第187話 幸田広之の晩酌⑤
幸田広之は京の都から大坂へ戻ってからも慌ただしかった。明国皇帝への親書や明国使節団を送り出す船への積み荷の確認。または近衛前久の送別会などに追われたが、ようやく船も出港し、ひと息つける。
近衛前久と公家たちに北京の幸田孝之もさぞかし困る事だろう。何しろ関白を務めた者が中華王朝の都へ行くなど前代未聞である。北京と天津を見物した後、大連経由で瀋陽へ行ってもらい来春にでも帰国する手筈だが、前久の行動は読めない。
広之は孝之への書状で前久たちをあまり目立たせぬよう書いたが、無理な相談であろう。無論、前久本人にも極力明国朝廷、役人、民衆を刺激しないよう言い含めたが、不安は尽きない。
船中で明国の言葉を覚えるといってたが、あの身なりでニーハオやシェーシェとか言ってる姿はかなり不気味である。
この日、広之は大坂城内開かずの間で織田信孝、岡本良勝、蜂屋頼隆と密談を行ない来年以降の計画について話していた。いよいよオーストラリア(幕府の名称は豪州)へも金鉱山開発のため大量の人員を送ったところだ。
これから、年を追う毎に大量の金がもたらされ、甜菜糖や煙草の利益などで財政は潤う。これまでの先行投資が回収出来る。問題は脇坂安治がインド各地に航路を繋ぎ、紅海へ達した事はイスパニアのフェリペ2世まで届くはず。
そもそも、このまま行けば来年にはマカオの租借権を得る。その前に明国がマカオからポルトガルを追放すれば、カウントダウンの開始だ。カンボジアがイスパニアへ服属するための使者を送ったことも明らかであり、小西行長に征伐させる他ない。
イスパニアとポルトガルをアジアから駆逐するのは西暦1594年と既に織り込み済みだ。それまで完全に外堀を埋めてしまう。国内的には通貨の発行量も増大し、景気は良い。
さて、大坂城内での話し合いだが、ほぼ広之による一方的な説明会という他ない。疲労困憊で開放されたのは夜の7時頃。役宅へ寄ってから屋敷に着き、慌ただしく風呂で汗を流す。風呂から上がると、いつものようにマッサージを受ける。
部屋に入って直ぐに、お末とお初が酒や食事を持ってきた。お末は春過ぎに待望の女子を産み、仙姫と名付けられ、産後の経過は母子共々良好だ。五徳や浅井二姉妹も可愛がり、幸田家のアイドルと化している。
信孝も今年になって2人の子供を授かっていた。時丸と冬姫を産んだ側室が安姫、さらに4人目の側室が清丸を産んだ。順調に子供を増やしているのは何よりだが、ひとつ懸案なのは三法師の異母弟である吉丸の存在である。
本能寺の変後、岐阜城から安土城へ移り、暮らしているが、2人共そろそろ元服の時期だ。三法師は信孝の養子だが、吉丸はそのままである。このままでは吉丸が本家のような形にもなりかねない。
そこで、津田姓を名乗らせるか、他家へ養子に出すなどの案も浮上していた。岡本良勝、蜂屋頼隆、安国寺恵瓊の3人は子が居らず幕府へ領地を返上する事になっている。養子の線だと有力なのは丹後の長谷川秀一だ。少なくとも1年以内に決める必要がある。
信孝は置いておき、広之の話へ戻すと、お初の妹であるお菊が身籠っていた。お菊の体調や食欲などについてお初から話を聞きつつ、松茸と鱧のしゃぶしゃぶ鍋へ目がいく。
松茸は0.5cm程の厚さで切られている。鱧は皮目を軽く炙られていた。他に、えのき茸、難波葱、水菜、豆腐、葛切りなどが並んでいる。鱧は夏が旬だと勘違いされやすい。京都における夏の鴨川というイメージなのだろう。
しかし、鱧は冬眠する。冬眠前は、よく餌を食べて栄養を蓄えるため、太って脂がのり美味い。食べるなら晩秋が最適といえよう。これなら食欲が無くても食べれる。
出汁は羅臼昆布と本枯節の雄節(鰹節の背側)で取り、味醂、日本酒、薄口醬油で味を整え、上品な仕上りだ。ポン酢、紅葉おろし、九条葱、梅肉ダレなどが揃っていた。
これ以外に、白和え、タタミイワシ、里芋の磯辺揚げもあり、酒を飲むには文句ない内容だ。広之が白和えを口に運んだ後、日本酒をゆっくり飲む。その間に、お初は鱧や松茸などを取って広之へ差し出した。
「やはり、この時期の鱧は良い。松茸との相性は堪えられぬ。これぞ和食の醍醐味じゃ。沢山あるあるゆえ、遠慮は要らぬ。お末とお初も食べよ。下がった後で飲むつもりであろう」
広之がそういうと、お初は直ぐ様自分たちの分も用意してきた。追加の鱧や松茸まである。どれだけ賄いで鱧や松茸を用意しているのか察しがつく。何と珍念紹興酒の10年ものという上等な酒もちゃっかり持ってきてるではないか……。
キャバクラでヘルプのホステスがいきなりアルマンド黒を持ってくるようなものだ。いやアルマンド黒どころではないだろう。日本で最上等の珍念紹興酒10年ものがあるのはどう考えても幸田家だけである。
その希少価値を十分理解した上なのが凄い。別に妹が主人の子種を宿して増長しているとかでなく、ナチュラルだから恐れ入る。現代で六本木や北新地でホストをやれば相当な売上を叩き出しそうだ。
「お初よ……。その酒は鱧と松茸に合わぬであろ」
「承知しておりますが、かような機会でなければ飲めませぬ」
「お初ちゃんったら正直な事」
いや、正直とかそういう問題ではなかろう。そう、思いつつ地獄耳の2人から家中で変わった話はないか聞きつつ、酒が進む広之であった。
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