第199話 学問のすすめ
幸田広之が現代より持ち帰った専門書で最も翻訳(天正年間の人でも読めるような)を優先させたのは数学だった。この時代、禅寺の僧侶たちは『九章算術』を学んでいる。他にも明国の算術書『算法統宗』や元代の『算学啓蒙』なども出回っていた。
史実においても安土桃山期は計算する時、算木を使っていた可能性が高い(当作では使ってたとする)。広之は転移後、そろばんによる珠算を普及させた。さらに、簡単な統計と確率、幾何学の基礎なども実用化させている。
それを一気に進化させたい。純粋数学は代数、幾何、解析。応用数学は確率論、統計学。先ずは畿内より算術の秀でた者を集め、書籍を投げ込み、様子を見る。恐らく江戸期に舶来へ飛びついた学者の如き反応を示すだろう。
また、織田家の藩校を根本から作り変える必要がある。基本は国語、数学、歴史、文化。これらの他に外国語、天文、航海、測量、経済、法律、医学、兵法、建築、国学、漢学などは、それぞれ別に作る。
天文台は大金でスカウトしたポルトガル人に指導させて観測させていた。完全な暦を作るためだが、一気に完成させたい。史実において大きな転機となったのは徳川吉宗の治世である。
その頃、清朝は西洋天文学に基づく暦を作成していた。清国で刊行された梅文鼎の『暦算全書』が大きな役割を果たす。さらに望遠鏡による天文観測やオランダ人から天文暦学を学ぶなど、改暦を進めた。
しかし、吉宗が亡くなり改暦の主導権を土御門泰邦が握る。進奏された暦法は『宝暦甲戌元暦』と名付けられ、西暦1755年(宝暦5年)から施行。この宝暦暦は貞享暦に補正を加えた代物で宝暦13年9月の日蝕予報に失敗。
幕府は西暦1764年(明和元年)に補暦を命じ、1764年(明和8年)より幕府天文方の『修正宝暦暦』が用いられる。その後も寛政や天保の改暦と続き、西暦1872年(明治5年)11月9日、太陰暦を廃し、太陽暦を採用(詔書が発せられた)。
広之は日本が鎖国せず、世界に出て行く以上、太陽暦を導入させたかった。明にも改暦を勧め、東アジアで同じ暦としたい。また、曜日も太陽暦と対で広めようと目論んでいる。
一応、室町時代や安土桃山時代にも曜日はあった。平安時代、唐より『宿曜経』などの密教教典が伝わっている。宿曜経は『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』の略だ。吉凶を占うため貴族の間で用いられたが、江戸時代に至っても庶民へ普及する事はなかった。
日本で初めて作られた国産の暦は西暦1685年の貞享暦だ。それまでは中華王朝から輸入しており、西暦862年に唐よりもたらされた宣明暦を最後に途絶えていた。つまり西暦1592年においても過去の輸入暦を下敷きにしたものが使われている。
江戸時代の初期は三島暦が幕府公式となった。しかし、江戸中期に最も普及していた伊勢暦は年に200万部も発行されたという。現在、幕府も朝廷絡みの時は曜日を意識している。
広之が戦国時代で暮らすようになって思うのは、やはり曜日の感覚が無いためか、人々の動きは緩慢な印象だ。近代化を推し進めるためには正確な暦と曜日が必須に思えてしまう。
問題なのは暦が占術や吉凶と結びついているため、頑迷な都の貴族たちは昔を是とする傾向なのだ。比較的、説得しやすい近衛前久が生きているうちに何とかしたいところである。
朝廷を納得させるためには理論的根拠が必要なのは当然だ。さらに明国との条約を契機として、欧州への航路も開かれつつある以上、世界標準の暦を作って広める意義を伝える。
西暦に対抗して東洋暦とでも名付けたい。中身はグレゴリオ暦(太陽暦)と同じである。無論、各国で自由な元号を付けるのは自由だ。広之としては単純に「おい、今週中に何とかしろ」などといってみたい。出来れば幸田家中は土日休みにしたいところ。基準といえば度量衡をどうするのか悩ましい。
さて、話を学問に少し戻す。戦国時代に転生・転移する小説では簡単に大学を作ったりするが、そう簡単なものではない。江戸時代の藩校を超えて大学を作るには何段階も必要である。この時代、知識や技術というものは閉鎖的だ。都の貴族、寺、鍛冶、石工、大工、山師、医師などが独占している。
江戸時代になるとオランダや清国から沢山の知識が伝わった。和算の発展にも当然影響している。もはや、唐から帰国した僧や貴族が先進知識や技術を独占する時代は過ぎ去ったのだ。
巷には私塾が咲き乱れた。国学、蘭学、蘭医学、西洋医学、東洋医学、漢学、和算、天文学などである。そういう下地があって明治期にも新たな私塾が興り、やがて近代大学へ至った。
戦国時代にいきなり近代的な大学を作るのは難しい。なので、広之は貴族、武家、寺社、民間へ広く知識が伝わるよう、活版印刷の確立による出版を急いだ。漢籍の翻訳出版書籍は知識人垂涎の的となっている。
広之は大坂、京都、東京に幸田書林という図書館を所有しており、膨大な書籍が誰でも自由に読める。茶房も併設しており、閉鎖的なクラブが台頭する前のコーヒーハウスのような様相だ。京の都でも公家たちは互いに持ち寄った幸田家刊行の活版書籍を読むお茶会(幸田流の)が流行っている。
また、幸田家の指導で、織田家や幕府は様々な統計データや帳簿の作成をしていた。さらに、角倉了以へ委託している測量など、各大名家へ伝えており、現場で培われたノウハウが常識化しつつあるのだ。
かくして平安時代以来といえる学問や文化のパンデミックが起きていた。
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