第203話 敏腕外交官脇坂安治


 ピラミッドに初めて登った日本人である脇坂安治はオスマン朝と通商条約を結んだが、調印まで慎重だった。それまでの経験で、権限を持っていないのに王の代理人だと偽る地面師みたいな者も居たし、嘘八百の契約書、取り込み詐欺など、ざらである。


 契約にあたっては、ラテン語を話せる日本人とアラビア語を話せるジョホール人が頼りで、無論実際何と書かれているのか分からない。幕府のラテン語マニュアルや万国共通の指差し会話集を駆使するなど苦労した。


 安治一行はカイロを拠点として、トルコ語やアラビア語、さらにイスパニア語やラテン語(講師はユダヤ人)の修得に励んだ。既に昭南島(シンガポール)とインドを結ぶ貿易は盛んになっており、スエズにも続々と幕府御用船が来航し、オスマン朝のエジプト総督を歓喜させた。


 これまで、ポルトガルがアラビア海の制海権を握ってるため、インドや東南アジア諸国との貿易が満足に出来なかったのだ。次々と、茶、煙草、絹、香辛料、香料、薬、磁器などが持ち込まれ、沢山のユダヤ商人やアラビア商人も殺到。


 幕府御用船がもたらす大量の商品と金や銀の威力は絶大だ。安治はユダヤ商人にラテン語、イスパニア語、フランス語、ドイツ語、英語、アラビア語、トルコ語の書籍を買い集めるよう依頼した。また、オスマン朝の便宜で集めた学者や技術者も100名程、昭南島を目指して送り出している。


 カイロを拠点にスエズ市、アレキサンドリア、コンスタンティニイェ(オスマン朝の王都)などへ赴き、様々な交渉を重ねてきた。その結果、コンスタンティニイェでフランス大使と接触。フランスの欲しい商品、または買いたい商品の確認をしている。


 無論、話はそれで終わるはずがない。両国が現在、イスパニアやポルトガル、またはそれ以外の他国とどのような関係なのか確認しつつ、互いの有益な関係構築の模索を図った。


 フランス経由でイングランド人、オランダ人(北ネーデルラント)、ドイツ人(神聖ローマ帝国領内の主にカルヴァン派プロテスタント)などをカイロへ招請する約束まで取り付ける。


 フランス経由以外でもカイロのスファラディ系ユダヤ人に神聖ローマ帝国領内のアシュケナージ系ユダヤ人を連れて来るよう依頼していた。また、フランスに地中海で運用する軍艦と商船の建造が可能か打診もした結果、色良い返事を得ている。日本に売る商品の少ないフランスからすれば渡りに船だ。


 さらに、安治は北アフリカや東アフリカ(ナイル川流域を含む)などへも調査隊を送りこんだ。黒海方面だと、クリミア・ハン国はオスマン朝の属国となっており、ウクライナやドン川方面のコサックと対立している。そこで、安治はクリミア半島からドン川流域へも調査隊を派遣した。


 ちなみに安治たちは在地を尊重し、髷を結っていない。普段着はアラブ風であった。駱駝やアラブ馬の扱いにも熟知しており、羊肉も食べ慣れている。涙ぐましい努力の成果といえよう。


 さて、スエズに荷揚げされ商品は幕府の駱駝荷駄隊によってカイロまで運ばれる。駱駝は200kg位まで荷物を運べる上、水無しで日に100kmの移動も可能だ(飲み食いする時は凄い量)。


 1回の移動で駱駝100頭、20tの荷物を運搬したとする。ガレオン船の荷物積載量は80~100t程であり、およそ4~5回で運び切る計算だ。これならば、軍艦の移動など必要無い以上、スエズ運河は当分不要といえよう。


 スエズとカイロは砂漠をおよそ100km程の距離だ。ほぼ平坦であり、2~3泊といったところであろうか。宿泊は羊や山羊の毛織物で作ったテントだ。短い道中、運搬に携わる者たちは珈琲で疲れを癒した。


 16世紀初頭、カイロに世界で初めての珈琲店が登場したといわれている。幕府の駱駝荷駄隊では珈琲に砂糖を入れて飲んでいた。食事は麦の粥、薄焼きパン、ナツメヤシ、オリーブの漬物、ラブナ(濃厚なクリームチーズ)、バステルマ(主に牛肉による生ハム的な物)など、水をあまり使わず短時間で調理可能な物を食べる。


 久しくアラビア海貿易が廃れていたが、脇坂安治の登場で事態は一変した。巨大農耕地帯であるエジプトへ突如としてインドや遥か東方から豊富な産物が流れ込んだのだから無理もない。一躍、脇坂安治はエジプト随一の商人へ、と駆け上がっている。


 幕府の指示書に沿っているわけだが、貿易だけではなく商品作物の開発にも動いた。ナイル川は夏から秋に掛けて水量が増え、氾濫を起こす。これは、夏に発生するモンスーンによって、エチオピア高原へ大量の雨が降り注ぐためだ。


 氾濫によって土壌が入れ替わるため連作障害のリスクは軽減。これぞナイルの賜物だ。氾濫が収まると肥沃な大地で麦などを育てる。現代でもナイル川の綿花栽培は盛んだし、ギザ綿は世界三大コットンと謳われた。しかし、栽培が始まったの19世紀である。


 ナイル川流域の綿花栽培は春から初夏だ。つまり、増水するまでの間ということになる。水量が少ない時期の灌漑施設さえ整えれば、凄まじい量の綿花を採集可能だ。


 ナイル川の氾濫は、毎年必ず発生する。問題は規模だ。数年に一度は氾濫が弱い。そういう土地は困ってしまう。ならば、氾濫はしないリスクを抱えた土地へ持ち掛ける。


 幕府の普請で灌漑施設を整え、独占的に買い付けるのが条件だ。綿花の前には、じゃが芋の栽培も可能だ。こうして、安治たちは綿花とじゃが芋の栽培モデルを土地の支配者や農家へ売り込んでまわっいる。


 羽柴家から織田家へ転じた身なれど、まさに狂い咲きといった活躍を見せる安治であった。

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