第169話 栄明城
元朝時代、ウラジオストックのあたりは永明城(永遠の光という意味)と名付けられていた。それにちなんで“栄明城”と命名されたのである。さらに北亜地域では皇紀を使う事が決まった。
皇紀は西暦に660年足したものだ。西暦1872年(明治5年)、明治政府は神武天皇の即位した年を記紀の記載から紀元前660年とした。つまり紀元前660年が皇紀元年である。
日本の天皇は万世一系であり皇統の尊さを可視化させるべくあえて皇紀とした。天皇は神であり、その臣下たる織田将軍家が神の命により日本を統治している、という建前だ。
幸田広之からすれば、民族主義者めいた皇紀に抵抗はある。現代に居るときも女性天皇は良いとして、女系天皇は本末転倒だとは思っていた。
しかし、現在の幕府は軍事政権であり、戦前の軍隊よりも遥かに強大な存在だ。完全な統一国家を構築し、近代化する場合、やはり幕府では無理であろう、というのが広之の結論だ。
そうなると幕府や大名という以前に国民意識を少し芽生えさせたい。そうでないと、今後増えていく海外派兵を維持するのも難しいと考えている。
また、これから明国と対峙するにあたり、初代皇帝の朱元璋を意識しているからだ。無論、朱元璋の出自は農民。華夷秩序における皇帝と対峙するならば、そのくらいのハッタリで押し込まないと駄目だろう、と考えている。蒙古系のカアン(カアンとカンは違う。同じくハーンとハンも。カアンとカンはモンゴル語に近い)も然りだ。
李氏朝鮮などは明の永楽帝から朝鮮王の冊封を受けて189年にしか過ぎない。何れ朝鮮王へ書状を送るが、内容は「第14代仲哀天皇の皇后神功が皇紀860年に征伐して以来、朝鮮と呼ばれる地は我が国の領土である。属国新羅の賊徒高麗のさらに賊徒たる李某は農民の息子永楽帝から勝手に冊封を受けるとは無礼千万。先ずは慶尚道、全羅道、忠清道、済州島を速やかに返還せよ。さらに元の走狗として高麗が我が国へ攻めた事を朝鮮は未来永劫謝罪せねばならない。償いを形にするため毎年、税収の半分を向こう百年寄越すべし」といった聖徳太子こと厩戸皇子も仰天の文章にしたい。使者に任じる対馬宗氏の家臣は首を刎ねられるだろう。
それでも、このくらいの勢いで行こう、と広之は勝手に思っていた。無論、朝鮮全体を領土化する事は考えていない。最終的にいくつか租界を作り、貿易の自由化で十分だ。
さて西暦1592年5月、幕府の大艦隊は栄明城へ無事に到着。徳川家康、伊達政宗、蒲生氏郷、稲葉貞通、黒田長政、蜂須賀家政、堀秀政、毛利輝元、小早川隆景を幸田孝之が出迎えた。
およそ2万人程であるが、全て兵士というわけでない。雑用などを行う黒鍬衆(普請や陣中の雑役などを行う者)、荷駄、水夫、民間人などを含めているので戦闘要員は半分程だ。人と物資を降ろした船は日本本土に戻り、補給してまた同じように来航する予定である。
昨年、孝之はおよそ1万を率いており、栄明城地域の軍事勢力としては桁違いだ。野人ウェジ部(渥集部)はほぼ制圧されていた。女直で大きな勢力は海西のフルン四部(扈倫)と満州(建州)だけだ。
日本で言えば海西や建州は大名だが、野人は国人のようなもである。史実における文禄・慶長の役で豆満江を渡り女直と交戦した加藤清正曰く守護のような統治者がおらず、伊賀者や甲賀者のように砦を築いて云々と所感を記している。
昨年、丹羽長秀たちが白河城でウラ国 (鳥拉)と合戦に及び圧勝して以来、野人フルハ部(虎爾哈)の族長たちは北河イルゲンギョロ氏(伊爾根覚羅)の傘下となった。
そもそも北河イルゲンギョロ氏はフルハ部の地に城を構えているが本家筋はウェジ部だ。強大なフルンの有力国であるウラを撃滅したという話は尾ひれが付いた形でウェジ部の族長たちへ伝えられた。尾ひれというのはウラ国が既に服属の上、王子と姫を送り、献納しているというものである。
まさに驚天動地といえる事態だ。さらに、これまで黒龍江方面の皮がウスリー川や牡丹江経由でウェジ部へも入ってきていた。しかし、それが一切入ってこなくなった挙げ句、ウスリー川流域に幕府やフルハ部が侵入。結果、貿易の元手となる商品を確保出来ない。
これを受けてウェジ部の族長が連合して攻め掛かるも見たことのない鉄砲で、やはり壊滅させられた。傘下に入れば献納もなく、日本と自由に貿易が出来ると知った諸族長たちは、次々と降ってきたのだ。
豆満江の北側に割拠するオランケこと野人ワルカ部(瓦爾喀)は西からウラ国、北からフルハ部と幕府丹羽軍、東から幕府幸田軍に攻められ、風前の灯となっている。こちらも皮が入ってこないため窮した結果、猛烈な勢いで豆満江を越えて朝鮮へ侵攻。略奪の限りを尽くしていた。
朝鮮李朝では北辺の異変について把握しつつあったが、正確な情報を得ていなかった。しかし、幸田孝之はワルカ部が豆満江を越えて略奪へ奔走するのは織り込み済みであり、着々と備えつつある。
先ずは現在の牡丹市に拠点を建設しつつ、豆満江河口域の東側に豆満城を築いた。日本人が普請の指示を行ったが、極力目立たないようにして、服属したウェジ部の女直を動員。
北条氏の堅城として名高い山中城を参考にしたもので、無数の障子堀で囲まれている。小勢では頑張っても落城させることは難しい。障子堀とはワッフルのようなものだ。
兵が大勢で押し寄せる事は出来ず、ワッフルの凸に居れば狙い撃ち。凹に落ちれば這い上がれず身動き取れない。やはり狙い撃ちされてしまう。しかも豆満城の障子堀は城壁に対して斜面を下がっていく形だ。これでは櫓からは狙い放題となる。城側に十分な兵が居た場合、力押しすれば死体の山となろう。
また豆満城の東約20kmの地点に大きな入江があり、湊として整備した。城と湊のどちらもモンゴル文字や漢字、中華風や女直風の文様で彩られた旗が無数に翻っている。ちなみに金国時代、女真文字というのが創出されたものの途絶えていた。契丹文字や西夏文字同様、漢字ベースの文字だ。
後にモンゴル文字をベースにした満州文字(清朝成立後)が作られる。それまではモンゴル文字を使用したり、一部の者は漢字の読み書きが出来たという。
さて、家康たちは大量の物資を運んできた。服属した各地の族長へ栄明城に売れるだけの馬、皮、朝鮮人参など持ってくるよう伝令が飛ぶ。
ハンカ湖周辺の族長は直ぐ様駆けつけたが、通常の交換以外に大量の茶、酒、塩、醤油、砂糖、乾物、米、麦、豆、薬、煙草、布、鉄器など贈られた。
また日本に残った北河城主の家臣で博識の者が居る。この者は漢字をモンゴル字に訳し、女直用の書籍を何冊も作成。モンゴル文字の活版が完成しているためだ。日本語と女直語の簡単な会話集まである。
帰るまでの間、家臣含めて毎日酒とご馳走を振る舞う。数十戸程度の弱小部族にはハンカ湖周辺や栄明城付近への移住を促す。話を持ち掛けられた族長は9割方、ふたつ返事で応じた。
ワルカ部の状況は近接する建州部や海西フルン四部のホイファ(輝発)へ伝わり、事態が大きく動きつつあったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます