第163話 脇坂安治、オスマン朝と交渉す

 脇坂安治一行はアレクサンドリアでユダヤ商人の手配にて小型の帆船をチャーターした。現代でいうイスラエル、レバノン、シリア、キプロス島経由にてコンスタンティニイェ(現代のイスタンブール)を目指す。


 イベリア半島にはユダヤ人が沢山住んでいた(ほぼ過去形として)。大きくわけて2回の波がある。1度目はローマ時代で、2度目はウマイヤ朝の支配時代だ。


 イベリア半島は8世紀からイスラム勢力の侵入により支配されていた。しかし、キリスト教国による長年のレコンキスタ(イベリア半島の再征服活動)が実り、西暦1492年グラナダ陥落でナスル朝は滅亡。


 グラナダ陥落が間近い西暦1480年頃からイスパニアは異端審問に傾倒し始める。そしてレコンキスタが完了した西暦1492年、全てのユダヤ人はキリスト教に改宗して洗礼を受けなければ、国外退去となった。その結果、多くのユダヤ人はコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ教徒)となる。


 その結果、15~20万人のユダヤ人がイベリア半島から流出したと推測され、多くはオスマン朝領へ向かう。これらのユダヤ人はセファルディ(ヘブライ語でスペイン人を意味した)と呼ばれた。これに対し、ドイツや東欧へ向かったユダヤ人はアシュケナージ(ハザール王国系も存在し、ややこしい)と呼ばれる。


 イスパニアがポルトガルを併合すると多くのユダヤ人はアントワープ(アントウェルペン)へ向かった。しかし、イスパニアが南ネーデルラント(現代のベルギーを含む)を領有すると、北ネーデルラント(ほぼユトレヒト同盟でありオランダ)のアムステルダムへ移動。


 それまで北ネーデルラント(※余談だがランドでなくラント。結構間違われやすい)はポルトガルから香辛料を購入していた。それが、イスパニアから独立するため戦争していたが、ポルトガルと貿易出来なくなる。このため香辛料を求めアジアへ向かう。


 17世紀に欧州の覇権はイスパニアからオランダへ移る。イベリア半島から流出したユダヤ人の果たした役割は大きい。


 織田幕府総裁幸田広之は当初、ペルシャと組みオスマン朝から湾岸の油田地帯をもぎ取るつもりであった。しかし、17世紀に入ってイスパニアとオスマン朝は衰退する。


 ならば、オスマン朝経由で蘭英仏と交流し、欧州の先端知識や技術を仕入れつつ、アフリカから先へ進ませない。将来、アフリカから直接欧州へ進み、香辛料、磁器、砂糖、茶、珈琲、綿、煙草、阿片を売りまくり、圧倒的輸出超過と阿片地獄に沈んでもらう。


 それまでは蘭英仏は香辛料を求め地中海でイスパニアと激しく争い消耗してもらうのが理想……。広之はそう考えていた。


 書き換えた構想では、やはりユダヤ人の協力が必要だ。オスマン朝は宗教的に寛容であり、高い関税さえ払えば交流するのは難しいと思えない。一刻も早く欧州へ足を踏み込めば有利になる。そのためイスパニアやフェリペ2世へ少なからず恨みを抱き、金融や貿易に秀でたユダヤ人は是非とも取り込みたい。

 

 さて安治たちだが、彼の下にはキリスト教徒も居り、イスラエルの辺りがキリストの住んでいた土地だと知って満足気だった。しかし、同時に疑問も芽生える。やはり、一神教というものが如何なるものよくわかってなかったのだ。


 エジプトのカイロからアレクサンドリアに至る一面平野の大穀倉地帯を見てから荒涼としたイスラエルの地は全く印象が異なる。キリスト教徒でない安治が見ても天と地だ。


 そこかしこに山や緑があり、雨も沢山降る日本とは別世界であり、生活様式も異なる。これまで様々な国を見てきた安治からすれば土地にあった信仰こそ、大事だと思えた。それは一行のキリスト教徒も薄々感じたようだ。


 安治たちは時折陸地へ上陸しつつ、航海を重ねキプロス島へ到着。現在でこそオスマン朝の支配下だが、以前はヴェネツィア領だった。


 西暦1570年、オスマン朝はキプロス島の割譲をヴェネツィアへ迫るも拒絶される。そして西暦1571年、教皇領、イスパニア、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ナポリ、シチリア、パルマ、トスカーナ、サヴォイア、ウルビーノ、マルタなどが第2次神聖同盟を組織したのだ。


 こうして、キプロス島を巡り、第4次オスマン・ヴェネツィア戦争が始まった。ヴェネツィアには神聖同盟が加勢。実質的にはオスマン朝対イスパニア・イタリア連合という図式だ。


 オスマン朝は優勢に事を進め、キプロス島をほぼ占領してしまう。しかし、神聖同盟側は主にイスパニア・ヴェネツィア・教皇領で連合艦隊を結成する。


 レパントの海戦でオスマン朝艦隊を撃破。オスマン朝は海戦で惨敗するも、直ぐ様海軍を再建し、巻き返す。ヴェネツィアは圧力に耐えかね、キプロス島をオスマン朝へ割譲や貢物を支払うという和平交渉を余儀なくされた。


 キプロス島を発した安治たちは、西暦1592年2月(グレゴリオ暦)にコンスタンティニイェへ到着。安治がこれまで見たどんな街より壮麗だった。トルコのオスマン朝皇帝ムラト3世への謁見が許され、皇太子のメフメト3世と実務的な話し合いを行う。


 ポルトガルやイスパニアのアジアにおける活動は興味深いようで、細かく聞かれた。しかし、安治は幕府よりの指示でオスマン朝と交渉する際、通商条約を結んでも同盟は当面不可だとされている。


 そのため妙な気を起こして、対イスパニアとポルトガルの共同作戦など提案されないよう慎重な対応に終始。先ずは輸出入ともに関税5%での通商条約を取り付け、カイロへの商館設置と現在のスエズに倉庫や屋敷などの建設が認可された。


 さらに、日本へ連れて行く学者や技術者などの便宜を受け、望み通りの結果となる。当初、オスマン朝廷内に強硬な意見もあった。しかし、日本刀、銃、活版印刷の書籍などを見て、かなりの強国だと判断された。


 また、オスマン朝は以前インド艦隊を作ったがポルトガルの拠るホルムズ攻略は叶わず、インドへも到着ではなく漂着という結果だ。4度遠征しているが、2度目の遠征を指揮したのはアフメット・ムヒッディン・ピリー提督である。


 グラハム・ハンコック著「神々の指紋」で一躍有名になったピリ・レイス地図のピリはピリー提督を指す(レイスは提督の意味)。地図には発見される前の南極が描かれており、氷に閉ざされてない正確な地形だという。


 定説だと南極は1400万年前、氷に覆われたとされており、サヘラントロプス・チャデンシス(猿人。現在、アウストラロピテクスに代わって最古の人類扱い)さえ存在していない。


 なので、数万年前一時氷が溶けて暖かったなどという主張や宇宙人だとかいわれ、オーパーツ扱いとなっている。話を戻すと、日本がポルトガルをアラビア海から駆逐してくれるかも知れないという期待もあるようだ。


 政治的な話が終わると、安治たちは植物の採集など行いつつ、見学をしてまわるのだった。

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