第182話 明国商人

 ある明国人が瀋陽の丹羽長秀を訪ねて来た。北京から天津へ戻っていた真田信繁(幸村)からの紹介状を持っており、即座に取り次ぎされる。背は高く、どちらかといえば細身であろうか。


 眼光鋭く、付き従ってる者たちは屈強そうだ。信繁の紹介状によれば、名は陳徳永(架空の人物)という商人らしい。幸田孝之へ面会を希望するも厳戒態勢下の北京では叶わず、天津に来たという。


 そして信繁は長秀と会って欲しい、と紹介状を持たせ送り出したのだ。陳徳永は幕府の船で海を越えて瀋陽へ辿り着いた。


「丹羽五郎左衛門尉である。その方、武芸者などではなく商人なのだな?」


 長秀も若い頃から尾張へ流れてくる行商人や無頼の徒を見て育っている。亡き織田信忠や織田信雄の生母生駒吉乃の実家である生駒家は馬借を生業とする土豪だ。馬借は馬を使った運搬業であり、生駒屋敷として知られる小折城には各地から様々な人物が集まっていた。


 好奇心旺盛な織田信長に付き合い、よく生駒屋敷へ行ったものである。そこで能力や器量なんてものは家柄、地位、教養、貧富だけで測れないと思い知った。


 若い頃から目を養ってきた長秀は、陳徳永が只者でないと直感している。そして落ち着き払った陳徳永は静かに自己紹介を始めた。


「それがしは陳徳永と申し、山西省太原の生まれ。昔は趙国の王都晋陽城があった地。商家の三男として生まれ若い頃より各地を商いしながら周り、今は北京に店を構えております」


「何を商っておる……」


「銀と運漕でございます」


「銀でも掘っておるのか?」


「掘る方ではございませぬ。銭舗(両替)や当舗(質屋)などですが他の商人、蔵元、農民に必要な銭を用立てたりします。産物でいえば米、塩、酒」


 長秀は日本でいえば両替、土倉(質屋のようなもの)、船問屋みたなものだろうと思った。長秀は知る由もなかったが、この時代の明国において山西商人は大きな力を持っている。塩と米穀で莫大な利益を上げ、金融にも進出。清代になって山西商人は日昇昌を代表とする金融業の代名詞であった。

 

 明代、太祖の頃に制定された開中法という税制で山西商人は地位を確立。北方民族対策のため、国境付近や最前線には駐屯地が沢山あり、軍糧は倉庫で管理していた。


  商人が米・粟・麦などを納入すると倉鈔(手形)が交付される。これを産塩地の塩運使や塩課提挙司といわれる役人へ持ち込み、塩引(販売許可証)と交換。記載額分の塩を受領し販売出来るのだ。


 つまり税収入の柱ともいえる塩や国防へ深く関与しており、江南地域の海商などとは性質や中央における地位が違う。山西商人は北京、開封、蘇州、杭州、南京など各地に会館や公所を築きギルド的な傾向や連帯感が強い。


 また、明国は広大であるが、黄河、淮河、長江という巨大な大河(及び支流)とそれらを縦断する京杭大運河によって支えられていた。陳徳永は京杭大運河の水運を牛耳っている1人でもある。


 古今東西を問わず港湾荷役は荒くれ者の代名詞だ。アーノルド・シュワルツェネッガー主演のイレイザーという映画でもボルチモア港湾労働者組合というコワモテ組織が終盤において大活躍する。

 

 日本において某大手反社会組織のルーツが沖仲仕おきなかしである事は周知の事実であろう。貨物船の荷揚げ荷下ろしの作業は、手配師が介入しやすい上、作業は力仕事かつ高賃金のため各地から荒くれ者が集まる。


 中国においても清代、江南地域から華北へ京杭大運河を使い、運んだ。従事する者たちは次第に羅教の影響を受けつつ結社化。これが後の青幇(租界時代の上海黒社会を代表する組織)である。初期は漕幇だが、内部においては安清や安慶などと呼ばれた。


 そもそも羅教とは何であろうか。明の正徳年間(西暦1506年~1518年)に羅清という運漕業出身者が開いた新興宗教で、禅宗系とされる。


 西洋についてもギャングという言葉をみれば一目瞭然であろう。ギャングの語源はドイツ語・オランダ語の行進や行列だという。これが英国などへも入り、港湾労働で使われるようになった。


 ドイツ、オランダ、英国の海運・水運といえばハンザ同盟を思い起こすわけで、察するまでもない。現在でもギャングは荷役作業員のユニット単位として使われている。


「塩の横流しをするとか、その程度の話であるまい。有りていに申せ」


「以前より、日本は江南で台湾を通じて抜け荷など行っております。台湾の問屋は為替手形や御用札(幕府の藩札)を使い取り引きしていると聞き及び、かねてから商いに長けた国だと思っていた次第。日本におかれましては、市中に出回ってる何倍の為替手形や御用札を発行されているのでしょうか?」


「申せぬ話だが、数倍といったところであるな。ただの紙に価値をもたせるのは米と金・銀・銅あっての事」


「我が国は日本へ湊を開いたとしても銀は足りませぬ。あの忌々しい宝鈔(紙幣)を発行し続ければ国は滅びましょう」


「江南の農民は米の値が下がり、一条鞭法(万暦帝下で始まった丁税と地税を一括して銀納する税制)のため、銀を欲する。米など作っておられんな。ますます銀は値上がりし、宝鈔は目減りするばかり。物の値も下がる。我が国では米の収穫量、人の数、産物の量などから、金・銀・銅をどれだけ市中へ流し、札を如何程まで刷れるか弾き出しておる……」 


「日本はそこまで銭の事をわかっておるのですな。何れ遼東や天津で為替手形や御用札を扱うはず。その際は是非ともお声掛け下さいませ。日本からの荷を降ろす際の人足、商品の買い取りや買い集めなどもお力になれるか、と……」


「相わかった。日本の商家手代も居るから、その方たちで話してくれ。来春以降、明国に大量の銀を運び入れる。我らが欲しいのは茶、衣服、靴、皮、生糸、木綿、塩、炭、木材、紙、蝋燭、米、麦、豆、牛、豚、酒、生薬、磁器、鉄、鉛、水銀、無煙炭などじゃ」


「日本が売れる物は……」


「昆布、鰹節、身欠き鰊、干し鱈、煎海鼠、干し鮑、ふかひれ、硫黄、薬、石鹸、煙草、焼酎、日本酒、醤油、牡蠣油、味の友、毛皮、漆器、紅など他にもあるが、大抵の物は明国にあろう」


「天津で真田様より煙草を頂きました。日本で余剰があるなら全て送って頂きたく存じます」


「よかろう。それとな、遼東へ人を連れてき欲しい。職人や学者には十分な待遇をする。無論、拐ったり、借金のかたというのは御法度。台湾と同じ扱いじゃ。天津まで連れ来れば後はこちらで引き受ける」


「容易き事でございます」


 その後、陳徳永は幕府御用商人の手代などと話を詰める。さらに瀋陽へ山西会館を作る手筈を整えたり、動きは活発であった。


 陳徳永たち山西商人は華南(淮河の南)の新安(安徽省の徽州を中心とする)商人が競争相手である。日本の上海租借がまとまれば開発を請け負い、江南(長江の南)で足場を固めたいと考えていた。

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