアの塩焼きが並ぶ。
薄焼きパンはピタのような感じでアエーシという。この薄焼きパンにホンモスを付けて食べる。オリーブの塩漬けとひよこ豆も添えられていた。タヒーナは胡麻のペーストにオリーブオイル、にんにく、柑橘類の汁を加えたもので、野菜に付けると美味しい。
基本、ほぼ同じで肉や魚の種類が違う程度だ。インドのスパイスには流石の安治たちも苦戦した。それに比べるとエジプトやトルコの料理はインド程スパイスが効いておらず、食べやすい。
朝や昼は珈琲とパンか麦の粥。他にはナツメヤシ、オリーブの漬物、ラブナ(濃厚なクリームチーズ)、ヨーグルト、果物、バステルマ(主に牛肉による生ハム的な物)などだ。
安治や日本人以外にも、大使館、公邸、商館で働く使用人も同じようなものを食べている。しかし、身分格差のある時代においてはそう単純なものではない。使う食器、量、肉の部位、盛り付けなどで、それとなく視覚的な差をつける。
また、イスラム教文化圏なので、そろそろラマダンが近い。約1ヶ月間、日の出から日没まで飲食が禁じられる。昨年は安治たちも断食を行った。暑い地域で昼間肉体労働をして水分さえ摂らないのはかなり危険だ。
ラマダン期間中には極力荷役運搬や重労働は控えねばならない。スエズの施設へ常駐してる者は大変厳しいはずだ。水源がないため船で井戸水の出る地域まで行き、汲んでくるか、海水を蒸留するしかない。
要するに焼酎を作るのと同じような手法で水滴を集める。これとて、大量の燃料と労力が必要だ。やはりペルシャ湾に比べて紅海での貿易は施設維持が大変難しい。当然、幕府の大艦隊を常駐させるわけにも行かず、用の無い時は大半がジブチやインドへ行っている。
さらに、ラマダンといえば日没後だ。断食を終えた後の食事は楽しみであろう。そのあたり、十分配慮が必要である。安治の下で働くエジプト人の家族や親類も呼び集め、期間中毎日食事を振る舞う予定だ。
安治は夕食後、エジプトの測量地図や各地域の産物帳など眺めながら、今頃小西行長のバンコクはどれだけ発展してるのか考えていた。今年中にはアフリカ南端まで艦船を派遣せねばなるまい。
ナイルへ沈む夕陽を眺める安治であった。
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