第193話 朝鮮への使者

 西暦1592年11月下旬。朝鮮の都である漢城に程近い仁川へ織田幕府の船が停泊していた。帰国の途につく明国使節団を率いる内閣大学士の王錫爵(豊臣政権でいえば五大老や五奉行)が乗船しており、事実上の属国である朝鮮は拒む事など出来ない。


 朝鮮の李朝は西暦1392年に高麗の武将であった李成桂が恭譲王を廃して、権知高麗国事(高麗王の代理)を自称。李成桂は高麗の国教であった仏教を否定し、“崇儒排仏”を推し進め儒教が国教化された。


 李成桂は簒奪後の翌1393年、明国から権知朝鮮国事へ正式に封ぜられる。朝鮮という国号は明国洪武帝から下賜されたものだ。しかし、朝鮮国王として冊封を受けたのは1403年であり、明国第三代明皇帝の永楽帝の時代。李朝第三代権知朝鮮国事太宗の治世であった。

  

 簒奪まで、高麗は元朝の属国だったため、信用は低い。漢族視点で見れば古来よりの恩義を忘れ、蒙古の走狗となった裏切り者なのだから、当然の反応といえる。

 

 始祖は朝鮮王朝実録によれば新羅で司空を務めた李翰だという。李翰の先祖は新羅六姓の一つである楊山村長李謁平の子孫だと看做す見解もある。しかし、李翰の系譜については統一新羅時代から高麗時代、全州地方で勢力を持っていた地方豪族という以外、実態が掴めない。


 李王朝に仕える者は文科(文官)と武科(武官)からなり、いわゆる両班だ。どちらも科挙によって選抜されている。李王朝の歴史を紐解けば、苛烈な党争が繰り広げられていた。


 戊午の士禍(西暦1498年) 、 甲子の士禍 (西暦1504年) 、乙巳の士禍 (西暦1546年) などの士禍が代表的だ。士禍に至る党争の特徴は政策を巡ったものではなく、儒教に基づいた道徳や作法的事柄で揉めたりする。これらは主に儒林の内部抗争であった。


 しかし、西暦1568年に宣祖が即位すると党争は政治色を深めていく。西人と東人が対立し、東人はさらに南人と北人に分かれた。1580年代後半に政権を握っていたのは東人であったが、1589年に東人の鄭汝立が反乱を企て失脚。


 東人に代わって鄭澈を中心とする西人が朝廷の実権を掌握。しかし、東人による嘘の密告で鄭澈は失脚。東人は西人を粛清し、再び政権掌握。この後、東人は南人と北人に分裂。現在は南人の柳成龍や禹性伝が政権を主導しているにせよ、北人との緊張状態という様相だ。


 内情は政治闘争で混乱しているところへ日本と明国の使者が揃って来た。いまだかつて無い珍事に李朝は大いに戸惑う。しかし、従前より薄々察知していた女直や遼東の争乱が想像を遥かに凌駕する事を知り愕然となる。


 女直が事実上、日本の傘下となったこと。そして、日本は遼東や天津を支配し、北京は朱翊鈞(万暦帝)ごと制圧下にあるという事実……。およそ国防どころか国家体制を揺るがしかねない非常事態だ。


 さらに衝撃的だったのは、明国使節団を率いてるのが内閣大学士の王錫爵という超大物。また日本との取り交わした条約の内容である。北京と大坂に互いの公使館を設立するというから信じ難い。


 その上、日本が遼東を支配する他、台湾島と海南島が正式に日本領となること。さらに天津、煙台、上海、厦門、潮州、香港、マカオの租借。南京、杭州、温州、福州、漳州、広州へ日本の外洋船入港と貿易など……。


 普通に考えれば冊封関係ではなく明国が日本へ従属したとしか思えない内容である。これだけでも衝撃的だが、王錫爵は仁川へ駆けつけた領議政の李山海と左議政の柳成龍へ、今後朝鮮国と日本国の外交や紛争に明国は一切介入しないと通告。


 悲嘆にくれる間もなく幕府の使者である中川光重(中川清秀とは無関係。勝幡織田氏の一族で前田利家次女の女婿)に渡された親書は李朝を憤慨と恐怖へ陥れた。


 朝廷で開封された親書を要約すれば以下の通りである。


『第14代仲哀天皇の皇后神功が皇紀860年に征伐して以来、朝鮮と呼ばれる地は我が国の領土である。属国新羅の賊徒高麗のさらに賊徒たる李成桂は王位簒奪後、権知高麗国事を僭称。ならば高麗の時代、元の走狗として我が国へ攻めた事を朝鮮は未来永劫謝罪せねばならない。耽羅島(済州島)は元来我が国へ属しており即刻返還せよ。慶尚道南部、全羅道、忠清道は我が国の領土であり返還すべし。さらに江東六州(現在の北朝鮮平安北道)、興化(現在の義州郡)、龍州(現在の龍川郡)、通州(現在の宣川郡)、鉄州(現在の鉄山郡)、亀州(現在の亀城市)、郭州(現在の郭山郡)は女直の土地であり速やかに清州へ返還せねばならない。また仁川の租借を求める』などといった内容である。


 無論、素直に応じるはずもなく、朝鮮国朝廷は領議政李山海と左議政柳成龍の責任を巡り、紛糾。中川光重は朝鮮国の使者へ「次は戦場でお会いいたしましょう」と伝え、そのまま天津へ向けて出港した。


 朝鮮側では中川光重の発言を巡り、またもや紛糾。徹底抗戦論といくつかの湊を開放で話をまとめようという妥協論で収拾がつかない有り様。


 しかも中川光重は去り際に日本より持参した大量のビラを撒いていった。女直が清州となったこと。遼東や天津を日本が支配していること。北京も日本の制圧下にあること。それらの事が記されている他、李朝による悪政、東人や西人の党争などを糾弾する内容であった。瞬く間に広がったのはいうまでもない。


 果たして朝鮮はどのような決断をするのであろうか。


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