第196話 王錫爵の帰国
西暦1592年12月上旬。北京に日本へ向かった使節団が戻ってきた。直ちに内閣大学士王錫爵は朱翊鈞(万暦帝)へ強く建言。
「陛下、日本と結んだ条約は我が国に決して不利なものではございませぬ。日本の繁栄ぶりは目を見張るべきもの。法が整い民も安寧に暮らせ、商いも盛ん。そこかしこに寺があり、書店も沢山あります」
「そなたの言上書(建白書)は朕もよく読んだ。船の数は驚くべき数で、銭が十分出回ってる事は承知している。されど、わからぬ点がひとつある。それは、将軍の眷属と諸侯などといった危うい形で合従連衡するでもなく豊かつ強い国を何故作れるのじゃ。遠慮なくいうがよい。内閣大学士のなかで、そなたを使節に選んだかといえば、東夷や倭賊などと蔑すんだり、侮どる事は無いと見込んだからじゃ」
「先ず、日本が如何なる国であるかを知らねばなりませぬ。日本の朝廷は我が国を模したもの。天皇は神話と繋げ、天孫となっており、これ自体は朝鮮や蒙古の神話と似てます。ただ、神々の話と地上での説話的なものは南方風……。倭に関する文献を読んでも百越などの影響が垣間見えます。魏略によれば呉国太白の後だとの事(三国志時代の呉でない)。されど、論衡に出てくる倭人は呉より古いはず。そこへ朝鮮などから北方の説話も取り入れたのでしょう」
「その倭人たちは我が国を範とすべきところ、何故将軍の幕府に全て委ねられるのか。それも朝廷より力を有しながら反乱も起こさず、諸侯を抑え込み、豊で強き国を作り得るのじゃ」
ちなみに明国で幕府とは地方役人の私的な役所を指す。明国朝廷からすれば、将軍如きが国を動かし、幕府が事実上の最高機関などと俄に信じ難いのは当然であろう。
「日本は科挙も取り入れたようですが馴染まなかったようでございます。結果、天皇家や支えるべき一族は荘園を持ち、都から離れない貴人の代わりとして土地を治める武士が台頭。都の貴人を護衛する侍という者も居ったそうですが、今では侍と武士の区別はありませぬ。日本で初めての武士による幕府を築いた源頼朝も天皇の子孫だとの事。武士の大半は天皇家や周辺の一族へ辿り着きます」
「気になってはおったのじゃ。日本から来ておる近衛殿は書面に藤原とある。遼東の丹羽殿も藤原。幸田殿は源。署名を見る限り、源と藤原だらけではないか。天皇を中心に血で繋がれた一族ならば、我が国と土台からして異なる。将軍が力で諸侯を従えるのはわかるが、朝廷の武官ですらない。それが、有り余る武力を有しながら、善政とは信じ難いものだな」
「我が目で見て驚きました。治安はよく、町には塵も落ちておりませぬ。町の至る所に風呂屋があり、人々は清潔。商いも正札が貼られてる場合が多く、何れも騙して高く売りつける心配は無用」
「天津、煙台、上海、厦門、潮州、香港、澳門(マカオ)などが栄えれば、我が国にとって良いと朕は考えておる。内閣首輔の趙志皋が辞任を申し出ており、後継はそなたに任せたい。趙南星、顧憲成、高攀龍、林材などがうるさかろうが難局を乗り切ってくれ」
「陛下の仰せに従うまで。されど、近頃は議論に名を借りた誹謗・中傷や論破すれば良いといった風潮が蔓延っております。李成梁については讒言の懸念ございましたが、結果は事実。然様な事もございますが、讒言は実に多い。讒言や論破を抑えるためには明確な根拠が示されなければなりません。そして、示された根拠の虚実を見定める事が肝要。何でも反対するのは容易き事なれば、対案を出さねば意味無き妨害と大差ありますまい」
こうして王錫爵は内閣首輔(江戸幕府でいえば大老)となったが前途は多難である。王錫爵が帰国するまでの間、宦官と後の東林党が激しく対立しており、前任者の趙志皋はまとめきれなかった。
李成梁の嫡男である李如松は哱拝の乱が鎮圧するや捕縛され北京へ送られて処刑。他にも不正の摘発が相次ぎ、各地の巡撫や総兵が続々と交代。さらに朱翊鈞を引退させようという動きもある。そのため皇帝の暮らす内廷を幸田広之の兵が警護するという妙な事態となっていた。
明国が揺れている最中、王錫爵は帰国した。しかし来日の際、織田幕府総裁幸田広之から渡された土産が多数ある。租借地の代金(支払いは来年以降)、租借地及び各地への投資、沿海府の幕府軍による冬場の蒙古討伐などだ。
また、明国内で布教していたイエズス会のマテオ・リッチは捕らえられ、マカオからポルトガル人とキリスト教徒は追放されてしまったのだ。武力占領を唱える者も居たが明国と正面切って戦争する事は避けるという結論に至った。
マカオを脱したポルトガル人と各国のキリスト教徒たちはマラッカを目指した。一部の船はイスパニアのフィリピン総督へ報告するためフィリピンに向け出港している。
この段階では、明国が日本と条約を結びマカオを含む複数の湊が租借される事など知る由もない。
東アジア情勢が急変しつつあった。
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