第179話 幸田孝之、朱翊鈞(万暦帝)と会談す
紫禁城での会談が始まった。幸田広之は通訳を交え、朱翊鈞(万暦帝)へ丁重かつ簡潔に語り掛ける。
「大明国皇帝陛下への拝謁を賜り恐悦至極。大日本国源朝臣幸田中納言彦右衛門孝之と申します。我が国は第107代天皇の御代にて皇紀2252年、元号では天正20年。周朝の第17代恵王の代より万世一系。貴国と異なり文官と武官の区別なく、武家の代表が朝廷より征夷大将軍に任じられ
「聞いたの事のない話だが、なかなか興味深い。この国では書物の中に真実がある、と思ってる者の多い事よ……。朕は14代の皇帝であるが、この国の歴史は長い。それを継承しておる。まあ、それは良い。折角の機会じゃ。我が国は長きに渡り、倭寇に苦しめられておった。莫大な費用を使い、これらを討伐し、下海通蕃の禁(いわゆる海禁)を緩めた。何故だかわかるか」
「下海通蕃の禁があろうと密貿易は行われておりました。むしろ禁があるからこそ一部の者は莫大な儲けを手にして、貴国の官吏も取り込まれていたはず。禁を緩めることによって、これまで一部の者が専有していた富の分散……。そして官吏の懐に入っていた賄賂は漳州月港へ税として入る。これによって倭寇の力も削げます。月港で二十四将の反乱というのもございましたな」
「その通りじゃ。されど、ある時を境に入ってくる銀が少なくなった。さらに数年前から銀が殆ど入らず、むしろ減る一方……。何故じゃ?」
朱翊鈞は穏やかに語りつつ鋭い眼光を孝之へ向けた。一瞬、ためらったが意を決した孝之は答える。
「我が国は貴国へ銀を入れないようにしております。その結果でございましょう」
話を聞いていた宦官、佞臣、内閣大学士(閣僚のようなもの)が一斉にざわついた。憤懣やるかたないという顔をしている。
「何故、銀を入れないのじゃ」
「貴国は銀が不足しておられます。我が国は少し前まで貴国の生糸、綿糸、銅銭、磁器、香料、砂糖を欲しました。然るに現在、砂糖以外は貴国を必要と致しませぬ。イスパニアの商船はマニラで貴国の商船から大量の品物を買っておりました。今では大半を我が国で買い入れてます。さらにポルトガルとも現在貿易を停止しており、マカオで買い入れる生糸の量は減少。貴国は現在、寧夏で反乱に手を焼いおられますが、宝鈔(紙幣)の発行は増えるばかり。当然、宝鈔の価値は目減りし、銀や銅銭の価値は上がります。つまり、我が国は金・銀・銅を沢山抱えておる以上、貴国と売買すれば儲けは増える一方……」
朱翊鈞は頷きながら、宦官、佞臣、内閣大学士たちを睨みつけている。睨まれた者たちは顔面蒼白となっていた。
「我が大明国はこのままだとどうなる」
「必ずや滅びます。例えば山海関を越えて華北を襲いまわる。あるいは南直隷(南京周辺地域)、浙江、福建、広東など攻めれば、大量の銀と宝鈔が必要となるのは必定。陛下は頼みとする宦官を各地へ派遣し、官吏に税や鉱物の管理にあたらせる……。つまり大量に発行される宝鈔で物資を買い集めたり、兵士への支払いにあてる。そして商人からは銀や銅銭を取る事になりましょう。巷には怨嗟の声が溢れ、東林書院の官僚は陛下を諫めるはず。しかし、ご不興を買って下野。早晩、大きな反乱が起きるか、攻め込まれましょう」
「既に攻めてこまれておるではないか……。滅びない術はあるのか。無論、日本に服属する以外でな」
「大明国を滅ぼすつもりはございませぬ。さりとて臣下の礼を取れという気もなく、安定した国作りをして頂きたく存じます」
「銀を止められた挙げ句、喉元に刃を突きつけられておる」
この後、孝之は欧州の現状や各地の情勢を説きつつ、経済の安定には通貨が根本であり、十分な金・銀・銅を供給する用意があると告げた。そのためには修好通商条約の締結、両国が一致協力する事で欧州を排除する事を提案。
無論、明国には建前や立場もあるだろうから、幕府としては十分尊重する事を約束した。遼東については明国の安全上、日本が支配し、女直の国土発展を促し、自給の出来る国とする。
さらに、貿易のため天津、煙台、上海、潮州、香港、マカオの租借、台湾と海南島の領有黙認を希望。そして琉球への不干渉、日本と朝鮮の外交に対しての不介入、イエズス会追放を条約外の紳士協定としたい旨、付け加えた。
拒否すれば朱翊鈞の首が飛び、山海関は内側から開けられ、女直や蒙古に華北は蹂躙される。条約締結に向け孝之は北京へ残留する事が決まった。早速、明国の使節は幕府の船で日本へ向うため準備に取り掛かる。また丹羽長秀への使節も送られた。
宦官や佞臣の前に風前の灯火だった東林書院の閣僚は息を吹き返し、連日改革案を協議。また過去の文献、例えば論衡、山海経、漢書、後漢書、魏志、魏略、晋書、宗書、梁書、北史、南史、隋書、旧唐書、新唐書などを日夜紐解き、倭や日本について確認していた。
「ところで将軍が日本の朝廷より任じられるのはわかる。しかし、武家というのは本来武官ですらない存在なのであろう。幕府というのは戦陣における軍営の事じゃな。言葉は悪いが女直や蒙古の首長などに官位を与えて国を統治させるようなもんではないか。それで問題が起きぬとは信じ難い」
朱翊鈞はかような事を孝之に述べたという。長きに渡る華夷秩序から脱するには近代化まで要するのだろう。しかし、ここに、大きな一歩を記そうとしていた。
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